榎木峠3【宝暦の一揆】

備陽史探訪:182号」より

根岸 尚克

宝暦二年(一七五三)福山領は夏の旱魃、秋の長雨で農作物は殆ど実らず、農民は草の根、木の皮を食べても尚不足の有様であった。こうした大飢饉の中、福山藩三代藩主阿部正右は幕閣における猟官運動に多額の出費を必要とした為、翌宝暦三年二月、郡中に石高割りで三百五十貫目、福山城下と鞆町で百貫目の御用銀を賦課した。それ迄に福山藩領内では、享保十七年(一七三三)から十八年の虫害飢饉、十九年二月四日酉刻の火災で千百五十軒の焼失、寛保二年(一七四三)の利根川等の普請手伝い等で莫大な出費を強いられ、藩財政は破綻寸前であった。そこで藩札を濫発して急場を凌いでいた。濫発で信用を失った藩札を下値で売買した者は入牢させるという状況で、領民はこれ以上の負担に堪え切れない状況であった。神辺町では「御願ニ出申」の立札が出現した(菅波家日記)。原因不明の怪異と見紛う人の声や女の悲鳴が聞こえ、人々は斯様な事が打ち続けば如何様成事の有らんやと固唾を飲んでいた(家譜永代録)。そして遂に農民達の怒りが爆発した。

宝暦三年二月二十八日夜、品治郡加茂谷奥に集結した農民達は山上で烽火を掲げ寺で早鐘を突き、享保の一揆に倣って天王川原に二万人が集結。一夜明けた二十九日、府中市村の庄屋長門屋を皮切に、中須村宮内村戸手村と庄屋を襲い、新市では千貫屋味噌屋を打ち壊した、翌三十日午後には安那郡川北村川南村の庄屋宅を襲い、夜半に南部から加わった人数と神辺の町内や碇山(片山)で一夜を明かした。三月一日には下竹田村の庄屋を襲い、南に下り宇山村と三吉村の庄屋を打ち壊した。

時を同じくして沼隈郡でも一揆が蜂起、山南村の西向屋を襲ったあと、松永、赤坂、神、草戸等の村々の庄屋を襲った。

この事態に驚愕した藩は、二十九日に西部方面に代官を派遣して鎮撫にあたろうとするが失敗。神辺当りにも恐怖心から行けず帰ってしまった。そこで改めて翌三十日に大目付石黒弾左衛門、内田源五左衛門が郡奉行、代官を率いて川南村庄屋宅で状況を聞き「願いの筋あらば聞き届けてつかわす。穏やかに書面を以って申し出よ」の張り紙をして帰る。三月一日には情報を得て下竹田に大目付等が赴くが前述の通り庄屋宅は打ち壊された後であった。然し、張り紙の効果があったものか、神辺町内、平野、下竹田と一揆勢が西に引き揚げ始めた。享保の一揆に倣って、千田村から榎木峠を越えて、惣門で訴え出ようとしたのであろうか。そこで内田源左衛門は高橋仁兵衛と共に横尾に移動した。然し沼隈方面の鎮撫に向った柴崎茂右衛門と最上要人の両名は説得に失敗した。そこで藩は改めて「願の通りに仰せ付けらる」(菅波家日記)と声明して騒動は鎮静化したのである。声明の内容は、御用銀三百五十貫目の免除、新藩札通用強制の中止であった。

然しこの度の一揆では農民側に犠牲者が出てしまった。これは幕府が寛延三年(一七五〇)一撞き二十日に百姓の徒党強訴逃散禁止令を出し、首謀者は厳罰に処する様命じた事による。又、幕府奏者番としての藩主正右の面目に係わる事でもあった。藩は三月十四日に郡中百姓総代を召し出し「覚」を読み聞かせ首謀者を差し出す様命じた。


此度村々百姓共、訴訟として大勢相催頭取手分致、村々誘立、一味同意之無者も理不尽に引立、民家へ乱入家居家財を打崩し狼藉千万の筋、近在迄も騒動に及び候段、上を憚らざる仕形に候。去る午年(寛延三年)公儀より御書付を以て仰せ出られ候砌、郡中残らず相触候趣、村々末末迄も承知たるべく候。都強訴徒党逃散之儀堅く停止候。右躰之儀之あるに於いては、急度吟味を遂げ、頭取并指し続き事を工み候者、夫々へ急度曲事仰せ付らるべき旨に候。左候えば公儀に対し候ても、御仕置に背き候儀、重罪之事に候。併勘弁疎き百姓共願の筋行届兼候儀と心得違之事、訴訟の仕形も之有るべき所不届千万言語道断に候。然れども御宥免其分に差し置かれ願の通り仰せ付けられ候上は、向後庄屋役人の申付候儀を能々相守り農業専一に致し百姓相勤むべき者也。

こうして分け郡岩成村の「安十」と「友七」が榎木峠で打ち首獄門となった。藩側では郡奉行小倉清兵衛・座間十郎左衛門・井上八左衛門・郡代官高橋仁兵衛・川村藤右衛門・楢崎文助が閉門。大目付内田源左衛門は一揆慰撫に功有りとして御上下と御腰物を頂戴している。

藩内では宝暦三年には麻疹痢病が流行。百姓達立騒ぐのうわさで代官出動するも何事も無く(家譜永代録)と社会不安な情況が続いた。

現在の御幸町下岩成の光圓寺から西之三筋目の一画に九兵衛墓と伝えられる一画があり、その昔村の為に尽くしてくれた有り難い人の墓があった、との伝承がある。これは安十・友七の墓の跡だと思われる。

戦時中たまたま暗渠排水工事でここを掘ったところ、木棺らしきもの二個、墓石の破片、仏具等が見つかった。獄門になった者の死骸は返されないので骨は出なかった。

私考すると、安十・友七の名は絶対に口に出来ない、そしてあの世でも二人は同志であるという考えから、十と七の字を横に並べれば九に近い形になるので九兵衛墓として後世に伝えようとしたのでは無いだろうか。

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https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2014/09/5495a6012727e6dcac6c6f8a8afa2458.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2014/09/5495a6012727e6dcac6c6f8a8afa2458-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:182号」より 根岸 尚克 宝暦二年(一七五三)福山領は夏の旱魃、秋の長雨で農作物は殆ど実らず、農民は草の根、木の皮を食べても尚不足の有様であった。こうした大飢饉の中、福山藩三代藩主阿部正右は幕閣における猟官運動に多額の出費を必要とした為、翌宝暦三年二月、郡中に石高割りで三百五十貫目、福山城下と鞆町で百貫目の御用銀を賦課した。それ迄に福山藩領内では、享保十七年(一七三三)から十八年の虫害飢饉、十九年二月四日酉刻の火災で千百五十軒の焼失、寛保二年(一七四三)の利根川等の普請手伝い等で莫大な出費を強いられ、藩財政は破綻寸前であった。そこで藩札を濫発して急場を凌いでいた。濫発で信用を失った藩札を下値で売買した者は入牢させるという状況で、領民はこれ以上の負担に堪え切れない状況であった。神辺町では「御願ニ出申」の立札が出現した(菅波家日記)。原因不明の怪異と見紛う人の声や女の悲鳴が聞こえ、人々は斯様な事が打ち続けば如何様成事の有らんやと固唾を飲んでいた(家譜永代録)。そして遂に農民達の怒りが爆発した。 宝暦三年二月二十八日夜、品治郡加茂谷奥に集結した農民達は山上で烽火を掲げ寺で早鐘を突き、享保の一揆に倣って天王川原に二万人が集結。一夜明けた二十九日、府中市村の庄屋長門屋を皮切に、中須村宮内村戸手村と庄屋を襲い、新市では千貫屋味噌屋を打ち壊した、翌三十日午後には安那郡川北村川南村の庄屋宅を襲い、夜半に南部から加わった人数と神辺の町内や碇山(片山)で一夜を明かした。三月一日には下竹田村の庄屋を襲い、南に下り宇山村と三吉村の庄屋を打ち壊した。 時を同じくして沼隈郡でも一揆が蜂起、山南村の西向屋を襲ったあと、松永、赤坂、神、草戸等の村々の庄屋を襲った。 この事態に驚愕した藩は、二十九日に西部方面に代官を派遣して鎮撫にあたろうとするが失敗。神辺当りにも恐怖心から行けず帰ってしまった。そこで改めて翌三十日に大目付石黒弾左衛門、内田源五左衛門が郡奉行、代官を率いて川南村庄屋宅で状況を聞き「願いの筋あらば聞き届けてつかわす。穏やかに書面を以って申し出よ」の張り紙をして帰る。三月一日には情報を得て下竹田に大目付等が赴くが前述の通り庄屋宅は打ち壊された後であった。然し、張り紙の効果があったものか、神辺町内、平野、下竹田と一揆勢が西に引き揚げ始めた。享保の一揆に倣って、千田村から榎木峠を越えて、惣門で訴え出ようとしたのであろうか。そこで内田源左衛門は高橋仁兵衛と共に横尾に移動した。然し沼隈方面の鎮撫に向った柴崎茂右衛門と最上要人の両名は説得に失敗した。そこで藩は改めて「願の通りに仰せ付けらる」(菅波家日記)と声明して騒動は鎮静化したのである。声明の内容は、御用銀三百五十貫目の免除、新藩札通用強制の中止であった。 然しこの度の一揆では農民側に犠牲者が出てしまった。これは幕府が寛延三年(一七五〇)一撞き二十日に百姓の徒党強訴逃散禁止令を出し、首謀者は厳罰に処する様命じた事による。又、幕府奏者番としての藩主正右の面目に係わる事でもあった。藩は三月十四日に郡中百姓総代を召し出し「覚」を読み聞かせ首謀者を差し出す様命じた。 覚 此度村々百姓共、訴訟として大勢相催頭取手分致、村々誘立、一味同意之無者も理不尽に引立、民家へ乱入家居家財を打崩し狼藉千万の筋、近在迄も騒動に及び候段、上を憚らざる仕形に候。去る午年(寛延三年)公儀より御書付を以て仰せ出られ候砌、郡中残らず相触候趣、村々末末迄も承知たるべく候。都強訴徒党逃散之儀堅く停止候。右躰之儀之あるに於いては、急度吟味を遂げ、頭取并指し続き事を工み候者、夫々へ急度曲事仰せ付らるべき旨に候。左候えば公儀に対し候ても、御仕置に背き候儀、重罪之事に候。併勘弁疎き百姓共願の筋行届兼候儀と心得違之事、訴訟の仕形も之有るべき所不届千万言語道断に候。然れども御宥免其分に差し置かれ願の通り仰せ付けられ候上は、向後庄屋役人の申付候儀を能々相守り農業専一に致し百姓相勤むべき者也。 こうして分け郡岩成村の「安十」と「友七」が榎木峠で打ち首獄門となった。藩側では郡奉行小倉清兵衛・座間十郎左衛門・井上八左衛門・郡代官高橋仁兵衛・川村藤右衛門・楢崎文助が閉門。大目付内田源左衛門は一揆慰撫に功有りとして御上下と御腰物を頂戴している。 藩内では宝暦三年には麻疹痢病が流行。百姓達立騒ぐのうわさで代官出動するも何事も無く(家譜永代録)と社会不安な情況が続いた。 現在の御幸町下岩成の光圓寺から西之三筋目の一画に九兵衛墓と伝えられる一画があり、その昔村の為に尽くしてくれた有り難い人の墓があった、との伝承がある。これは安十・友七の墓の跡だと思われる。 戦時中たまたま暗渠排水工事でここを掘ったところ、木棺らしきもの二個、墓石の破片、仏具等が見つかった。獄門になった者の死骸は返されないので骨は出なかった。 私考すると、安十・友七の名は絶対に口に出来ない、そしてあの世でも二人は同志であるという考えから、十と七の字を横に並べれば九に近い形になるので九兵衛墓として後世に伝えようとしたのでは無いだろうか。 【関連記事】 榎木峠1 榎木峠2【享保の一揆】備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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