榎木峠2【享保の一揆】

備陽史探訪:180号」より

根岸 尚克

宝永八年(改元して正徳元年、一七一一)七月二十二日、松平氏に代って福山に入城した阿部正邦は入封早々年貢の増税を計り、三分高免(三分税率を上げる)とし、正徳三年からは新たに引一毛引物といって裏作物(豆や野菜等)にも課税した。因みに当時の阿部家家臣は江戸詰三百七十七(※)、国元三百七十六名であった(長生院御代正徳四年江戸福山御家中)。正邦は正徳五年江戸で没した。

二代藩主は正福であるが入封早々一揆に見舞われた。享保二年(一七一七)の夏は旱魃で畑作は皆無に等しかった。田作も半作で、八月には長雨で木綿が開花せず、村役人は平年作の四二・五%と査定し、「郡々村々田木綿旱不足毛上見付帳」に諸作物の凶作の現状を記し藩に提出し、年貢減免を願ったが藩は聞き入れず、貢米が無ければ米石代を銀で納入せよ。それも米、銀の換算価格を近隣は一石百二十二・三匁の所百六十八匁と定めた。農民達は八割五分迄は納めた。藩は年末迄には完納せよと責め立てた。ここに来て農民達の怒りは爆発した。思い余った品治郡宮内村の源右衛門が仲間を誘い、榎木峠を越え年貢減免と検見の公正を越訴した。無論死を覚悟の事であった。

これが全藩一揆の口火となった。これを伝え聞いた芦田・品治両郡の農民は城下に越訴する覚悟を固めた。十二月五日新市の天王川原に集合して一揆を決め、各々村に帰って参加を呼び掛けた。参加しない家は村八分にするといった方法であった。

二日後の十二月七日に城下を目指す一揆勢は六千人、千田村横尾村迄来た頃には先鋒は榎木峠を占領している。惣門番所からの注進で吃驚した藩は代官、足軽二十人で横尾迄出向き願いの筋は善処する事を約したので一揆勢は引きあげた。然し数日経ても回答が無いので催促すると十二月十四日回答が出た。

大痛みの村(常・金丸・広谷・町村・上安井・下安井・宮内・戸手)には百石に付き七石を三年賦返還で、中痛みの村(中須・高木・府川・父石・目崎・府中市・出口・新市)には五石に付き二年賦返還で、他領内全村には一石四斗六升あて一年賦返還で計二千石の米を貸与する

というもので、年貢の減免と検見の公正の要求には何の回答も無い。騙されたと知った農民は再び一揆の様相となり芦田・品治両郡以外の郡にも一揆が拡大した。

沼隈・安那両郡の農民も早くから芦田・品治両郡とは別に一揆を組み越訴の計画を立てていたので十二月二十日に実行しようとしたが、大雪の為二十七日になり、結局翌享保三年正月五日に藩に願いの筋を差し出し、再決起した芦田・品治両郡の一揆勢は沼隈・安那両郡一揆勢と合流し、正月八日から十一日にかけて城下の包囲態勢を作り、郊外の要所要所に集結した一揆勢は昼夜となく気勢をあげ全藩一揆爆発寸前の有様となった。驚愕した藩の家老達は十九歳の藩主正福に対策を伺っても妙案が有る筈も、猶予も無く次の様な回答を一揆側に示した。

一、稗二千石を支給。二、引一毛引物は取り止める。三、石代銀納の値段は米一石当り百六十匁に下げる。四、他の願いの箇条も悉く聞き届ける。こうして一揆は収束に向かい農民達は帰村した。更に一月十四日一揆側から駄目押しされた家老の命で十五カ条の「覚え」を領内に布達した。主要な条項は次の通り。

  • 享保二年の年貢分二千石を百姓に返却する。
  • 定免を止め坪検見とし、出張り役人数を少なくする。然し役人の出在費用は藩で弁済するが、この為の大割銀五貫七百匁は従前通り納入する。
  • 荒地・溝下になる事によって生じた引け高については良く検討する。
  • 水害多発地では畑について、山村の獣害多発地では田畑について検見を実施する。更に木綿・綿・雑穀の損毛についても同様の扱いとする。
  • 裏作麦に対する年貢は今後免除する。
  • 種籾・種麦の貸付は水野時代同様の慣例によって実施する。
  • 春納の御蔵米については銀納一本を止め、現米・現銀とも各農民の都合の良い方で納入する。
  • 村々から出す御普請人足は今後免除する。
  • 所定の運上銀を納めれば、御林の下草は肥料として採取して良い。
  • 石代銀納時の米の値段は十分詮議を尽くして決める。
  • 御誂え表を沼隈郡草深村御蔵元で各村に割当て納入する事を止め藩の買入とする。

(岡本家文書同日覚)

かくて享保の一揆は農民側に一人の犠牲者を出す事無く落着した。然し享保十七年から十八年の虫付飢饉で多数の餓死者を出し、十九年二月四日の酉刻に笠岡町からの出火で住宅一千百五十軒が焼失し、正徳六年(一七一六)には将軍家日光参拝の御名代を勤めたり、寛保二年(一七四二)には幕命で関東諸川の浚治を掌った後、延享二年(一七四五)には大阪城代に就任したりで藩財政は苦しくなって行くばかりであった。

そして延享四年には病の為辞任し、翌寛延元年(一七四八)に致仕(辞職)して家督を正右に譲り、明和六年(一七六九)江戸で死去した。七十歳であった。

榎木峠の騒擾は未だ続く。

【訂正】
※180号掲載の文中では「阿部家家臣は江戸詰三千七十七」と誤っていましたが、「三百七十七」に訂正しています。

【関連記事】
榎木峠1
榎木峠3【宝暦の一揆】

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2014/09/5495a6012727e6dcac6c6f8a8afa2458.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2014/09/5495a6012727e6dcac6c6f8a8afa2458-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:180号」より 根岸 尚克 宝永八年(改元して正徳元年、一七一一)七月二十二日、松平氏に代って福山に入城した阿部正邦は入封早々年貢の増税を計り、三分高免(三分税率を上げる)とし、正徳三年からは新たに引一毛引物といって裏作物(豆や野菜等)にも課税した。因みに当時の阿部家家臣は江戸詰三百七十七(※)、国元三百七十六名であった(長生院御代正徳四年江戸福山御家中)。正邦は正徳五年江戸で没した。 二代藩主は正福であるが入封早々一揆に見舞われた。享保二年(一七一七)の夏は旱魃で畑作は皆無に等しかった。田作も半作で、八月には長雨で木綿が開花せず、村役人は平年作の四二・五%と査定し、「郡々村々田木綿旱不足毛上見付帳」に諸作物の凶作の現状を記し藩に提出し、年貢減免を願ったが藩は聞き入れず、貢米が無ければ米石代を銀で納入せよ。それも米、銀の換算価格を近隣は一石百二十二・三匁の所百六十八匁と定めた。農民達は八割五分迄は納めた。藩は年末迄には完納せよと責め立てた。ここに来て農民達の怒りは爆発した。思い余った品治郡宮内村の源右衛門が仲間を誘い、榎木峠を越え年貢減免と検見の公正を越訴した。無論死を覚悟の事であった。 これが全藩一揆の口火となった。これを伝え聞いた芦田・品治両郡の農民は城下に越訴する覚悟を固めた。十二月五日新市の天王川原に集合して一揆を決め、各々村に帰って参加を呼び掛けた。参加しない家は村八分にするといった方法であった。 二日後の十二月七日に城下を目指す一揆勢は六千人、千田村横尾村迄来た頃には先鋒は榎木峠を占領している。惣門番所からの注進で吃驚した藩は代官、足軽二十人で横尾迄出向き願いの筋は善処する事を約したので一揆勢は引きあげた。然し数日経ても回答が無いので催促すると十二月十四日回答が出た。 大痛みの村(常・金丸・広谷・町村・上安井・下安井・宮内・戸手)には百石に付き七石を三年賦返還で、中痛みの村(中須・高木・府川・父石・目崎・府中市・出口・新市)には五石に付き二年賦返還で、他領内全村には一石四斗六升あて一年賦返還で計二千石の米を貸与する というもので、年貢の減免と検見の公正の要求には何の回答も無い。騙されたと知った農民は再び一揆の様相となり芦田・品治両郡以外の郡にも一揆が拡大した。 沼隈・安那両郡の農民も早くから芦田・品治両郡とは別に一揆を組み越訴の計画を立てていたので十二月二十日に実行しようとしたが、大雪の為二十七日になり、結局翌享保三年正月五日に藩に願いの筋を差し出し、再決起した芦田・品治両郡の一揆勢は沼隈・安那両郡一揆勢と合流し、正月八日から十一日にかけて城下の包囲態勢を作り、郊外の要所要所に集結した一揆勢は昼夜となく気勢をあげ全藩一揆爆発寸前の有様となった。驚愕した藩の家老達は十九歳の藩主正福に対策を伺っても妙案が有る筈も、猶予も無く次の様な回答を一揆側に示した。 一、稗二千石を支給。二、引一毛引物は取り止める。三、石代銀納の値段は米一石当り百六十匁に下げる。四、他の願いの箇条も悉く聞き届ける。こうして一揆は収束に向かい農民達は帰村した。更に一月十四日一揆側から駄目押しされた家老の命で十五カ条の「覚え」を領内に布達した。主要な条項は次の通り。 享保二年の年貢分二千石を百姓に返却する。 定免を止め坪検見とし、出張り役人数を少なくする。然し役人の出在費用は藩で弁済するが、この為の大割銀五貫七百匁は従前通り納入する。 荒地・溝下になる事によって生じた引け高については良く検討する。 水害多発地では畑について、山村の獣害多発地では田畑について検見を実施する。更に木綿・綿・雑穀の損毛についても同様の扱いとする。 裏作麦に対する年貢は今後免除する。 種籾・種麦の貸付は水野時代同様の慣例によって実施する。 春納の御蔵米については銀納一本を止め、現米・現銀とも各農民の都合の良い方で納入する。 村々から出す御普請人足は今後免除する。 所定の運上銀を納めれば、御林の下草は肥料として採取して良い。 石代銀納時の米の値段は十分詮議を尽くして決める。 御誂え表を沼隈郡草深村御蔵元で各村に割当て納入する事を止め藩の買入とする。 (岡本家文書同日覚) かくて享保の一揆は農民側に一人の犠牲者を出す事無く落着した。然し享保十七年から十八年の虫付飢饉で多数の餓死者を出し、十九年二月四日の酉刻に笠岡町からの出火で住宅一千百五十軒が焼失し、正徳六年(一七一六)には将軍家日光参拝の御名代を勤めたり、寛保二年(一七四二)には幕命で関東諸川の浚治を掌った後、延享二年(一七四五)には大阪城代に就任したりで藩財政は苦しくなって行くばかりであった。 そして延享四年には病の為辞任し、翌寛延元年(一七四八)に致仕(辞職)して家督を正右に譲り、明和六年(一七六九)江戸で死去した。七十歳であった。 榎木峠の騒擾は未だ続く。 【訂正】 ※180号掲載の文中では「阿部家家臣は江戸詰三千七十七」と誤っていましたが、「三百七十七」に訂正しています。 【関連記事】 榎木峠1 榎木峠3【宝暦の一揆】備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
詳しくは以下のリンクをご覧ください。 近世福山の歴史を学ぶ