邪馬台国を考古学する(一)
「備陽史探訪:180号」より
網本 善光
目次
1 はじめに
今回は、「邪馬台国」をテーマに、三世紀という時代を考えてみます。
当時の「倭(日本)」の様子は、『魏志倭人伝』に記載があります。特に「邪馬台国」については、所在も含めて研究と論争が行われています。
文献に登場する邪馬台国のことは、文献史学の手法で解決されるべきだと私は考えています。むしろ、考古学では、文献に残されていない当時の倭国の情況がどうだったかを調べることが重要です。
そこで、備後での「邪馬台国の時代」の様相を整理します。合わせて、「吉備」の動向も踏まえて、「備後」の特色を検討しようと思います。
2『魏志倭人伝』の「邪馬台国」
『魏志倭人伝』は「倭人は帯方東南の大海の中にあり」の記述にはじまり、①邪馬台国への行程と主要な国々の風俗、②倭国の社会システム、③卑弥呼共立の経緯、④邪馬台国と魏との外交記録、⑤卑弥呼の後継者などを記しています。
このうち、邪馬台国の外交に関する部分は次のとおりです。
- ●二三九(景初三)年
- 卑弥呼の使者が帯方郡に来る
- ○二四〇(正始元)年
- 帯方郡の使者が倭国に来る
- ●二四三(同四)年
- 卑弥呼の使者が再度、朝貢
- ○二四五(同六)年
- 魏が倭に軍旗を下賜
- ●二四六(同七)年
- 卑弥呼が狗奴国との交戦を報告
- ○同年
- 帯方郡の使者が派遣される
- ●二四八(同九)年?
- 卑弥呼死す。内乱起きる
この後、壱与即位。
(●は倭国、○は中国の動き)
このことから、三世紀の前半には「邪馬台国」を盟主とする「国」の連合が(邪馬台国九州説では)北部九州を中心に、又は(畿内説では)西日本にできあがっており、積極的に当時の魏との外交関係を結んでいたことがわかります。
3「邪馬台国」の時代とは
では、この三世紀前半を中心とする時期は、日本史の中でどのような評価がなされているのでしょうか。考古学者による代表的な見解を整理してみましょう。
①近藤義郎氏の考え
考古資料に基づく歴史叙述を試みた近藤義郎氏は次のように説いています(『前方後円墳の時代』1983)。
すなわち、弥生時代後期ないし終末期に、埋葬の型式を共通にする結合が吉備や出雲地域などに出来上がったこと。そして、それを基盤に前方後円墳が波及したと述べています。
②佐原真氏の考え
次は、文化を、伝統的・外来的・固有的要素に分けた佐原真氏(『日本人の誕生』1987)です。
佐原氏は、倭人伝が記す、卑弥呼が王になる前の「倭国大乱」を紀元一七〇~一八〇年ころと考えます。そして、弥生時代後期に丘陵上や山頂などに集落(高地性集落といいます)が営まれることが、その大乱に対応すると述べます。
そして、戦乱の終結後に畿内の王権の指導のもと、各地の首長との間に同盟が成立したと述べています。
③田中琢氏の考え
三番目が、アジア地域の中に日本を位置付けた田中琢氏(『倭人争乱』1991)です。
田中氏は、二世紀から三世紀前半、平野・河川ごとに権力を行使した首長がいたと考え、前方後円形という共通性のある墳墓を採用することは、祖先を共通にし、同じ集団に帰属しているとする濃厚な意識の広がりを意味すると述べます。
さらに、そうした意識の醸成に大きな役割を果たしたのが「三角縁神獣鏡」であると説きます。
④寺沢薫氏の考え
こうした通説に対し、「王権」の誕生を中心に再検討を行ったのが寺沢薫氏(『王権誕生』2000)です。
寺沢氏は、卑弥呼の共立によって新しく誕生したのが「ヤマト王権」であり、纏向遺跡はその都だったと主張します。そして、ヤマト王権の誕生を明治維新になぞらえて、まったく新しい倭国として、権力中枢がヤマト(邪馬台国)の地に再生されたにすぎないというのです。
⑤白石太一郎氏の考え
寺沢説への批判を通じて、通説を再構築したのが白石太一郎氏(「倭国誕生」『倭国誕生』2002)です。
白石氏は、山陰・吉備といった広い範囲の首長の間に、地域的な政治連合が形成されていたこと。そして、その後に現れる出現期古墳の画一性から、広域の政治連合が形成されたと主張しています。
そして、前方後円墳の出現年代は三世紀中葉過ぎであるとして、
三世紀初頭に畿内大和を中心に瀬戸内海沿岸を経て玄海灘沿岸に及ぶベルト地帯に形成された邪馬台国連合の形成が、すなわち邪馬台国の成立にほかならない
というのです。
このように各説に基づきますと、大筋においては、①弥生時代後期末の墳丘墓や出現期の古墳の様相が解明されたこと、②弥生時代の実年代が見なおされて古墳の出現時期が繰り上がったことから、三世紀前半の邪馬台国の時代には、邪馬台国を盟主として西日本に政治連合が形成されたと考えてよいといえます。
ただし、その主導権を握った大和の勢力については、積極的に評価する立場(通説:白石説など)と、消極的に評価する立場(寺沢説)とが対立しています。いずれの説を取るかは、この三世紀前半の「邪馬台国連合」を構成した地域勢力と大和との勢力差を、大きいと見る(通説:白石説)か、対等と見る(寺沢説)か、の違いといえます。
遺跡を中心に、地域の文献資料に残っていない歴史を解明する「考古学」に大きな注目が寄せられる理由は、ここにあるのです。
4 吉備の「国(クニ)」を検証する
それでは、邪馬台国の時代である三世紀前半の吉備国(クニ)は、どのようなものだったのでしょうか。
吉備のクニについて、考古資料の分布の面から地域色を整理した松木武彦(「三世紀のキビのクニ」『三世紀のクニグニ・古代の生産と工房』2002)で、「人口分布」「地位システム」「物資流通」「物質的『共通言語』」「センター」の五つの視点を提起しています。
そこで、松木氏の視点に従って、吉備の地域を見てみましょう。
①人口分布
まず「人口分布」です。
人がたくさんいれば、生産活動や消費を通じて、組織化・システム化が進み、結果として国家が成立します。ですから、どこに人が多く住んでいるかは、クニを論ずる時の重要な視点です。
そこで、吉備の地域の集落分布を見てみると、北の盆地部と南の平野部とに大きく分布域が分かれます。
このことは、人口の集積が南と北とに二分されることを意味します。そのため、人口の集積に起因する政治構造は、同心円的なモデル(中心と周縁)はなりません。
②地位システム
次に、「地位システム」です。
政治的にまとまった地域では、同じ親族・血縁の仕組みや、それに基づく地位のシステムがあると考えられます。そこで、墓制を検討して四つのパターンに分けました。
- 一つ目が、区画はないものの接して葬られることで何らかのつながりを表すタイプの墓制です。
- 二つ目が個別バラバラのもの。
- 三つ目が、周溝・墳丘といった区画を持ちながらも、個人の死を築造の契機とするもの。
- 四つ目が、区画はあるものの中心がはっきりしないタイプです。
吉備では、弥生時代の後期前半(一世紀~二世紀初頭)に、すでに四種類の墓制が登場しています。
後期後半(二世紀初頭~後半)には、四つのパターンのうち、区画をもつ墓が備中の南部に集中します。特に、楯築遺跡のあたりと、後に造山・作山古墳が作られるあたり、すなわち、足守川の下流域です。
どうやらこの時期に、集団と集団の間に、墓の作り方の区分が生じています。そして、備中南部の足守川流域で明確になったのが、この時期の特徴と考えられます。
最後に、弥生時代の末期から古墳時代前期(三世紀)です。
この時期には、小規模の墓が密集した形態がなくなって、区画を有しながらも、特定の人物(家族)を意識した墓が顕著になってくるという現象を指摘することができます。
さらにいえば、(後に)前方後円墳が築かれるような地域では、それ以前に、集団墓地から個別の墓への変化が起こっているのです。
この動きこそ、弥生から古墳への社会変化をとらえる時に、まさに出発点になるべき問題ではないかといえます。
「邪馬台国を考古学する(二)」に続く
https://bingo-history.net/archives/23403https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2019/11/5-1.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2019/11/5-1-150x100.jpg古代史「備陽史探訪:180号」より 網本 善光 1 はじめに 今回は、「邪馬台国」をテーマに、三世紀という時代を考えてみます。 当時の「倭(日本)」の様子は、『魏志倭人伝』に記載があります。特に「邪馬台国」については、所在も含めて研究と論争が行われています。 文献に登場する邪馬台国のことは、文献史学の手法で解決されるべきだと私は考えています。むしろ、考古学では、文献に残されていない当時の倭国の情況がどうだったかを調べることが重要です。 そこで、備後での「邪馬台国の時代」の様相を整理します。合わせて、「吉備」の動向も踏まえて、「備後」の特色を検討しようと思います。 2『魏志倭人伝』の「邪馬台国」 『魏志倭人伝』は「倭人は帯方東南の大海の中にあり」の記述にはじまり、①邪馬台国への行程と主要な国々の風俗、②倭国の社会システム、③卑弥呼共立の経緯、④邪馬台国と魏との外交記録、⑤卑弥呼の後継者などを記しています。 このうち、邪馬台国の外交に関する部分は次のとおりです。 ●二三九(景初三)年 卑弥呼の使者が帯方郡に来る ○二四〇(正始元)年 帯方郡の使者が倭国に来る ●二四三(同四)年 卑弥呼の使者が再度、朝貢 ○二四五(同六)年 魏が倭に軍旗を下賜 ●二四六(同七)年 卑弥呼が狗奴国との交戦を報告 ○同年 帯方郡の使者が派遣される ●二四八(同九)年? 卑弥呼死す。内乱起きる この後、壱与即位。 (●は倭国、○は中国の動き) このことから、三世紀の前半には「邪馬台国」を盟主とする「国」の連合が(邪馬台国九州説では)北部九州を中心に、又は(畿内説では)西日本にできあがっており、積極的に当時の魏との外交関係を結んでいたことがわかります。 3「邪馬台国」の時代とは では、この三世紀前半を中心とする時期は、日本史の中でどのような評価がなされているのでしょうか。考古学者による代表的な見解を整理してみましょう。 ①近藤義郎氏の考え 考古資料に基づく歴史叙述を試みた近藤義郎氏は次のように説いています(『前方後円墳の時代』1983)。 すなわち、弥生時代後期ないし終末期に、埋葬の型式を共通にする結合が吉備や出雲地域などに出来上がったこと。そして、それを基盤に前方後円墳が波及したと述べています。 ②佐原真氏の考え 次は、文化を、伝統的・外来的・固有的要素に分けた佐原真氏(『日本人の誕生』1987)です。 佐原氏は、倭人伝が記す、卑弥呼が王になる前の「倭国大乱」を紀元一七〇~一八〇年ころと考えます。そして、弥生時代後期に丘陵上や山頂などに集落(高地性集落といいます)が営まれることが、その大乱に対応すると述べます。 そして、戦乱の終結後に畿内の王権の指導のもと、各地の首長との間に同盟が成立したと述べています。 ③田中琢氏の考え 三番目が、アジア地域の中に日本を位置付けた田中琢氏(『倭人争乱』1991)です。 田中氏は、二世紀から三世紀前半、平野・河川ごとに権力を行使した首長がいたと考え、前方後円形という共通性のある墳墓を採用することは、祖先を共通にし、同じ集団に帰属しているとする濃厚な意識の広がりを意味すると述べます。 さらに、そうした意識の醸成に大きな役割を果たしたのが「三角縁神獣鏡」であると説きます。 ④寺沢薫氏の考え こうした通説に対し、「王権」の誕生を中心に再検討を行ったのが寺沢薫氏(『王権誕生』2000)です。 寺沢氏は、卑弥呼の共立によって新しく誕生したのが「ヤマト王権」であり、纏向遺跡はその都だったと主張します。そして、ヤマト王権の誕生を明治維新になぞらえて、まったく新しい倭国として、権力中枢がヤマト(邪馬台国)の地に再生されたにすぎないというのです。 ⑤白石太一郎氏の考え 寺沢説への批判を通じて、通説を再構築したのが白石太一郎氏(「倭国誕生」『倭国誕生』2002)です。 白石氏は、山陰・吉備といった広い範囲の首長の間に、地域的な政治連合が形成されていたこと。そして、その後に現れる出現期古墳の画一性から、広域の政治連合が形成されたと主張しています。 そして、前方後円墳の出現年代は三世紀中葉過ぎであるとして、 三世紀初頭に畿内大和を中心に瀬戸内海沿岸を経て玄海灘沿岸に及ぶベルト地帯に形成された邪馬台国連合の形成が、すなわち邪馬台国の成立にほかならない というのです。 このように各説に基づきますと、大筋においては、①弥生時代後期末の墳丘墓や出現期の古墳の様相が解明されたこと、②弥生時代の実年代が見なおされて古墳の出現時期が繰り上がったことから、三世紀前半の邪馬台国の時代には、邪馬台国を盟主として西日本に政治連合が形成されたと考えてよいといえます。 ただし、その主導権を握った大和の勢力については、積極的に評価する立場(通説:白石説など)と、消極的に評価する立場(寺沢説)とが対立しています。いずれの説を取るかは、この三世紀前半の「邪馬台国連合」を構成した地域勢力と大和との勢力差を、大きいと見る(通説:白石説)か、対等と見る(寺沢説)か、の違いといえます。 遺跡を中心に、地域の文献資料に残っていない歴史を解明する「考古学」に大きな注目が寄せられる理由は、ここにあるのです。 4 吉備の「国(クニ)」を検証する それでは、邪馬台国の時代である三世紀前半の吉備国(クニ)は、どのようなものだったのでしょうか。 吉備のクニについて、考古資料の分布の面から地域色を整理した松木武彦(「三世紀のキビのクニ」『三世紀のクニグニ・古代の生産と工房』2002)で、「人口分布」「地位システム」「物資流通」「物質的『共通言語』」「センター」の五つの視点を提起しています。 そこで、松木氏の視点に従って、吉備の地域を見てみましょう。 ①人口分布 まず「人口分布」です。 人がたくさんいれば、生産活動や消費を通じて、組織化・システム化が進み、結果として国家が成立します。ですから、どこに人が多く住んでいるかは、クニを論ずる時の重要な視点です。 そこで、吉備の地域の集落分布を見てみると、北の盆地部と南の平野部とに大きく分布域が分かれます。 このことは、人口の集積が南と北とに二分されることを意味します。そのため、人口の集積に起因する政治構造は、同心円的なモデル(中心と周縁)はなりません。 ②地位システム 次に、「地位システム」です。 政治的にまとまった地域では、同じ親族・血縁の仕組みや、それに基づく地位のシステムがあると考えられます。そこで、墓制を検討して四つのパターンに分けました。 一つ目が、区画はないものの接して葬られることで何らかのつながりを表すタイプの墓制です。 二つ目が個別バラバラのもの。 三つ目が、周溝・墳丘といった区画を持ちながらも、個人の死を築造の契機とするもの。 四つ目が、区画はあるものの中心がはっきりしないタイプです。 吉備では、弥生時代の後期前半(一世紀~二世紀初頭)に、すでに四種類の墓制が登場しています。 後期後半(二世紀初頭~後半)には、四つのパターンのうち、区画をもつ墓が備中の南部に集中します。特に、楯築遺跡のあたりと、後に造山・作山古墳が作られるあたり、すなわち、足守川の下流域です。 どうやらこの時期に、集団と集団の間に、墓の作り方の区分が生じています。そして、備中南部の足守川流域で明確になったのが、この時期の特徴と考えられます。 最後に、弥生時代の末期から古墳時代前期(三世紀)です。 この時期には、小規模の墓が密集した形態がなくなって、区画を有しながらも、特定の人物(家族)を意識した墓が顕著になってくるという現象を指摘することができます。 さらにいえば、(後に)前方後円墳が築かれるような地域では、それ以前に、集団墓地から個別の墓への変化が起こっているのです。 この動きこそ、弥生から古墳への社会変化をとらえる時に、まさに出発点になるべき問題ではないかといえます。 「邪馬台国を考古学する(二)」に続く管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会備陽史探訪の会古代史部会では「大人の博物館教室」と題して定期的に勉強会を行っています。
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