賽の神を探す(福山市千田町)

備陽史探訪:181号」より

根岸 尚克

先頃、ある目的で千田地域の「賽の神」を探す事となり、備陽六郡志と福山志料で探してみる。

現在の千田町は江戸時代の藪路村・坂田村・千田村を含む地域であり、志料、六郡志で探すが見当たらない。しかし賽の神は村境に在るものである。そこで隣接する村で探すと、そうに違いないと思われる記述がある。

福山志料奈良津村の所に「才の峠藪路村に通ス」とある(六郡志には記述はない)。奈良津村は藪路村の隣村である。才の峠は賽の神が在る峠の事である(才は賽の当て字)。そして六郡志では、千田村の隣村の市村(現在の蔵王町)の所に「蔵王 一 菜神 社無」(巻九)とある。更に「菜神長池に有(外篇深津郡之二千田村の項)」とあり、市村の記述と重複していると思われる。菜も賽の当て字で、菜と読むのに違いない。千田地域には二カ所賽の神が在った。

緑陽町の賽の神 右の地蔵像は八十八ケ所のもの
緑陽町の賽の神 右の地蔵像は八十八ケ所のもの
そこで所在を確かめに現地に行く。奈良津村の才の峠に在ったであろう賽の神は、緑陽町の団地を外れた林の中に在った。「賽に座す社」と書かれた扁額が掛かっているので賽の神と分かる。直ぐ下は大峠である。両備軽便鉄道のトンネルがあった頃にはその上当りにあったが、昭和十年にトンネルを壊した時、現在地に遷座したものである。この事からトンネルがあった上に、江戸時代才の峠という藪路村から奈良津村への山越えの道があり、ここが両村の境で、賽の神が祀られていた事が分かる。

賽の神はその発生から御神体は石である。しかしこの社は石もお札も何も無い。現在地に移す時迄は小石が御神体だったが移す時に捨てられたのであろう。

長池のほとりから蔵王山のふもとに移された賽の神
長池のほとりから蔵王山のふもとに移された賽の神
次に六郡志の長池に在りという賽の神を探したが見当たらない。長池は孝霊池とも言い、孝霊天皇を伝え、山陽自動車道福山東インターの所にある池である。数年前から地域の歴史や風習等を公民館の依頼で「千田風土記」のタイトルで紹介する中で、長池の「菜の神」を探したわけである。当時はこの当りが千田村と市村の境だと思われる。そこで長池の周囲及び天神原迄も探したが見当たらないと書いた。すると二名の方から、長池の所にあった賽の神は道路や池の拡張に伴い、蔵王山麓に移されていると知らせていただき、写真に撮っておいた。昔の長池はより小さかった事、賽の神はしゃあの神と発音していた事も分かった。写真で分かる様に、現在地の賽の神も、御神体の石もお札も無い。

賽の神の語源は日本書紀に出ている。イザナギ・イザナミは日本列島を産んでいくが、イザナミは火の神カグツチを産んだので女陰を焼かれて死ぬ。イザナギはどうしてもイザナミに会いたいと思い黄泉の国に追って行く。しかしすでに黄泉の国の食べ物を食した以上、現世に帰るわけにいかない。黄泉の神の許可を取って来る迄、私を見ないでくださいと言い残して去って行く。しかし、待ち兼ねてとうとう見てしまうが、あまりの醜さに逃げ出してしまう。イザナギは「吾に辱見せつ」と言って黄泉醜女に追いかけさせ、最後に自ら追いかけて来た。そこでいざなぎは巨大な千引の岩をこの世とあの世の境の黄泉比良坂に塞いで夫婦離別の誓いをした。所塞がる磐石といふは、是泉門に塞ります大神を謂ふ。亦の名を道返大神といふ。古事記にも黄泉の坂に塞りし石は黄泉戸に塞ります大神と謂ふとある。塞ります大神、賽の神となった。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/05/25c62591522cac4039e8b8c5c00c0f9c.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/05/25c62591522cac4039e8b8c5c00c0f9c-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:181号」より 根岸 尚克 先頃、ある目的で千田地域の「賽の神」を探す事となり、備陽六郡志と福山志料で探してみる。 現在の千田町は江戸時代の藪路村・坂田村・千田村を含む地域であり、志料、六郡志で探すが見当たらない。しかし賽の神は村境に在るものである。そこで隣接する村で探すと、そうに違いないと思われる記述がある。 福山志料奈良津村の所に「才の峠藪路村に通ス」とある(六郡志には記述はない)。奈良津村は藪路村の隣村である。才の峠は賽の神が在る峠の事である(才は賽の当て字)。そして六郡志では、千田村の隣村の市村(現在の蔵王町)の所に「蔵王 一 菜神 社無」(巻九)とある。更に「菜神長池に有(外篇深津郡之二千田村の項)」とあり、市村の記述と重複していると思われる。菜も賽の当て字で、菜と読むのに違いない。千田地域には二カ所賽の神が在った。 そこで所在を確かめに現地に行く。奈良津村の才の峠に在ったであろう賽の神は、緑陽町の団地を外れた林の中に在った。「賽に座す社」と書かれた扁額が掛かっているので賽の神と分かる。直ぐ下は大峠である。両備軽便鉄道のトンネルがあった頃にはその上当りにあったが、昭和十年にトンネルを壊した時、現在地に遷座したものである。この事からトンネルがあった上に、江戸時代才の峠という藪路村から奈良津村への山越えの道があり、ここが両村の境で、賽の神が祀られていた事が分かる。 賽の神はその発生から御神体は石である。しかしこの社は石もお札も何も無い。現在地に移す時迄は小石が御神体だったが移す時に捨てられたのであろう。 次に六郡志の長池に在りという賽の神を探したが見当たらない。長池は孝霊池とも言い、孝霊天皇を伝え、山陽自動車道福山東インターの所にある池である。数年前から地域の歴史や風習等を公民館の依頼で「千田風土記」のタイトルで紹介する中で、長池の「菜の神」を探したわけである。当時はこの当りが千田村と市村の境だと思われる。そこで長池の周囲及び天神原迄も探したが見当たらないと書いた。すると二名の方から、長池の所にあった賽の神は道路や池の拡張に伴い、蔵王山麓に移されていると知らせていただき、写真に撮っておいた。昔の長池はより小さかった事、賽の神はしゃあの神と発音していた事も分かった。写真で分かる様に、現在地の賽の神も、御神体の石もお札も無い。 賽の神の語源は日本書紀に出ている。イザナギ・イザナミは日本列島を産んでいくが、イザナミは火の神カグツチを産んだので女陰を焼かれて死ぬ。イザナギはどうしてもイザナミに会いたいと思い黄泉の国に追って行く。しかしすでに黄泉の国の食べ物を食した以上、現世に帰るわけにいかない。黄泉の神の許可を取って来る迄、私を見ないでくださいと言い残して去って行く。しかし、待ち兼ねてとうとう見てしまうが、あまりの醜さに逃げ出してしまう。イザナギは「吾に辱見せつ」と言って黄泉醜女に追いかけさせ、最後に自ら追いかけて来た。そこでいざなぎは巨大な千引の岩をこの世とあの世の境の黄泉比良坂に塞いで夫婦離別の誓いをした。所塞がる磐石といふは、是泉門に塞ります大神を謂ふ。亦の名を道返大神といふ。古事記にも黄泉の坂に塞りし石は黄泉戸に塞ります大神と謂ふとある。塞ります大神、賽の神となった。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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