邪馬台国を考古学する(二)

備陽史探訪:181号」より

網本 善光


邪馬台国を考古学する(一)」から続く

③物資流通

三番目の視点が物資の流通体制です。国(クニ)が、ある程度の政治的な組織化を達成したとすると、物資の流通体制にも影響があるといえます。そしてそれは、地域色という形で現れると考えます。

このことについて、弥生時代の鉄鏃についてですが、後の岡山県の地域では返りのあるタイプ(有茎式)が多く、広島県あたりは返りのないタイプ(無茎式)が多いという地域色が認められます。

また、岡山県北部と南部とでは、鉄鏃の製作技法の傾向に違い(鍛延方法と切出し方法)がみられることも指摘されています。

④物質的共通言語

四番目が物質的「共通言語」です。これは、

一つのクニの中で生まれ育つ人々に共通してある意識や観念が形作る、モノのレベルでの共通性

(松木武彦(「三世紀のキビのクニ」二〇〇二)といえるもので、共通語という意味ではありません。

その具体例として、吉備地域のクニの景観を復元してみると、次のようになります。

○北部(盆地部)
高所に集落と墓地がともに作られ、水田が下の平地に広がる。
○備後南部(芦田川流域)
丘陵上に集落も墓もある景観
○備中南部(楯築遺跡周辺)
集落は平野部に広がるのに対して、墓は丘陵上に営まれる。中心にはひときわ大きい墳丘墓が築かれ、その影響を受けた墳丘墓が、周囲の丘陵上に営まれる。

特に「平地に集落、高所に墓」という景観は吉備南部の平野地域に特有なものです。そして、

平地に人が住み、高所に霊(死者)が宿るという世界観

(松木同書)が吉備という意識の源であったと考えられているのです。

⑤センター

最後が「センター」の機能です。

国(クニ)はその中心に、何らかの権威を表わす構築物(王の墓や都市など)が設けられます。

吉備では、そうしたセンター機能を想定できる場所としては、楯築墳丘墓の周辺があります。

以上の①から⑤の視点を基に吉備の地域を検討しますと、弥生時代後期後半(二世紀)の備中南部の平野部に人々が集中して住み(集落遺跡の集中)、特別な人たちの墓が作られ(楯築墳丘墓など)、交通の要衝(地域色ある遺物)となった都市的景観をイメージすることができます。

ところが、楯築墳丘墓以降は、卓越した王墓は生まれません。かえって、三世紀前半の時期には、宮山墳丘墓・矢藤治山墳丘墓といった近畿の箸墓の影響下に築かれたと考えられる墓になっています。

つまり、キビは

楯築を契機に急に顕在化し、その後はにわかに退潮する

(松木同書)のです。

5.「魏志倭人伝」時代の備後

以上のように、吉備地域では二世紀後半の楯築墳丘墓が築かれた頃に、国(クニ)としてのまとまりが生まれたといえます。しかし、三世紀前半になるとその勢力は退潮して、いわば「邪馬台国連合」の中に組み込まれた、とも考えられます。

こうした時期の備後地域は、どのような状況だったのでしょうか。

そこで、備後南部の中でも弥生時代の集落遺跡(亀山遺跡・大宮遺跡・御領遺跡)が集中する神辺平野東部の動向について見てゆきます。

(1)神辺平野東部の自然環境

大宮遺跡における花粉分析から、当時の神辺平野の環境が復元されています。

すなわち、弥生時代後期には

著しい栽培型のイネ科(大半がイネ属型)の花粉出現で特徴づけられる

(安田喜憲ほか『大宮遺跡発掘調査報告書 九反田地区Ⅰ・Ⅱ』一九八八)のですが、そのほかにヒョウタンの種子やクリノキ属の花粉が検出されており、

イネもクリもヒョウタンもいずれも弥生時代後期の人々によって栽培管理されたものであろう

(安田ほか同書)と考えられています。

こうして神辺平野では、微高地上に環濠集落が営まれています。

(2)神辺平野東部の生産

神辺平野では、弥生時代の集落跡及び水田跡の調査がほとんど行われていないために、その水田経営の様子はよくわかっていません。

只、大宮遺跡から多量の石器や材料が出土していますから、石器制作を行っていたことは推測されます。

しかし、このほかに青銅器や鉄器の生産を示すような遺構は確認されていません。亀山遺跡や御領遺跡でも同様ですから、当時の神辺平野は生産というよりは、消費にかかる集落が中心的だったと考えます。

(3)神辺平野東部の集落

神辺平野には、濠で集落を囲った防御的な集落が三つ(亀山遺跡・大宮遺跡・御領遺跡)営まれます。そして、これらの集落が拠点となって、小規模の集落が周辺に広がる景観が想定されます。

亀山遺跡

平野の中央付近、亀山丘陵上に、三本の濠をめぐらせた集落が営まれています。この環濠は、弥生時代前期に開削され、その後に外側へ次の環濠が掘削(この段階では二重環濠の状態)されます。

しかし、前期末には両濠ともに埋め戻されて新たに丘陵全体をめぐる濠が作られます。この濠は中期の初頭に埋没し、集落も廃絶します。

環濠内の集落の様子はよくわかっていませんが、土塁を築いた防御的な性格の集落を想像することができます。

亀山遺跡
亀山遺跡

大宮遺跡

沖積平野の微高地上を東西に流れる自然河川と背後の湿地を利用して営まれた集落で、三本の環濠が確認されています。

まず、前期後半に、濠の内側へ土塁を築いた集落が現れます。その後に濠は埋められますが、外側に次の濠が掘られます。そして、中期初頭になると、二本目の環濠の内側に新しく濠が作られて、中期中葉に埋められます。環濠集落はこの時期に廃絶し、以後は、さらに北へ離れた場所に集落が認められます。

亀山遺跡と同様に集落部分は不明ですが、神辺平野には弥生時代前期の後半に、防御的な集落(ムラ)が平野と丘陵上とに二つ存在したことになります。

御領遺跡

最後が、旧高屋川の微高地上に営まれた御領遺跡です。

弥生時代前期後半に二本の濠が掘削(後に自然埋没)され、中期初頭に再度開削されます。この時には、北西側にも溝が掘られ、直径約一二〇mの環濠となるようです。この濠は古墳時代初頭頃まで機能していたとみられます。

総じて、神辺平野の三世紀は、大宮や亀山といった拠点的な環濠集落が消滅して、JR福塩線の外側などに多くの弥生遺跡が見られることから、小規模のムラが拡大拡散していると考えます。

(4)神辺平野東部の社会

最後に、松木が提示した五つの視点に合わせて、邪馬台国の時代である三世紀前半の神辺平野東部の社会を見てみましょう。

最初の「人口分布」という視点ですが、神辺平野東部では、弥生時代後期には亀山遺跡・大宮遺跡・御領遺跡という拠点的な環濠集落にかわり、山側に集落が分散拡大していることから、人口密度は比較的高かったのではないか、と想像できます。

「地位システム」としての墓地の構造ですが、墳墓の調査がほとんどなされていないためにくわしいことはわかりません。ただし、大型の墳丘墓が確認されていないことから、卓越した首長は生まれていなかったようです。

「物資流通」では、生産に関する遺物・遺構がほとんどみられないことから、中心的な役割はもっていなかったと考えます。

「物質的『共通言語』」いわゆるクニとしての景観ですが、弥生時代後期は、微高地が安定した水田耕作の場となり、集落は平野の縁辺部に小規模にまとまる姿を想定できます。

そして「センター」です。弥生後期の大型の集落は神辺平野では確認されていませんから、センター的な機能は果たされていないと考えます。

6.終わりに

以上のことから、備後南部でも神辺平野の地域は、邪馬台国の時代に小規模の集落が分散して営まれており、そこにはセンター的な機能をもつ集落は生まれていないことが考えられます。

しかし、特殊壷の出土や吉備系の土器の搬入が見られるなど、吉備中央部との一定の関係をもっていたこともわかっています。

弥生時代後期の集落遺跡は、備後南部も含めて、まだ十分に実態が解明されているとはいえません。資料の増加に注目しながら、引き続きその実態を検討することが大事であると考えます。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2019/11/4a65bb8c444d13005de5fc371dc20507.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2019/11/4a65bb8c444d13005de5fc371dc20507-150x100.jpg管理人古代史「備陽史探訪:181号」より 網本 善光 「邪馬台国を考古学する(一)」から続く ③物資流通 三番目の視点が物資の流通体制です。国(クニ)が、ある程度の政治的な組織化を達成したとすると、物資の流通体制にも影響があるといえます。そしてそれは、地域色という形で現れると考えます。 このことについて、弥生時代の鉄鏃についてですが、後の岡山県の地域では返りのあるタイプ(有茎式)が多く、広島県あたりは返りのないタイプ(無茎式)が多いという地域色が認められます。 また、岡山県北部と南部とでは、鉄鏃の製作技法の傾向に違い(鍛延方法と切出し方法)がみられることも指摘されています。 ④物質的共通言語 四番目が物質的「共通言語」です。これは、 一つのクニの中で生まれ育つ人々に共通してある意識や観念が形作る、モノのレベルでの共通性 (松木武彦(「三世紀のキビのクニ」二〇〇二)といえるもので、共通語という意味ではありません。 その具体例として、吉備地域のクニの景観を復元してみると、次のようになります。 ○北部(盆地部) 高所に集落と墓地がともに作られ、水田が下の平地に広がる。 ○備後南部(芦田川流域) 丘陵上に集落も墓もある景観 ○備中南部(楯築遺跡周辺) 集落は平野部に広がるのに対して、墓は丘陵上に営まれる。中心にはひときわ大きい墳丘墓が築かれ、その影響を受けた墳丘墓が、周囲の丘陵上に営まれる。 特に「平地に集落、高所に墓」という景観は吉備南部の平野地域に特有なものです。そして、 平地に人が住み、高所に霊(死者)が宿るという世界観 (松木同書)が吉備という意識の源であったと考えられているのです。 ⑤センター 最後が「センター」の機能です。 国(クニ)はその中心に、何らかの権威を表わす構築物(王の墓や都市など)が設けられます。 吉備では、そうしたセンター機能を想定できる場所としては、楯築墳丘墓の周辺があります。 以上の①から⑤の視点を基に吉備の地域を検討しますと、弥生時代後期後半(二世紀)の備中南部の平野部に人々が集中して住み(集落遺跡の集中)、特別な人たちの墓が作られ(楯築墳丘墓など)、交通の要衝(地域色ある遺物)となった都市的景観をイメージすることができます。 ところが、楯築墳丘墓以降は、卓越した王墓は生まれません。かえって、三世紀前半の時期には、宮山墳丘墓・矢藤治山墳丘墓といった近畿の箸墓の影響下に築かれたと考えられる墓になっています。 つまり、キビは 楯築を契機に急に顕在化し、その後はにわかに退潮する (松木同書)のです。 5.「魏志倭人伝」時代の備後 以上のように、吉備地域では二世紀後半の楯築墳丘墓が築かれた頃に、国(クニ)としてのまとまりが生まれたといえます。しかし、三世紀前半になるとその勢力は退潮して、いわば「邪馬台国連合」の中に組み込まれた、とも考えられます。 こうした時期の備後地域は、どのような状況だったのでしょうか。 そこで、備後南部の中でも弥生時代の集落遺跡(亀山遺跡・大宮遺跡・御領遺跡)が集中する神辺平野東部の動向について見てゆきます。 (1)神辺平野東部の自然環境 大宮遺跡における花粉分析から、当時の神辺平野の環境が復元されています。 すなわち、弥生時代後期には 著しい栽培型のイネ科(大半がイネ属型)の花粉出現で特徴づけられる (安田喜憲ほか『大宮遺跡発掘調査報告書 九反田地区Ⅰ・Ⅱ』一九八八)のですが、そのほかにヒョウタンの種子やクリノキ属の花粉が検出されており、 イネもクリもヒョウタンもいずれも弥生時代後期の人々によって栽培管理されたものであろう (安田ほか同書)と考えられています。 こうして神辺平野では、微高地上に環濠集落が営まれています。 (2)神辺平野東部の生産 神辺平野では、弥生時代の集落跡及び水田跡の調査がほとんど行われていないために、その水田経営の様子はよくわかっていません。 只、大宮遺跡から多量の石器や材料が出土していますから、石器制作を行っていたことは推測されます。 しかし、このほかに青銅器や鉄器の生産を示すような遺構は確認されていません。亀山遺跡や御領遺跡でも同様ですから、当時の神辺平野は生産というよりは、消費にかかる集落が中心的だったと考えます。 (3)神辺平野東部の集落 神辺平野には、濠で集落を囲った防御的な集落が三つ(亀山遺跡・大宮遺跡・御領遺跡)営まれます。そして、これらの集落が拠点となって、小規模の集落が周辺に広がる景観が想定されます。 亀山遺跡 平野の中央付近、亀山丘陵上に、三本の濠をめぐらせた集落が営まれています。この環濠は、弥生時代前期に開削され、その後に外側へ次の環濠が掘削(この段階では二重環濠の状態)されます。 しかし、前期末には両濠ともに埋め戻されて新たに丘陵全体をめぐる濠が作られます。この濠は中期の初頭に埋没し、集落も廃絶します。 環濠内の集落の様子はよくわかっていませんが、土塁を築いた防御的な性格の集落を想像することができます。 大宮遺跡 沖積平野の微高地上を東西に流れる自然河川と背後の湿地を利用して営まれた集落で、三本の環濠が確認されています。 まず、前期後半に、濠の内側へ土塁を築いた集落が現れます。その後に濠は埋められますが、外側に次の濠が掘られます。そして、中期初頭になると、二本目の環濠の内側に新しく濠が作られて、中期中葉に埋められます。環濠集落はこの時期に廃絶し、以後は、さらに北へ離れた場所に集落が認められます。 亀山遺跡と同様に集落部分は不明ですが、神辺平野には弥生時代前期の後半に、防御的な集落(ムラ)が平野と丘陵上とに二つ存在したことになります。 御領遺跡 最後が、旧高屋川の微高地上に営まれた御領遺跡です。 弥生時代前期後半に二本の濠が掘削(後に自然埋没)され、中期初頭に再度開削されます。この時には、北西側にも溝が掘られ、直径約一二〇mの環濠となるようです。この濠は古墳時代初頭頃まで機能していたとみられます。 総じて、神辺平野の三世紀は、大宮や亀山といった拠点的な環濠集落が消滅して、JR福塩線の外側などに多くの弥生遺跡が見られることから、小規模のムラが拡大拡散していると考えます。 (4)神辺平野東部の社会 最後に、松木が提示した五つの視点に合わせて、邪馬台国の時代である三世紀前半の神辺平野東部の社会を見てみましょう。 最初の「人口分布」という視点ですが、神辺平野東部では、弥生時代後期には亀山遺跡・大宮遺跡・御領遺跡という拠点的な環濠集落にかわり、山側に集落が分散拡大していることから、人口密度は比較的高かったのではないか、と想像できます。 「地位システム」としての墓地の構造ですが、墳墓の調査がほとんどなされていないためにくわしいことはわかりません。ただし、大型の墳丘墓が確認されていないことから、卓越した首長は生まれていなかったようです。 「物資流通」では、生産に関する遺物・遺構がほとんどみられないことから、中心的な役割はもっていなかったと考えます。 「物質的『共通言語』」いわゆるクニとしての景観ですが、弥生時代後期は、微高地が安定した水田耕作の場となり、集落は平野の縁辺部に小規模にまとまる姿を想定できます。 そして「センター」です。弥生後期の大型の集落は神辺平野では確認されていませんから、センター的な機能は果たされていないと考えます。 6.終わりに 以上のことから、備後南部でも神辺平野の地域は、邪馬台国の時代に小規模の集落が分散して営まれており、そこにはセンター的な機能をもつ集落は生まれていないことが考えられます。 しかし、特殊壷の出土や吉備系の土器の搬入が見られるなど、吉備中央部との一定の関係をもっていたこともわかっています。 弥生時代後期の集落遺跡は、備後南部も含めて、まだ十分に実態が解明されているとはいえません。資料の増加に注目しながら、引き続きその実態を検討することが大事であると考えます。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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