「備陽史探訪:178号」より
根岸 尚克
惣門跡の東の筋を北に向かい北吉津交番を過ぎると「従是東 京大坂道 従是北 石州道」と彫られた道標(高さ一m三五)の立つ交差点に出る。ここから緩やかな上り坂となり、実相寺当りから少し急な坂となりRCCの放送局の入口当りが頂上となる。この坂が榎木峠である。
榎木峠 磔塲火屋 千人壺 火屋の上に有 寛文三年丙午飢饉にて吉津龍興寺の前(大河と深津用水溝との間薮也 昔は平地也)に小屋を掛大釜を七つ居施行を行せらる 此時の死骸を捨けるより行倒者を捨并断罪場となる
(備陽六郡志)
とある(但し寛文三年は丙午では無い。年表には寛文六年諸国凶作とあり六年か)。
この峠は北西東方面から福山城下に入る時、或いは城下から三方面に向う時には大方この峠を越えなければならなかった。但し神辺方面からは湯坂越えの道もあった(神辺往還)。
元禄十一年八月、粛々としてこの峠を越えて惣門に向かう一団があった。安芸三次の浅野土佐守長澄(五万石)の率いる使節団である。
話は遡る。元禄十年八月水野家四代藩主勝種は、作州津山城の請取りを命じられたが、二日後に倒れ同月二十三日三十七歳で死去、勝岑が遺領を継ぐ。当歳であった。幕府は、勝岑幼稚により目付として岡部庄左衛門、本多新兵衛を遣わし元禄十一年正月十三日着任。勝岑は襲封御礼に江戸に出立したが、当歳の長旅は無理であったのであろう、旅の途中で発病し、五月五日江戸で死去。水野家は断絶となった。後、勝岑は従兄弟に当る数馬に名跡を継がせた。
こうして福山之御城、公儀へ被召上候に付、御上使は尼崎青山播磨守様(四万石)、御城請取は三次浅野土佐守様、今治松平駿河守様、御城預りは丸亀京極縫殿様(六万三千石)御幼年に付御家老千田数馬殿御越被成候と成った(福山領分語伝記)。他に幕府代官 山本与惣左衛門 曲淵市郎右衛門 宍倉与兵衛門 先年着任の岡部 本多両目付と交代して溝口源兵衛 中根宇右衛門が福山へ入っている。
駿河守は鞆津より揚がり、播磨守は、八月十二日早朝に神辺宿を出立、福山藩から番頭一人が井原市高屋迄、神辺からは家老と用人が出迎え八月十二日別所と同道し、湯坂を越えて神辺街道(神辺往還)から惣門へ進んでいる。
そして土佐守は戸手に陣取給ひ(西備名区巻二十六)鶴が橋から横尾、榎木峠を越え惣門に進んだ。本陣は大黒町の江良屋十兵衛と鍵屋甚兵衛屋敷で、家中人数宿所は町屋が当てられた。福山領分語伝記では「古神嶋より」となっているが、帰路と混同したのであろう。榎木峠が一際目立った時であった。
福山はその後三年三代官と手代による支配を受けるが、年貢取立ては厳しく、一揆にも及びかねない雲行きとなったので、代官も反省し少し軽減された。
その年より御所御取立にて厳敷き御仕置き誠に辛き御あてがひ、諸民もいとつらさの余りにや気うつの毒を吐けり「山本より ししくら鷲の掴みどり 曲淵にぞしずむ百姓」かかる狂歌をして端々に立ちければ 御領分の百姓少々色めき立ちて騒がしき聞こえもありしに 御所務少しは緩められしなり
(水野家五代記)
此三士の御役所は三吉村に存し、今に其跡を三吉陣屋と申す
西備名区巻二十六(現在は福山市史跡)
尚、
峠はタハと読む古事記等に多和と云
(福山志料)
とあり、榎木峠はエノキダワと発音した。
さて水野家家臣団のその後であるが、領内から立ち去る家中の者には路銀が渡された。城下を引き払う日限は八月十三日から三十日限りとされていたが、落ち行く先の見当たらない人々には領内に居住する事が許された。西備名区には、周辺の村々に水野家浪人として姓名を載せているが、帰農の便宜も無く四方に落ちて行った行末は哀れなものであったろう。
備陽六郡志下岩成村の項に水野浪人甲田嘉兵衛についての記述がある。
津田左源太検地の節 当村の庄屋過言の事有て 検地の役人憤を含居たる所に当村医師田中玄琢といふ者の一類 甲田嘉兵衛の娘 姉妹共に水野公の御城女なりしが 落去の砌ゆへ玄琢方に寄宿し……。
彼も一家共々榎木峠を越え下岩成村に落ちて来た。嘉兵衛は十三石三人扶持船手組船頭で入船町に住んで居た。子孫は阿部家に仕官しこの地を去り、田中家もこの地を去ったが、甲田家の場合は運が良かった。現在嘉兵衛夫婦とその子夫婦の墓が竹薮の中に残っている。
この後、榎木峠が際立つのは一揆続発の時代である。
【榎木峠】
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根岸 尚克 惣門跡の東の筋を北に向かい北吉津交番を過ぎると「従是東 京大坂道 従是北 石州道」と彫られた道標(高さ一m三五)の立つ交差点に出る。ここから緩やかな上り坂となり、実相寺当りから少し急な坂となりRCCの放送局の入口当りが頂上となる。この坂が榎木峠である。 榎木峠 磔塲火屋 千人壺 火屋の上に有 寛文三年丙午飢饉にて吉津龍興寺の前(大河と深津用水溝との間薮也 昔は平地也)に小屋を掛大釜を七つ居施行を行せらる 此時の死骸を捨けるより行倒者を捨并断罪場となる
(備陽六郡志) とある(但し寛文三年は丙午では無い。年表には寛文六年諸国凶作とあり六年か)。 この峠は北西東方面から福山城下に入る時、或いは城下から三方面に向う時には大方この峠を越えなければならなかった。但し神辺方面からは湯坂越えの道もあった(神辺往還)。 元禄十一年八月、粛々としてこの峠を越えて惣門に向かう一団があった。安芸三次の浅野土佐守長澄(五万石)の率いる使節団である。 話は遡る。元禄十年八月水野家四代藩主勝種は、作州津山城の請取りを命じられたが、二日後に倒れ同月二十三日三十七歳で死去、勝岑が遺領を継ぐ。当歳であった。幕府は、勝岑幼稚により目付として岡部庄左衛門、本多新兵衛を遣わし元禄十一年正月十三日着任。勝岑は襲封御礼に江戸に出立したが、当歳の長旅は無理であったのであろう、旅の途中で発病し、五月五日江戸で死去。水野家は断絶となった。後、勝岑は従兄弟に当る数馬に名跡を継がせた。 こうして福山之御城、公儀へ被召上候に付、御上使は尼崎青山播磨守様(四万石)、御城請取は三次浅野土佐守様、今治松平駿河守様、御城預りは丸亀京極縫殿様(六万三千石)御幼年に付御家老千田数馬殿御越被成候と成った(福山領分語伝記)。他に幕府代官 山本与惣左衛門 曲淵市郎右衛門 宍倉与兵衛門 先年着任の岡部 本多両目付と交代して溝口源兵衛 中根宇右衛門が福山へ入っている。 駿河守は鞆津より揚がり、播磨守は、八月十二日早朝に神辺宿を出立、福山藩から番頭一人が井原市高屋迄、神辺からは家老と用人が出迎え八月十二日別所と同道し、湯坂を越えて神辺街道(神辺往還)から惣門へ進んでいる。 そして土佐守は戸手に陣取給ひ(西備名区巻二十六)鶴が橋から横尾、榎木峠を越え惣門に進んだ。本陣は大黒町の江良屋十兵衛と鍵屋甚兵衛屋敷で、家中人数宿所は町屋が当てられた。福山領分語伝記では「古神嶋より」となっているが、帰路と混同したのであろう。榎木峠が一際目立った時であった。 福山はその後三年三代官と手代による支配を受けるが、年貢取立ては厳しく、一揆にも及びかねない雲行きとなったので、代官も反省し少し軽減された。 その年より御所御取立にて厳敷き御仕置き誠に辛き御あてがひ、諸民もいとつらさの余りにや気うつの毒を吐けり「山本より ししくら鷲の掴みどり 曲淵にぞしずむ百姓」かかる狂歌をして端々に立ちければ 御領分の百姓少々色めき立ちて騒がしき聞こえもありしに 御所務少しは緩められしなり
(水野家五代記) 此三士の御役所は三吉村に存し、今に其跡を三吉陣屋と申す
西備名区巻二十六(現在は福山市史跡) 尚、 峠はタハと読む古事記等に多和と云
(福山志料) とあり、榎木峠はエノキダワと発音した。 さて水野家家臣団のその後であるが、領内から立ち去る家中の者には路銀が渡された。城下を引き払う日限は八月十三日から三十日限りとされていたが、落ち行く先の見当たらない人々には領内に居住する事が許された。西備名区には、周辺の村々に水野家浪人として姓名を載せているが、帰農の便宜も無く四方に落ちて行った行末は哀れなものであったろう。 備陽六郡志下岩成村の項に水野浪人甲田嘉兵衛についての記述がある。 津田左源太検地の節 当村の庄屋過言の事有て 検地の役人憤を含居たる所に当村医師田中玄琢といふ者の一類 甲田嘉兵衛の娘 姉妹共に水野公の御城女なりしが 落去の砌ゆへ玄琢方に寄宿し……。 彼も一家共々榎木峠を越え下岩成村に落ちて来た。嘉兵衛は十三石三人扶持船手組船頭で入船町に住んで居た。子孫は阿部家に仕官しこの地を去り、田中家もこの地を去ったが、甲田家の場合は運が良かった。現在嘉兵衛夫婦とその子夫婦の墓が竹薮の中に残っている。 この後、榎木峠が際立つのは一揆続発の時代である。 【榎木峠】 【関連記事】
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