吉田豊辰家に伝存した 遺失古志家文書について

備陽史探訪:180号」より

矢田 貞美

一 備後における古志家文書の伝存状態

古志家文書は十四通

十一通が所謂、古志家文書とされるが、これらと遺失した下記の三通の計十四通は元々古志家文書であったと推定され、下記の文書A(吉川家文書1465)はその内の一通と考えられる。即ち、古志家文書十一通の内、八通と、下記の文書Aおよび文書B各一通の計十通の影写が、福山志料に古志家文書として収録されているので、これら文書Aおよび同Bは福山志料編纂時に遺失したものと推定される。
府中の古志本家(隠岐屋)の分家二井屋第八代古志盛義が明治十六年に継承した「古志家文書の目録」には、感状等十一通および「写」一通と記されており、「写」一通は文書Bに該当する。

遺失古志家文書名

備後で所蔵中に遺失したと推定される三通の同文書名を下記に示す。

  • A 吉川元春起請文(吉川家文書1465):永禄十三年(一五七〇)十一月二日、古志玄蕃助宛
  • B 山名氏政書状:年欠(天正六年?(一五七八))四月十三日、古志因幡守宛
  • C 吉川元長感状:年欠(天正十四年(一五八六))十一月九日、古志因幡守宛

油屋古志氏

前記文書Cは、『尾道志稿』に「古志九助(油屋)所持書札」として所収されているので、府中古志家において所蔵中に分散したと推定される。府中古志初代与右衛門盛実の三男七郎右衛門盛利が興した、二井屋第二代七郎右衛門長良の弟吉郎兵衛(享保十年(一七二五)没)が油屋古志初代である。第三代甚五郎盛世は寛政五年(一七九三)四九歳没であり、第四代孫六盛胤は天保十三年(一八四二)六十六歳没なので、尾道志稿の脱稿年代から推考すると、第三代か第四代の頃と推察される。しかし、九助は油屋本崇の系譜には見当たらないが、系図によると、第四代孫六盛胤には後妻が二名記載されているので、この後妻の子息と推測される。更に、古志本家の遺言による、古志家文書などの二井屋の相続は明治十六年(一八八三)なので、尾道志稿脱稿時(文化十三年(一八一六)における油屋の所持は、二井屋の古志家文書の相続以前の分散を示している(1)。

二 古志家文書一通(吉川元春起請文)が吉田豊辰家伝存の由来

イ 吉川元春起請文の吉川家指出の経緯

証文の内容

吉川元春起請文(吉川家文書1465、文書A)は、重信が毛利氏へ味方するについての約束事を、元春が重信に示したものである。その概要は、

  • イ 重信が毛利氏に逆心を抱かなければ、元春も重信と末永く親密な関係を維持する
  • ロ 讒言があった場合には、重信に連絡・調査するので腹蔵なく話して欲しい
  • ハ 古志家のことは出来る限り引き立てるつもりである

などである。

豊辰家伝存の由来

この吉川元春起請文は、古志家文書と共に古志家に伝来したものと推察される。その後、福山藩主阿部家臣吉田豊辰家にあったが、由緒不明につき、以前小田県在職中であった益田包義に相談し、明治十二年(一八七九)吉川家に差し出されたもので、吉田家に伝来した経緯は不明である(演説書)。この起請文は、福山志料に影写されているので、同志料編纂時に遺失したものと推察される。なお、福山志料には宛先「古志玄藩助」が明瞭に影写されているので、吉田家に伝存中に擦消されたことになり、この抹消は転用が憶測される。

後述する如く、佐々木秀義の六男厳秀が吉田氏の遠祖なので、秀義の五男義清の孫義信が出雲の古志氏祖であるから、備後の吉田氏および古志氏は同族と言うことになる。福山志料の編纂は吉田家第七代豊功の時代のことになるが(2)、当時、同族関係を菅茶山から聞き及んで「また借り」し、何らかの都合で返却の機会を失ったものと思われる。

ロ 吉川元春起請文 吉川元春起請文の全文を『』内に示す。

就今度藝州御一味之儀、申談条之事、
一自今以後、重信(古志)対藝州於無御悪心者、勿論又元春茂対「玄番助」(擦消)殿無御等閑、長久別而可申談之事、
一従何方茂 讒言申来事候者、尋可申候、御方へ茂申入儀可有之候間、無腹蔵可承之事、
一御家之儀向後涯分引立可申之事、
右、条々聊不可有相違候、若於偽者、日本国中大小神祇、杵築大明神、別而藝州 厳島大明神、八幡大菩薩、天満大自在天神御罰可罷蒙候、仍而神文如件、
永禄十三年十一月二日
吉川駿河守元春(花押・血判)   「古志玄蕃助」(擦消)殿

演説書
一 元春公御誓判物 壹通
右者、舊福山藩知事従五位阿部正桓の元老吉田豊辰家ニ持傳候處、其由緒不相分、且名宛分明ニハ無之候得共、古志玄藩助ナル者江被下候御誓判ニテ、全ク吉田家江被下候儀ニ無之、後世自然粗略ニ相成候而者、恐多ニ付、御当家江差出、御受納奉願度旨、私舊小田縣奉職中、豊辰ゟ依頼ニ預リ、其後不得好機、遷延ニ打過候處、今般出京ニ付、右手續具申仕候、何卒御取納相成候ハゝ、豊辰ニ於本懐ニ奉存候、素ヨリ御答謝等ニ及候儀ニ無之、御収領証御渡被下候得者、同人方迄送致可仕候、此段参邸可申上筈之處、頃日不快ニ付、無止書中ヲ以奉伺候、以上、
山口縣長門国阿武郡那須佐村
第五百十六番屋敷居住士族
明治十二年六月十四日
従六位 益田包義 朱印
吉川公御家令 御中

三 吉田家の由来と豊辰の経歴

吉田家の由来

寛政重修諸家譜の吉田氏系図には、「宇多源氏 佐々木庶流 今の呈譜に吉田厳秀より出るといふ」とある。福山藩吉田家は近江源氏佐々木氏の一族で、厳秀を祖とする出雲吉田氏である(2、3)。厳秀は佐々木秀義の六男で 定綱・高綱・経定・盛綱兄弟の弟にあたり、出雲吉田村(現、雲南市吉田町吉田)に居住して吉田を姓称したとされる(3)。

『尊卑分脈』によると、第五十九代宇多天皇―敦実親王―源雅信―扶義―佐々木成頼(近江源氏佐々木氏祖)―義経―経方―季定(観音寺城主)―秀義―厳秀とある。吉田厳秀(近江日枝村吉田・滋賀県犬上郡豊郷町吉田に住。吉田氏祖)―泰秀(四男、出雲吉田に住)―秀信―清秀―清員―基清―秀弘―吉田上野介重賢(近江川守城主)と系譜は記される(3、国史体系第六十巻)。近江川守城(別名、吉田城)は滋賀県蒲生郡竜王町川守に所在する。吉田氏祖の第十一代重賢は「吉田流弓術」を編み出したと云われる(3)。 末裔の豊隆は岩槻藩主阿部正次に仕え、岩槻藩主阿部定高の次男正邦の丹後宮津藩を経て宇都宮藩から福山藩への転封に従って備後福山へ移る(2、3)。豊隆を初代とすると、豊辰は阿部藩吉田家の第九代になる(2)。

豊辰の経歴

吉田豊辰(通称、助左衛門、蟄居名を水山)は、福山藩士新居頼母繁興の三男として文政七年七月二五日生まれ、福山藩弓術師範の吉田豊穣の養子となり、阿部正弘以降四代の藩主の弓術師範を務めたほか、執政(家老)となり、藩校誠之館の文武総裁を務めた。尊皇攘夷に奔走し、長州再征のとき石州口へ出張し、長州藩が福山城を攻めた時は三浦義建、関藤藤陰らとともに長州藩の杉孫七郎との交渉にあたり、福山城下の災禍を回避した。明治二年大監察に任じ、その後明治初期に沼名前神社、吉備津神社の宮司を歴任する(4、5)。自慢の四人の息子を養育し、明治二七年、七一歳で没し、木之庄神葬墓地に葬られる。

四 古志家文書の備後伝来

イ 府中の古志本家第八代が持ち帰るとの伝承

謀殺された古志清左衛門吉信の第四子与右衛門盛実が興した浦上古志本家の第八代甚兵衛盛栄(文政三年(一八二〇)没)は菅茶山と親交があった。裕福な甚兵衛盛栄は日御碕神社に多数の関係文書の存在を知り古志家文書などを持ち帰ったとの、府中古志家第十三代夫人の伝承・証言があり(市川)、古志氏末裔の伊藤敏子氏も同様な伝承を証言され、本郷町誌も浦上甚兵衛が日御碕神社で筆写したと指摘している。

浦上甚兵衛盛栄は日御碕神社で、系譜等筆写の際、出雲古志宗家および古志家文書の「寄託者が日御碕神社と音信不通」との情報を、別当家や神官から入手し、近縁でもある別当家(重信の叔父益信の娘が日御碕別当家に嫁す)に、これらの割愛方を懇請し、古志家文書などを持ち帰ったものと推察される。

ロ 重信の古志家文書継承と家督相続

天正六年(一五七八)と推定される、古志因幡守宛て山名氏政書状(文書B)の「殊先祖代々御判所持之面令被悦候」は、「代々所持している判形を見せていただいて参考になった」と解釈されるので、判形が古志家文書を示すとすると、重信が代々の古志家文書(重信以前の古志家文書四通)を所持していたことになる。これは重信の家督相続を示すものであり、天正二年(一五七四)十二月二十五日付吉川元長の古志因幡守(重信)宛て返書(牛尾家文書:重信の「兄左京亮の子息取立ての要望」)は、重信が宗家の家督相続をしていないので宗家を再興したいとの趣旨と解釈されていることと(古志史探会編)矛盾する。しかし、このことで重信の古志家文書所持が明白となり、重信父子がこれらを後述の日御碕神社に寄託したとの推測の一助になるものと考える。

ハ 重信父子が古志家文書を日御碕神社別当家へ寄託

重信は、代々の古志家文書を所持しており、後述の如く古志宗家の家督を相続していたと推察される(文書B)。天正十九年(一五九一)頃、古志重信が御調郡へ、嫡子新十郎が恵蘇郡へ国替された際、古志家文書が備後にもたらされたとの説もあるが、新十郎は重信より給地が多いので、既に嫡子新十郎は家督を継承していたと思われる。ならば、同文書など重要書類は新十郎が保管していたと考えられるが、何故、給地された恵蘇郡から遠方の芦田郡府中村の古志家に伝存したのであろうか。国替で本領出雲を去るにあたり、重信父子相談の上、近縁(重信の叔父益信の娘が日御碕別当家に嫁す)の日御碕神社別当家に寄託したものと思われる。

当時、家挌や家柄を証する重要書類を安全と思われる、寺社へ寄託することは例外ではなく、芦田郡の有地隆信は判物と系図を、京都の本国寺へ寄託している間に焼失している(閥閲録巻53)。

新庄の清左衛門は謀殺される以前より領地を次々と召し上げられており、古志家文書を代理所蔵する精神的な余裕はなかったと思われる。清左衛門にとって重信は叔父に当たると推定されるが、新庄古志氏より生活が安定している重信らが夜逃げ同然に新庄本郷を退去する浦上古志氏に託したとは思えない。

取り纏めに当たり的確なアドバイスを頂いた本会会長田口義之氏に深謝致します。

【参考文献】

  1. 矢田貞美:古志家文書の出雲市への寄贈と備後における遺失、三十九―四十二、文化財ふくやま第43号、二〇〇八.
  2. 浜本鶴賓撰輯:阿部家中系図纂輯(吉田氏)、一九八三.
  3. 今村嘉雄編:日本武道全集第三巻、九五―一〇八、人物往来社、一九六六.
  4. 清水久人:福山藩の教育と沿革史、一六七、一九九九.
  5. 福山城博物館編刊:近世後期の福山藩の学問と文芸、九四、一九九六.

【補稿】吉田豊辰の四男彦六郎

吉田豊辰は福山藩家老で明治維新後、堺県令や香川県知事となる長男豊文、愛知県警部長、東京市助役、小石川区長、深安郡長などを歴任した次男弘蔵、三男下宮長三郎、四男彦六郎らを養育している。

本稿では、大阪大学名誉教授 芝 哲夫氏の論文「吉田彦六郎」(和光純薬時報 Vol.70,No.3(2002))の一部を抜粋して転載し紹介する。彦六郎は世界で最初に酸化酵素を発見した化学者である。

生立ち

彦六郎は安政六年(一八五九)一月二十三日福山西町で生まれる。明治四年(一八七一)東京大学の前身の南校に入学し、開成学校を経て同十年(一八七七)、この年創立された東京大学理学部化学科に入学した。

研鑽

明治十三年(一八八〇)同大学を卒業後、農商務省地質調査所に勤務し、漆の成分分析や漆硬化の生化学的機構を解明して、漆工業技術の改良に貢献している。彦六郎は手紙でも、まず英文で書き、それを日本語で書くなど日頃から英文作成の訓練をしていたので、英語の論文は非常に流暢であった。最初の漆の研究は米国学会誌に投稿し、その後に邦文学会誌に投稿した。その後も次々とアクティブに研究活動を行い多大な業績をあげている。

職歴

彦六郎は明治十九年(一八八六)東京帝国大学理科大学助教授になり、各種の学外委員をしながら明治二十四年(一八九六)理学博士の学位を得、翌年、学習院大学教授、明治二十九年(一八九六)三高教授となり、明治三十一年(一八九八)から二年間ドイツへ留学した。その留学中に京都帝国大学理工科大学教授に任命され、化学第三講座、後に第四講座を担当した。

彦九郎は大正二年(一九一三)働き盛りの五十四歳で沢柳事件に連座して京都大学を退職し、その後は専売局中央研究所、大蔵省印刷局などの研究嘱託員をしたが、その輝かしい業績に比して恵まれない晩年であった。才能を発揮する機会を得られず、本人は勿論のこと関係者にとっても、残念なことであった。昭和四年(一九二九)三月三日、東京本郷西片町の自宅で享年七十歳の生涯を終えた。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/09/cropped-mark.pnghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/09/cropped-mark-150x100.png管理人中世史「備陽史探訪:180号」より 矢田 貞美 一 備後における古志家文書の伝存状態 古志家文書は十四通 十一通が所謂、古志家文書とされるが、これらと遺失した下記の三通の計十四通は元々古志家文書であったと推定され、下記の文書A(吉川家文書1465)はその内の一通と考えられる。即ち、古志家文書十一通の内、八通と、下記の文書Aおよび文書B各一通の計十通の影写が、福山志料に古志家文書として収録されているので、これら文書Aおよび同Bは福山志料編纂時に遺失したものと推定される。 府中の古志本家(隠岐屋)の分家二井屋第八代古志盛義が明治十六年に継承した「古志家文書の目録」には、感状等十一通および「写」一通と記されており、「写」一通は文書Bに該当する。 遺失古志家文書名 備後で所蔵中に遺失したと推定される三通の同文書名を下記に示す。 A 吉川元春起請文(吉川家文書1465):永禄十三年(一五七〇)十一月二日、古志玄蕃助宛 B 山名氏政書状:年欠(天正六年?(一五七八))四月十三日、古志因幡守宛 C 吉川元長感状:年欠(天正十四年(一五八六))十一月九日、古志因幡守宛 油屋古志氏 前記文書Cは、『尾道志稿』に「古志九助(油屋)所持書札」として所収されているので、府中古志家において所蔵中に分散したと推定される。府中古志初代与右衛門盛実の三男七郎右衛門盛利が興した、二井屋第二代七郎右衛門長良の弟吉郎兵衛(享保十年(一七二五)没)が油屋古志初代である。第三代甚五郎盛世は寛政五年(一七九三)四九歳没であり、第四代孫六盛胤は天保十三年(一八四二)六十六歳没なので、尾道志稿の脱稿年代から推考すると、第三代か第四代の頃と推察される。しかし、九助は油屋本崇の系譜には見当たらないが、系図によると、第四代孫六盛胤には後妻が二名記載されているので、この後妻の子息と推測される。更に、古志本家の遺言による、古志家文書などの二井屋の相続は明治十六年(一八八三)なので、尾道志稿脱稿時(文化十三年(一八一六)における油屋の所持は、二井屋の古志家文書の相続以前の分散を示している(1)。 二 古志家文書一通(吉川元春起請文)が吉田豊辰家伝存の由来 イ 吉川元春起請文の吉川家指出の経緯 証文の内容 吉川元春起請文(吉川家文書1465、文書A)は、重信が毛利氏へ味方するについての約束事を、元春が重信に示したものである。その概要は、 イ 重信が毛利氏に逆心を抱かなければ、元春も重信と末永く親密な関係を維持する ロ 讒言があった場合には、重信に連絡・調査するので腹蔵なく話して欲しい ハ 古志家のことは出来る限り引き立てるつもりである などである。 豊辰家伝存の由来 この吉川元春起請文は、古志家文書と共に古志家に伝来したものと推察される。その後、福山藩主阿部家臣吉田豊辰家にあったが、由緒不明につき、以前小田県在職中であった益田包義に相談し、明治十二年(一八七九)吉川家に差し出されたもので、吉田家に伝来した経緯は不明である(演説書)。この起請文は、福山志料に影写されているので、同志料編纂時に遺失したものと推察される。なお、福山志料には宛先「古志玄藩助」が明瞭に影写されているので、吉田家に伝存中に擦消されたことになり、この抹消は転用が憶測される。 後述する如く、佐々木秀義の六男厳秀が吉田氏の遠祖なので、秀義の五男義清の孫義信が出雲の古志氏祖であるから、備後の吉田氏および古志氏は同族と言うことになる。福山志料の編纂は吉田家第七代豊功の時代のことになるが(2)、当時、同族関係を菅茶山から聞き及んで「また借り」し、何らかの都合で返却の機会を失ったものと思われる。 ロ 吉川元春起請文 吉川元春起請文の全文を『』内に示す。 就今度藝州御一味之儀、申談条之事、 一自今以後、重信(古志)対藝州於無御悪心者、勿論又元春茂対「玄番助」(擦消)殿無御等閑、長久別而可申談之事、 一従何方茂 讒言申来事候者、尋可申候、御方へ茂申入儀可有之候間、無腹蔵可承之事、 一御家之儀向後涯分引立可申之事、 右、条々聊不可有相違候、若於偽者、日本国中大小神祇、杵築大明神、別而藝州 厳島大明神、八幡大菩薩、天満大自在天神御罰可罷蒙候、仍而神文如件、 永禄十三年十一月二日 吉川駿河守元春(花押・血判)   「古志玄蕃助」(擦消)殿 演説書 一 元春公御誓判物 壹通 右者、舊福山藩知事従五位阿部正桓の元老吉田豊辰家ニ持傳候處、其由緒不相分、且名宛分明ニハ無之候得共、古志玄藩助ナル者江被下候御誓判ニテ、全ク吉田家江被下候儀ニ無之、後世自然粗略ニ相成候而者、恐多ニ付、御当家江差出、御受納奉願度旨、私舊小田縣奉職中、豊辰ゟ依頼ニ預リ、其後不得好機、遷延ニ打過候處、今般出京ニ付、右手續具申仕候、何卒御取納相成候ハゝ、豊辰ニ於本懐ニ奉存候、素ヨリ御答謝等ニ及候儀ニ無之、御収領証御渡被下候得者、同人方迄送致可仕候、此段参邸可申上筈之處、頃日不快ニ付、無止書中ヲ以奉伺候、以上、 山口縣長門国阿武郡那須佐村 第五百十六番屋敷居住士族 明治十二年六月十四日 従六位 益田包義 朱印 吉川公御家令 御中 三 吉田家の由来と豊辰の経歴 吉田家の由来 寛政重修諸家譜の吉田氏系図には、「宇多源氏 佐々木庶流 今の呈譜に吉田厳秀より出るといふ」とある。福山藩吉田家は近江源氏佐々木氏の一族で、厳秀を祖とする出雲吉田氏である(2、3)。厳秀は佐々木秀義の六男で 定綱・高綱・経定・盛綱兄弟の弟にあたり、出雲吉田村(現、雲南市吉田町吉田)に居住して吉田を姓称したとされる(3)。 『尊卑分脈』によると、第五十九代宇多天皇―敦実親王―源雅信―扶義―佐々木成頼(近江源氏佐々木氏祖)―義経―経方―季定(観音寺城主)―秀義―厳秀とある。吉田厳秀(近江日枝村吉田・滋賀県犬上郡豊郷町吉田に住。吉田氏祖)―泰秀(四男、出雲吉田に住)―秀信―清秀―清員―基清―秀弘―吉田上野介重賢(近江川守城主)と系譜は記される(3、国史体系第六十巻)。近江川守城(別名、吉田城)は滋賀県蒲生郡竜王町川守に所在する。吉田氏祖の第十一代重賢は「吉田流弓術」を編み出したと云われる(3)。 末裔の豊隆は岩槻藩主阿部正次に仕え、岩槻藩主阿部定高の次男正邦の丹後宮津藩を経て宇都宮藩から福山藩への転封に従って備後福山へ移る(2、3)。豊隆を初代とすると、豊辰は阿部藩吉田家の第九代になる(2)。 豊辰の経歴 吉田豊辰(通称、助左衛門、蟄居名を水山)は、福山藩士新居頼母繁興の三男として文政七年七月二五日生まれ、福山藩弓術師範の吉田豊穣の養子となり、阿部正弘以降四代の藩主の弓術師範を務めたほか、執政(家老)となり、藩校誠之館の文武総裁を務めた。尊皇攘夷に奔走し、長州再征のとき石州口へ出張し、長州藩が福山城を攻めた時は三浦義建、関藤藤陰らとともに長州藩の杉孫七郎との交渉にあたり、福山城下の災禍を回避した。明治二年大監察に任じ、その後明治初期に沼名前神社、吉備津神社の宮司を歴任する(4、5)。自慢の四人の息子を養育し、明治二七年、七一歳で没し、木之庄神葬墓地に葬られる。 四 古志家文書の備後伝来 イ 府中の古志本家第八代が持ち帰るとの伝承 謀殺された古志清左衛門吉信の第四子与右衛門盛実が興した浦上古志本家の第八代甚兵衛盛栄(文政三年(一八二〇)没)は菅茶山と親交があった。裕福な甚兵衛盛栄は日御碕神社に多数の関係文書の存在を知り古志家文書などを持ち帰ったとの、府中古志家第十三代夫人の伝承・証言があり(市川)、古志氏末裔の伊藤敏子氏も同様な伝承を証言され、本郷町誌も浦上甚兵衛が日御碕神社で筆写したと指摘している。 浦上甚兵衛盛栄は日御碕神社で、系譜等筆写の際、出雲古志宗家および古志家文書の「寄託者が日御碕神社と音信不通」との情報を、別当家や神官から入手し、近縁でもある別当家(重信の叔父益信の娘が日御碕別当家に嫁す)に、これらの割愛方を懇請し、古志家文書などを持ち帰ったものと推察される。 ロ 重信の古志家文書継承と家督相続 天正六年(一五七八)と推定される、古志因幡守宛て山名氏政書状(文書B)の「殊先祖代々御判所持之面令被悦候」は、「代々所持している判形を見せていただいて参考になった」と解釈されるので、判形が古志家文書を示すとすると、重信が代々の古志家文書(重信以前の古志家文書四通)を所持していたことになる。これは重信の家督相続を示すものであり、天正二年(一五七四)十二月二十五日付吉川元長の古志因幡守(重信)宛て返書(牛尾家文書:重信の「兄左京亮の子息取立ての要望」)は、重信が宗家の家督相続をしていないので宗家を再興したいとの趣旨と解釈されていることと(古志史探会編)矛盾する。しかし、このことで重信の古志家文書所持が明白となり、重信父子がこれらを後述の日御碕神社に寄託したとの推測の一助になるものと考える。 ハ 重信父子が古志家文書を日御碕神社別当家へ寄託 重信は、代々の古志家文書を所持しており、後述の如く古志宗家の家督を相続していたと推察される(文書B)。天正十九年(一五九一)頃、古志重信が御調郡へ、嫡子新十郎が恵蘇郡へ国替された際、古志家文書が備後にもたらされたとの説もあるが、新十郎は重信より給地が多いので、既に嫡子新十郎は家督を継承していたと思われる。ならば、同文書など重要書類は新十郎が保管していたと考えられるが、何故、給地された恵蘇郡から遠方の芦田郡府中村の古志家に伝存したのであろうか。国替で本領出雲を去るにあたり、重信父子相談の上、近縁(重信の叔父益信の娘が日御碕別当家に嫁す)の日御碕神社別当家に寄託したものと思われる。 当時、家挌や家柄を証する重要書類を安全と思われる、寺社へ寄託することは例外ではなく、芦田郡の有地隆信は判物と系図を、京都の本国寺へ寄託している間に焼失している(閥閲録巻53)。 新庄の清左衛門は謀殺される以前より領地を次々と召し上げられており、古志家文書を代理所蔵する精神的な余裕はなかったと思われる。清左衛門にとって重信は叔父に当たると推定されるが、新庄古志氏より生活が安定している重信らが夜逃げ同然に新庄本郷を退去する浦上古志氏に託したとは思えない。 取り纏めに当たり的確なアドバイスを頂いた本会会長田口義之氏に深謝致します。 【参考文献】 矢田貞美:古志家文書の出雲市への寄贈と備後における遺失、三十九―四十二、文化財ふくやま第43号、二〇〇八. 浜本鶴賓撰輯:阿部家中系図纂輯(吉田氏)、一九八三. 今村嘉雄編:日本武道全集第三巻、九五―一〇八、人物往来社、一九六六. 清水久人:福山藩の教育と沿革史、一六七、一九九九. 福山城博物館編刊:近世後期の福山藩の学問と文芸、九四、一九九六. 【補稿】吉田豊辰の四男彦六郎 吉田豊辰は福山藩家老で明治維新後、堺県令や香川県知事となる長男豊文、愛知県警部長、東京市助役、小石川区長、深安郡長などを歴任した次男弘蔵、三男下宮長三郎、四男彦六郎らを養育している。 本稿では、大阪大学名誉教授 芝 哲夫氏の論文「吉田彦六郎」(和光純薬時報 Vol.70,No.3(2002))の一部を抜粋して転載し紹介する。彦六郎は世界で最初に酸化酵素を発見した化学者である。 生立ち 彦六郎は安政六年(一八五九)一月二十三日福山西町で生まれる。明治四年(一八七一)東京大学の前身の南校に入学し、開成学校を経て同十年(一八七七)、この年創立された東京大学理学部化学科に入学した。 研鑽 明治十三年(一八八〇)同大学を卒業後、農商務省地質調査所に勤務し、漆の成分分析や漆硬化の生化学的機構を解明して、漆工業技術の改良に貢献している。彦六郎は手紙でも、まず英文で書き、それを日本語で書くなど日頃から英文作成の訓練をしていたので、英語の論文は非常に流暢であった。最初の漆の研究は米国学会誌に投稿し、その後に邦文学会誌に投稿した。その後も次々とアクティブに研究活動を行い多大な業績をあげている。 職歴 彦六郎は明治十九年(一八八六)東京帝国大学理科大学助教授になり、各種の学外委員をしながら明治二十四年(一八九六)理学博士の学位を得、翌年、学習院大学教授、明治二十九年(一八九六)三高教授となり、明治三十一年(一八九八)から二年間ドイツへ留学した。その留学中に京都帝国大学理工科大学教授に任命され、化学第三講座、後に第四講座を担当した。 彦九郎は大正二年(一九一三)働き盛りの五十四歳で沢柳事件に連座して京都大学を退職し、その後は専売局中央研究所、大蔵省印刷局などの研究嘱託員をしたが、その輝かしい業績に比して恵まれない晩年であった。才能を発揮する機会を得られず、本人は勿論のこと関係者にとっても、残念なことであった。昭和四年(一九二九)三月三日、東京本郷西片町の自宅で享年七十歳の生涯を終えた。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会中世史部会では「中世を読む」と題した定期的な勉強会を行っています。
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