城下町建設前の福山平野海岸線の推定

備陽史探訪:182号」より

瀬良 泰三

いままで城下町建設前の福山平野海岸線についてはいろいろ推定されているが、最終的には、実際の平野の標高分布から物理的に検討するのが最も確実と思われる。

城下町建設後福山平野の治水、河川の洪水コントロールが出来た後は「洪水による堆積」はほとんどないものと考えられるので、その後人工的な埋め立て等で改変された場所以外は当時の標高を示しているものと推定できる。

現在手に入る標高データで最も正確と思われるものは、国土地理院が航空機からレーザーで測定したものであろう。このレーザー測定の標高図から当時の海岸線を推定してみた。

この測定法は、航空機からレーザーで地表面をスキャンし、その距離から標高を算出するものであるが、実際の福山のような都市部では、建物、樹木等の上端も測定してしまう。そのため、測定パターンから、このような建物とか樹木は測定値からキャンセルし純粋に地表面の位置を算出する仕組みになっている。精度は±15㎝と言われている。

さてその測定された結果から色分けされた標高図が作成発表されているので、それを利用して推定してみた。ただ平野部のように標高差があまりない場所では、色の変化が小さくそのままでは読み取れないので、画像処理ソフトで色の差を強調しわかりやすくした。それが図1である。

図1 城下町以前の海岸線推定
図1 城下町以前の海岸線推定

この図の中のグレーの部分と白い部分との境界がほぼ当時の満潮汀線を示している。この上に前報の城下町の外形を描いてみた。内側は正保絵図、外側は水野期末の外形であるが、ほぼ見事にグレーの部分に重なる。このグレーの一番薄い部分で標高約1.9mであり、現在の潮位で見ると大潮の高い時で2.0m程度なのでその時には少し海水を被る。ただ当時江戸時代初期は寒冷期であり潮位が現在より数十㎝低かったと考えられるのでこの辺が海岸線で間違いないであろう。(全地球的には現在より1800年代後期で約20㎝、日本近海では約10㎝低い。江戸時代初期ではさらに気温が低くもう少し海面は後退していたと考えられる)

城下町以前は、福山城の位置に常興寺が、福山八幡から妙政寺にかけて永徳寺が存在していた。当然その門前には町があったと考えられ、常興寺には今の長者町の前身、永徳寺には吉津庄白子村が存在した。また常興寺の西の高まりには椙原保から変わった野上村も存在した。(現長者町も野上村の一部で、のちに古野上へ移動させられたのは、百姓のみで、町屋は残ったということかもしれない)

野上村の百姓は城下町建設に伴い移動させられることになるが、移動先を見てみると、図のようにやはり周りより高い土地を選んで移動したことがわかる。

また図には当時の推定される道も記入したが、やはり周りより高い土地に作られている。

図2 南町周辺の池(1660年代)
図2 南町周辺の池(1660年代)
正保絵図による城下町外形線の中を見てみると、入り江をはさんで北の御舟町あたりと、南の南町、住吉町あたりの標高が低いのがわかる。この南の南町周辺の低い辺りが最初に干拓された野上新開にあたる部分である。この部分には図2に示すようにその後も絵図に低地のためか、しばらく池が多く描かれている。

入り江の北の低い部分は、御舟入が作られ利用されることになる。

城下町南の“惣構え”が手薄に見えるのは、当初南が海であった為必要が無かったことも原因であろう。

図3 芦田川流路
図3 芦田川流路
図3は前述の標高分布図で芦田川流路を強調してみたものである。これでもわかるように流路は山手町で西の山側に大きく蛇行し神島の北側を通り山陽線鉄橋あたりから福山平野に流れ込む。そこから扇形に氾濫原が広がっている。この氾濫原は通常の芦田川の流量では、この一部(一つは山陽線あたりを東流し、常興寺山の南山麓をかすめて天下橋から入江に繋がる。もう一つは通安寺西を南流し西保育所あたりから道三川に繋がる。)を細い流れとして流れているにすぎないが一旦大雨が降ると水につかる部分であり、ほとんどは砂や芦原であったと思われる。山陽線が通っているあたりは近年まで池が多く、池の淵の地名もそれを示している。そして周辺の大きく水につからないあたりが野上村の田畠として使用されていたのであろう。つまり文字通り芦・田・川であった。

芦田川の堤防を作り流れを南に変えた後の正保城絵図を見ても能満池の西には深田と書かれているが、長者町の西辺りには畠としか書かれず土地の高低が読み取れる。

図4 旧河道
図4 旧河道
図4に福山平野の治水地形分類図を示す。黒い部分が旧河道で少し薄い部分が自然堤防であるが、やはり山陽線が通っているあたりに旧河道が存在していることがわかる。また現ポートプラザの東には入り江と別に旧河道が認められる。干拓以前の芦田川は干潟の中を自由に流路を変えながら流れていたのであろう。

以上の結果をもとに、いくらか想像を加えて城下町以前の福山を描いてみた想像図が図5である。白い部分が陸の平野部分(少し暗い部分は氾濫原)で、その先が干潟であるが、潮位をほぼ平均海面(満潮と干潮の中間点)としているので、干潮の時はこの干潟はさらに沖まで伸びる。

吉津川、神島南の瀬戸川は後の開削と思われるので描いていない。

この地勢を見て勝成はこう考えたのであろう。「芦田川の流れを変えて南に城下町を作ろう。元の河道は南の堀として使える。その先も入江として海に繋がる水路として使える。どうせ城の北にも堀を作らなければいけないので、芦田川の流れを神島のところで少し北に曲げて城の北を通すようにすれば、一石三鳥だ。西には「能満が淵」や「青龍が淵」があり天然の堀となっている。南と東は海だし、これで城下町の防御は完璧だ。」と。ところが・・・

元和6年5月雨が降り続き洪水となり、たぶんその流路を曲げたあたりから決壊した。そうなると流れ出た洪水の方向が真正面で城を直撃することになり、その水の勢いでせっかく築いた石垣が崩れるような被害が出てしまった。

そこでしかたがないので勝成は山手を蛇行している芦田川の流路を城に向かないように本庄を突っ切ってまっすぐ南に流すように変更したと思われる。

正保城絵図を見ると、吉津川の芦田川からの分岐が流れに逆らって南から北になっていていかにも不自然であるが、これは元の北東に向かう吉津川の流路と南に向かうようにした芦田川をそのままつなげたからであろう。

このように視覚的に見てみると、今までもやもやしていたイメージが具体的なイメージとして湧いてくるので面白い。

図5 城下町以前福山想像図
図5 城下町以前福山想像図

【福山城】城下町建設前の福山平野海岸線の推定https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/05/d7438aeecb9d0a43006866bfc007288d-1024x657.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/05/d7438aeecb9d0a43006866bfc007288d-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:182号」より 瀬良 泰三 いままで城下町建設前の福山平野海岸線についてはいろいろ推定されているが、最終的には、実際の平野の標高分布から物理的に検討するのが最も確実と思われる。 城下町建設後福山平野の治水、河川の洪水コントロールが出来た後は「洪水による堆積」はほとんどないものと考えられるので、その後人工的な埋め立て等で改変された場所以外は当時の標高を示しているものと推定できる。 現在手に入る標高データで最も正確と思われるものは、国土地理院が航空機からレーザーで測定したものであろう。このレーザー測定の標高図から当時の海岸線を推定してみた。 この測定法は、航空機からレーザーで地表面をスキャンし、その距離から標高を算出するものであるが、実際の福山のような都市部では、建物、樹木等の上端も測定してしまう。そのため、測定パターンから、このような建物とか樹木は測定値からキャンセルし純粋に地表面の位置を算出する仕組みになっている。精度は±15㎝と言われている。 さてその測定された結果から色分けされた標高図が作成発表されているので、それを利用して推定してみた。ただ平野部のように標高差があまりない場所では、色の変化が小さくそのままでは読み取れないので、画像処理ソフトで色の差を強調しわかりやすくした。それが図1である。 この図の中のグレーの部分と白い部分との境界がほぼ当時の満潮汀線を示している。この上に前報の城下町の外形を描いてみた。内側は正保絵図、外側は水野期末の外形であるが、ほぼ見事にグレーの部分に重なる。このグレーの一番薄い部分で標高約1.9mであり、現在の潮位で見ると大潮の高い時で2.0m程度なのでその時には少し海水を被る。ただ当時江戸時代初期は寒冷期であり潮位が現在より数十㎝低かったと考えられるのでこの辺が海岸線で間違いないであろう。(全地球的には現在より1800年代後期で約20㎝、日本近海では約10㎝低い。江戸時代初期ではさらに気温が低くもう少し海面は後退していたと考えられる) 城下町以前は、福山城の位置に常興寺が、福山八幡から妙政寺にかけて永徳寺が存在していた。当然その門前には町があったと考えられ、常興寺には今の長者町の前身、永徳寺には吉津庄白子村が存在した。また常興寺の西の高まりには椙原保から変わった野上村も存在した。(現長者町も野上村の一部で、のちに古野上へ移動させられたのは、百姓のみで、町屋は残ったということかもしれない) 野上村の百姓は城下町建設に伴い移動させられることになるが、移動先を見てみると、図のようにやはり周りより高い土地を選んで移動したことがわかる。 また図には当時の推定される道も記入したが、やはり周りより高い土地に作られている。 正保絵図による城下町外形線の中を見てみると、入り江をはさんで北の御舟町あたりと、南の南町、住吉町あたりの標高が低いのがわかる。この南の南町周辺の低い辺りが最初に干拓された野上新開にあたる部分である。この部分には図2に示すようにその後も絵図に低地のためか、しばらく池が多く描かれている。 入り江の北の低い部分は、御舟入が作られ利用されることになる。 城下町南の“惣構え”が手薄に見えるのは、当初南が海であった為必要が無かったことも原因であろう。 図3は前述の標高分布図で芦田川流路を強調してみたものである。これでもわかるように流路は山手町で西の山側に大きく蛇行し神島の北側を通り山陽線鉄橋あたりから福山平野に流れ込む。そこから扇形に氾濫原が広がっている。この氾濫原は通常の芦田川の流量では、この一部(一つは山陽線あたりを東流し、常興寺山の南山麓をかすめて天下橋から入江に繋がる。もう一つは通安寺西を南流し西保育所あたりから道三川に繋がる。)を細い流れとして流れているにすぎないが一旦大雨が降ると水につかる部分であり、ほとんどは砂や芦原であったと思われる。山陽線が通っているあたりは近年まで池が多く、池の淵の地名もそれを示している。そして周辺の大きく水につからないあたりが野上村の田畠として使用されていたのであろう。つまり文字通り芦・田・川であった。 芦田川の堤防を作り流れを南に変えた後の正保城絵図を見ても能満池の西には深田と書かれているが、長者町の西辺りには畠としか書かれず土地の高低が読み取れる。 図4に福山平野の治水地形分類図を示す。黒い部分が旧河道で少し薄い部分が自然堤防であるが、やはり山陽線が通っているあたりに旧河道が存在していることがわかる。また現ポートプラザの東には入り江と別に旧河道が認められる。干拓以前の芦田川は干潟の中を自由に流路を変えながら流れていたのであろう。 以上の結果をもとに、いくらか想像を加えて城下町以前の福山を描いてみた想像図が図5である。白い部分が陸の平野部分(少し暗い部分は氾濫原)で、その先が干潟であるが、潮位をほぼ平均海面(満潮と干潮の中間点)としているので、干潮の時はこの干潟はさらに沖まで伸びる。 吉津川、神島南の瀬戸川は後の開削と思われるので描いていない。 この地勢を見て勝成はこう考えたのであろう。「芦田川の流れを変えて南に城下町を作ろう。元の河道は南の堀として使える。その先も入江として海に繋がる水路として使える。どうせ城の北にも堀を作らなければいけないので、芦田川の流れを神島のところで少し北に曲げて城の北を通すようにすれば、一石三鳥だ。西には「能満が淵」や「青龍が淵」があり天然の堀となっている。南と東は海だし、これで城下町の防御は完璧だ。」と。ところが・・・ 元和6年5月雨が降り続き洪水となり、たぶんその流路を曲げたあたりから決壊した。そうなると流れ出た洪水の方向が真正面で城を直撃することになり、その水の勢いでせっかく築いた石垣が崩れるような被害が出てしまった。 そこでしかたがないので勝成は山手を蛇行している芦田川の流路を城に向かないように本庄を突っ切ってまっすぐ南に流すように変更したと思われる。 正保城絵図を見ると、吉津川の芦田川からの分岐が流れに逆らって南から北になっていていかにも不自然であるが、これは元の北東に向かう吉津川の流路と南に向かうようにした芦田川をそのままつなげたからであろう。 このように視覚的に見てみると、今までもやもやしていたイメージが具体的なイメージとして湧いてくるので面白い。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
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