尾道の力石と沖仲仕について

備陽史探訪:180号」より

岡田 宏一郎

浄泉寺にある力石形の墓石
浄泉寺にある「大紺屋 大湊和七の墓」 明治ニ己巳 墓石は力石(上)と酒樽(下)の形をしている。
昨年度12月7日(土)「ぶら探訪 尾道歩きパート1」の例会に参加された人は「和七の名前が刻まれた力石」(久保亀山八幡神社境内)を確認しているが、この力石について「郷土の石ぶみ」の中に『力士試腕扛え』と彫られ、西濱和七などの名のほか、江戸本所および力自慢の行司であろう『二代木村吉五郎』の名まで刻まれている、と書いてある。

また「西國寺のは大小八個からなり、こちらは東濱連中によるもので、嘉永六年などの年号が認められる」と記述している。

さらに浄泉寺の墓地では「大紺屋 大湊和七」と彫られている墓を見て知っているはずですが、ここでさらに付け加えて追加の説明を書いてみました。

さて「力石」あるいは「さし石」(頭上に差し上げた石)とは卵形をした50~60貫もある磨かれた石である事はよく知っておられると思います。この力石を持ち上げて力を競いあっていた沖仲仕連中の中でも尾道随一の力持ちと言われていたのが西濱の「大紺屋大湊和七」である。

常泉寺の墓地で見た和七の墓石は頭石が「力石」の形になっていて、次の台石が「酒樽」を模した独特の墓石である。

沖仲仕連中が持ち上げた力石にはそれぞれの名前が刻まれており、中でも和七の名前が刻まれた力石はよく見かけることが出来る。

尾道の住吉神社には

西濱 力石 五十三メ目 新助 長造 彌助 和七 甚二 清八 佐助 金助 嘉永四辛亥五月吉日(1851) 石徳作

の力石がある。

浄泉寺にある力石形の墓石
浄泉寺にある「大紺屋 大湊和七の墓」 明治ニ己巳 墓石は力石(上)と酒樽(下)の形をしている。
五十三メ目とは53貫のことで1貫が3.75㎏であるから200㎏ほどの重さの力石を持ち上げていたことになる。もっとも重い力石は220㎏と云うから60貫ほどの重さであり、いかに沖仲仕連中が力持ちであったことが分かり驚くことになる。

沖仲仕たちが力を競い合った力石は神社に奉納され、力石には持ち上げた仲仕の名前が刻まれているので名誉と給金定めの参考にされたという。

江戸時代後期から明治初期にかけて尾道に北前船が寄港していて、その荷揚げを力自慢の沖仲仕連中が行っていた。荷揚げした荷物の内、肥料の鰊粕は一俵が40貫(150㎏)ほどあって海産物を扱う東濱と畳表を扱う西濱に別れ力くらべを競い合っていた。

大湊和七の名前が刻まれている力石は住吉神社や市立美術館などに置かれているが妙宣寺や艮神社境内の金山彦神社にも置かれている。その金山彦神社にある力石の中に

トモ東濱卯ヱ門 尾道西濱和七 同金介 東濱弥介 當所大浜吉蔵 尾道東向江奥弥七

の名前が刻まれている。鞆の沼名前神社にも江戸時代から明治時代にかけての力石が奉納されていている。

また鞆港の雁木近くにある「蛭子神社」にも力石が並べて置かれていて力を誇示する「大勇」とか「龍」の文字が刻まれている。「鞆の浦歴史民俗資料館」に展示してある力石には「抜山」「西濱」「吉兵衛」「弥兵衛」「江戸」「神奈川」「ヒイキ」「権冶良」と彫字されている。 これは西濱の吉兵衛と弥兵衛とが江戸の相撲興業で鞆にきた力士の神奈川と「地ぎり」をしたもので、力くらべの世話をしたのが「権治良」だという。(鞆の浦自然と歴史より)

力比べの競技にはこの「地ぎり」(地面より離す)と「差し」(頭上に差し上げる)の2種目があった。

その他、和七の名前が彫られている力石には

九州大宰府天満宮の境内にもある。相撲の開祖といわれる野見宿彌の碑の前に嘉永七年の銘の松、竹、梅の三個の力石にも和七名があり・・・・・尾道の船も博多を訪れ、大宰府に詣で『力石』の演技を披露したと思われる

(中国新聞 1997年3月3日 山陽の力石より)

この地域にある力石としては鞆町に21個、笠岡市に16個、新市町備後吉備津神社に2個ある。尾道市には西國寺境内に8個、市立美術館に6個、住吉神社境内に3個ある。また浦崎町、向島町の神社にも力石が置かれている。

和七について「尾道の民話・伝説」の中に畳表を扱う表仲仕と海産物を扱う濱仲仕に別れていて力を競い合ったことが述べられている。その中にずば抜けた力持ちである表仲仕の和七に濱沖仕たちが「天神さんの五十五段の石段を三十貫の鉄棒を二本担いで下る」という難題を吹っかけているが、和七はこの挑戦に応え天神さんに誓いをかけて力を振絞り見事に石段を下ったという興味深い話が書かれている。このことを讃えた和菓子に「和七最中」(力餅入りの最中)がある。この最中については尾道の老舗和菓子屋の銘菓として売られているので知っている会員もおられるかもしれないと思っているが、どうですか。

【引用及び参考資料】

  • 「山陽の力石 高島慎助 岩田書院」
  • 「住吉神社の力石説明板」
  • 「郷土の石ぶみ 山陽日日新聞社」
  • 「尾道の民話・伝説」
  • 「尾道市史」
  • 「鞆の浦の自然と歴史 福山市歴史民俗資料館活動推進協議会改訂四版」
https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/05/96bfec43a2f2b0255b55c9425dcd6bfd.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/05/96bfec43a2f2b0255b55c9425dcd6bfd-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:180号」より 岡田 宏一郎 昨年度12月7日(土)「ぶら探訪 尾道歩きパート1」の例会に参加された人は「和七の名前が刻まれた力石」(久保亀山八幡神社境内)を確認しているが、この力石について「郷土の石ぶみ」の中に『力士試腕扛え』と彫られ、西濱和七などの名のほか、江戸本所および力自慢の行司であろう『二代木村吉五郎』の名まで刻まれている、と書いてある。 また「西國寺のは大小八個からなり、こちらは東濱連中によるもので、嘉永六年などの年号が認められる」と記述している。 さらに浄泉寺の墓地では「大紺屋 大湊和七」と彫られている墓を見て知っているはずですが、ここでさらに付け加えて追加の説明を書いてみました。 さて「力石」あるいは「さし石」(頭上に差し上げた石)とは卵形をした50~60貫もある磨かれた石である事はよく知っておられると思います。この力石を持ち上げて力を競いあっていた沖仲仕連中の中でも尾道随一の力持ちと言われていたのが西濱の「大紺屋大湊和七」である。 常泉寺の墓地で見た和七の墓石は頭石が「力石」の形になっていて、次の台石が「酒樽」を模した独特の墓石である。 沖仲仕連中が持ち上げた力石にはそれぞれの名前が刻まれており、中でも和七の名前が刻まれた力石はよく見かけることが出来る。 尾道の住吉神社には 西濱 力石 五十三メ目 新助 長造 彌助 和七 甚二 清八 佐助 金助 嘉永四辛亥五月吉日(1851) 石徳作 の力石がある。 五十三メ目とは53貫のことで1貫が3.75㎏であるから200㎏ほどの重さの力石を持ち上げていたことになる。もっとも重い力石は220㎏と云うから60貫ほどの重さであり、いかに沖仲仕連中が力持ちであったことが分かり驚くことになる。 沖仲仕たちが力を競い合った力石は神社に奉納され、力石には持ち上げた仲仕の名前が刻まれているので名誉と給金定めの参考にされたという。 江戸時代後期から明治初期にかけて尾道に北前船が寄港していて、その荷揚げを力自慢の沖仲仕連中が行っていた。荷揚げした荷物の内、肥料の鰊粕は一俵が40貫(150㎏)ほどあって海産物を扱う東濱と畳表を扱う西濱に別れ力くらべを競い合っていた。 大湊和七の名前が刻まれている力石は住吉神社や市立美術館などに置かれているが妙宣寺や艮神社境内の金山彦神社にも置かれている。その金山彦神社にある力石の中に トモ東濱卯ヱ門 尾道西濱和七 同金介 東濱弥介 當所大浜吉蔵 尾道東向江奥弥七 の名前が刻まれている。鞆の沼名前神社にも江戸時代から明治時代にかけての力石が奉納されていている。 また鞆港の雁木近くにある「蛭子神社」にも力石が並べて置かれていて力を誇示する「大勇」とか「龍」の文字が刻まれている。「鞆の浦歴史民俗資料館」に展示してある力石には「抜山」「西濱」「吉兵衛」「弥兵衛」「江戸」「神奈川」「ヒイキ」「権冶良」と彫字されている。 これは西濱の吉兵衛と弥兵衛とが江戸の相撲興業で鞆にきた力士の神奈川と「地ぎり」をしたもので、力くらべの世話をしたのが「権治良」だという。(鞆の浦自然と歴史より) 力比べの競技にはこの「地ぎり」(地面より離す)と「差し」(頭上に差し上げる)の2種目があった。 その他、和七の名前が彫られている力石には 九州大宰府天満宮の境内にもある。相撲の開祖といわれる野見宿彌の碑の前に嘉永七年の銘の松、竹、梅の三個の力石にも和七名があり・・・・・尾道の船も博多を訪れ、大宰府に詣で『力石』の演技を披露したと思われる (中国新聞 1997年3月3日 山陽の力石より) この地域にある力石としては鞆町に21個、笠岡市に16個、新市町備後吉備津神社に2個ある。尾道市には西國寺境内に8個、市立美術館に6個、住吉神社境内に3個ある。また浦崎町、向島町の神社にも力石が置かれている。 和七について「尾道の民話・伝説」の中に畳表を扱う表仲仕と海産物を扱う濱仲仕に別れていて力を競い合ったことが述べられている。その中にずば抜けた力持ちである表仲仕の和七に濱沖仕たちが「天神さんの五十五段の石段を三十貫の鉄棒を二本担いで下る」という難題を吹っかけているが、和七はこの挑戦に応え天神さんに誓いをかけて力を振絞り見事に石段を下ったという興味深い話が書かれている。このことを讃えた和菓子に「和七最中」(力餅入りの最中)がある。この最中については尾道の老舗和菓子屋の銘菓として売られているので知っている会員もおられるかもしれないと思っているが、どうですか。 【引用及び参考資料】 「山陽の力石 高島慎助 岩田書院」 「住吉神社の力石説明板」 「郷土の石ぶみ 山陽日日新聞社」 「尾道の民話・伝説」 「尾道市史」 「鞆の浦の自然と歴史 福山市歴史民俗資料館活動推進協議会改訂四版」備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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