安芸平賀氏の盛衰
「備陽史探訪:121号」より
田口 義之
毛利・小早川氏と並ぶ安芸の有力国人領主であった平賀氏は、出羽国平鹿郡を本拠とした東国武士である。
安芸国高屋保(東広島市)に所領を得た契機は明らかでないが、鎌倉時代後期の弘安元年(一二七八)一二月五日、平賀惟長は「安芸国高屋保、上総国さくらやの郷、越中国油田金」を「一子なきにより」舎弟惟致に譲っており、これ以前であったことは確かである。
以後『平賀家文書』によると、以上三ケ所の所領は、推致からその子貞泰、さらにその弟惟藤に譲られ、惟藤に子供がいなかったことから「あきのあま御ぜん」、すなわち尼「きやうぐわん」に譲られた。
「きやうくわん」の素性は定かではないか、出羽国から安芸に西遷した平賀氏の女性、またはその配偶者であったと思われる。すなわち、この頃には一族の一部は安芸高屋保に西遷を果たしていた。
元享元年(一三二一)、「きやうくわん」は「こなきによりて、やうしひらかの三ろうかねむね」に高屋保以下の所領を譲った。兼宗は平賀氏系図では惟藤の孫になっているが、尼「きやうくわん」譲状に「養子」とあり、実際の続柄は明らかでなく、出羽平賀氏の惣領家から安芸平賀氏に入った人物と考えられる。
兼宗の跡はその子貞宗が継いだが、兼宗が長子共兼に所領を譲らなかったことから争いが起こり、共兼によって貞宗と庶家東範兼が討ち取られるという事件に発展する。結局、この争いは幕府の裁定によって、貞宗の嫡子弘章と次男時宗に所領が安堵され無事解決した。
しかし、この頃から平賀氏は周防山口を本拠とした大内氏と結びつくようになり、「応永の乱(一三九九)」で大内義弘が敗死するとともに幕府の派遣した安芸守護山名満氏の攻撃を受け、弘章の子息三人が討死するという事態を招いた。
当時、大内氏の恩顧を受けていた安芸の国人は守護満氏の攻撃にたいして一揆契約を結び、これに対抗した。これが有名な「安芸国人一揆」である。
弘章は毛利光房と共にこの一揆の中心人物として活躍し、応永十三年(一四〇六)六月、幕府に守護の更迭を認めさせた。この一揆の意義については意見の分かれるところであるが、守護更迭は平賀・毛利氏の幕府に対する「罰文」の提出と同時に行われており、実質的には「国人一揆」の敗北ではないかと考えられている。
一揆の解体によって幕府に降参した平賀氏はこの後室町幕府の奉公衆として記録に現れ、応仁の乱後の長享元年(一四八七)に及んでいる。
戦国期に入ると平賀氏の周囲は多事多難となる。幕府の力が衰えると周防の大内氏の勢力が再び安芸国に及び、出雲に興った尼子氏も南下を始めたからである。この情勢に対して安芸の国人は再び「一揆」を結んで対抗しようとした。
平賀氏では惣領の弘保がこの一揆に署名しているが、弘保はさらにそれまでの御薗宇城から白市の白山城に居城を移すことでこの争乱に対処しようとした。
御園宇城は鎌倉後期以来の平賀氏の本拠であったが、居館を兼ねた土居形式の城郭で、長期の篭城は無理である。それに対して白山城は一三〇メートルの比高を持った山城であった。
また、注目されるのは白山城下の「白市」である。この市場は白山築城以前に既に存在した市場と考えられており、平賀氏は領域経済圏の掌握の為にもこの地に城を築く必要があった。
だが、百メートル足らずの山城では戦国の荒波を乗り切るには少々不安がある。特に大永年間(一五三二~二八)、尼子氏の軍勢が怒涛の如く安芸に侵入するようになると尚更である。そこで弘保は更に峻険な山城を築くことでこの事態に対処しようとした。
これが西条盆地の東北に聾える頭崎城である。同城は三百メートルの比高を持つ本格的な戦国城郭で、曲輪の数は百を越えている。
しかし、弘保にとってこの峻険な山城はかえって仇となった。
この城を任せた嫡男興貞は、父が大内氏に味方したのに対し、この城に拠って尼子方の旗を揚げ、天文五年(一五三六)から同九年(一五四〇)に至るまでの四年間、父子が血を流すという、骨肉の争いを繰り広げることになる。
結局、この戦いは毛利氏の援助を得た父弘保が勝利を収め、家督は興貞の嫡男隆宗が継ぐ。しかし、隆宗は天文一八年(一五四九)、備後神辺の陣中で死去(その墓石は廃明道寺跡にある)し、その跡を大内氏の後援を得た隆保が継いだことから、再び内紛がおこる。
弘保は興貞の次男広相が平賀家を相続することを強く望んだが、大内義隆は自己の寵臣隆保(小早川常平の次男)を強引に隆宗の跡目に押しつけた。
隆保は天文二十年(一五五一)九月の陶氏の下剋上に際して、あくまで主君義隆に殉じようとし、陶氏の攻撃を受けるが、養祖父弘保は頭崎城に援軍を送らず、見殺しにした。
隆保の滅亡によって平賀氏は一時断絶の危機を迎えるが、毛利元就の斡旋で弘保の希望通り、広相が平賀氏の所領を相続する。こうして元就の援助で家を確保した平賀氏はこの後急速に毛利氏の支配下に入り、天正十九年(一五九一)の知行高一万四千三百五十一石〈内安芸国内に一万三千石余〉という、安芸国内では、毛利・吉川・小早川氏に次ぐ大きな所領を擁して近世の到来を迎えることになる。
https://bingo-history.net/archives/11869https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/f87b0aa4a2eee67a9c160f9537faf1eb.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/f87b0aa4a2eee67a9c160f9537faf1eb-150x100.jpg中世史「備陽史探訪:121号」より 田口 義之 毛利・小早川氏と並ぶ安芸の有力国人領主であった平賀氏は、出羽国平鹿郡を本拠とした東国武士である。 安芸国高屋保(東広島市)に所領を得た契機は明らかでないが、鎌倉時代後期の弘安元年(一二七八)一二月五日、平賀惟長は「安芸国高屋保、上総国さくらやの郷、越中国油田金」を「一子なきにより」舎弟惟致に譲っており、これ以前であったことは確かである。 以後『平賀家文書』によると、以上三ケ所の所領は、推致からその子貞泰、さらにその弟惟藤に譲られ、惟藤に子供がいなかったことから「あきのあま御ぜん」、すなわち尼「きやうぐわん」に譲られた。 「きやうくわん」の素性は定かではないか、出羽国から安芸に西遷した平賀氏の女性、またはその配偶者であったと思われる。すなわち、この頃には一族の一部は安芸高屋保に西遷を果たしていた。 元享元年(一三二一)、「きやうくわん」は「こなきによりて、やうしひらかの三ろうかねむね」に高屋保以下の所領を譲った。兼宗は平賀氏系図では惟藤の孫になっているが、尼「きやうくわん」譲状に「養子」とあり、実際の続柄は明らかでなく、出羽平賀氏の惣領家から安芸平賀氏に入った人物と考えられる。 兼宗の跡はその子貞宗が継いだが、兼宗が長子共兼に所領を譲らなかったことから争いが起こり、共兼によって貞宗と庶家東範兼が討ち取られるという事件に発展する。結局、この争いは幕府の裁定によって、貞宗の嫡子弘章と次男時宗に所領が安堵され無事解決した。 しかし、この頃から平賀氏は周防山口を本拠とした大内氏と結びつくようになり、「応永の乱(一三九九)」で大内義弘が敗死するとともに幕府の派遣した安芸守護山名満氏の攻撃を受け、弘章の子息三人が討死するという事態を招いた。 当時、大内氏の恩顧を受けていた安芸の国人は守護満氏の攻撃にたいして一揆契約を結び、これに対抗した。これが有名な「安芸国人一揆」である。 弘章は毛利光房と共にこの一揆の中心人物として活躍し、応永十三年(一四〇六)六月、幕府に守護の更迭を認めさせた。この一揆の意義については意見の分かれるところであるが、守護更迭は平賀・毛利氏の幕府に対する「罰文」の提出と同時に行われており、実質的には「国人一揆」の敗北ではないかと考えられている。 一揆の解体によって幕府に降参した平賀氏はこの後室町幕府の奉公衆として記録に現れ、応仁の乱後の長享元年(一四八七)に及んでいる。 戦国期に入ると平賀氏の周囲は多事多難となる。幕府の力が衰えると周防の大内氏の勢力が再び安芸国に及び、出雲に興った尼子氏も南下を始めたからである。この情勢に対して安芸の国人は再び「一揆」を結んで対抗しようとした。 平賀氏では惣領の弘保がこの一揆に署名しているが、弘保はさらにそれまでの御薗宇城から白市の白山城に居城を移すことでこの争乱に対処しようとした。 御園宇城は鎌倉後期以来の平賀氏の本拠であったが、居館を兼ねた土居形式の城郭で、長期の篭城は無理である。それに対して白山城は一三〇メートルの比高を持った山城であった。 また、注目されるのは白山城下の「白市」である。この市場は白山築城以前に既に存在した市場と考えられており、平賀氏は領域経済圏の掌握の為にもこの地に城を築く必要があった。 だが、百メートル足らずの山城では戦国の荒波を乗り切るには少々不安がある。特に大永年間(一五三二~二八)、尼子氏の軍勢が怒涛の如く安芸に侵入するようになると尚更である。そこで弘保は更に峻険な山城を築くことでこの事態に対処しようとした。 これが西条盆地の東北に聾える頭崎城である。同城は三百メートルの比高を持つ本格的な戦国城郭で、曲輪の数は百を越えている。 しかし、弘保にとってこの峻険な山城はかえって仇となった。 この城を任せた嫡男興貞は、父が大内氏に味方したのに対し、この城に拠って尼子方の旗を揚げ、天文五年(一五三六)から同九年(一五四〇)に至るまでの四年間、父子が血を流すという、骨肉の争いを繰り広げることになる。 結局、この戦いは毛利氏の援助を得た父弘保が勝利を収め、家督は興貞の嫡男隆宗が継ぐ。しかし、隆宗は天文一八年(一五四九)、備後神辺の陣中で死去(その墓石は廃明道寺跡にある)し、その跡を大内氏の後援を得た隆保が継いだことから、再び内紛がおこる。 弘保は興貞の次男広相が平賀家を相続することを強く望んだが、大内義隆は自己の寵臣隆保(小早川常平の次男)を強引に隆宗の跡目に押しつけた。 隆保は天文二十年(一五五一)九月の陶氏の下剋上に際して、あくまで主君義隆に殉じようとし、陶氏の攻撃を受けるが、養祖父弘保は頭崎城に援軍を送らず、見殺しにした。 隆保の滅亡によって平賀氏は一時断絶の危機を迎えるが、毛利元就の斡旋で弘保の希望通り、広相が平賀氏の所領を相続する。こうして元就の援助で家を確保した平賀氏はこの後急速に毛利氏の支配下に入り、天正十九年(一五九一)の知行高一万四千三百五十一石〈内安芸国内に一万三千石余〉という、安芸国内では、毛利・吉川・小早川氏に次ぐ大きな所領を擁して近世の到来を迎えることになる。管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会備陽史探訪の会中世史部会では「中世を読む」と題した定期的な勉強会を行っています。
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