甦る福山城下町―現在の町並へ城下町を復元する―

備陽史探訪:181号」より

瀬良 泰三

旧城下町の南端に位置する場所に生まれ育った関係で、そこが昔の城下町のどのような場所で、どんな位置関係にあったのかずっと興味があったが、なにしろ物心付いた時にはすでに町は戦災で焼かれその後の区画整理がなされた後であり、まったく面影も失われてしまっていた。

資料を探して図書館等でも調べてみたが、現在の街並みと以前の城下町の正確な位置関係を示したような地図も見つからず、長年心に引っかかったままとなっていた。

近年、現在や過去の航空写真とか絵図等も比較的簡単に手に入るようになったこともあり、それらを比較検討することにより我々でも城下町をかなり正確に復元できる可能性が出てきた。そこでまず現在の街並みの上に城下町を復元することを試みた。たださほど文献、古文書の知識を持っていないこともあり今回は出来るだけ既成概念を除去して純粋に地理・地形をもとに、それから読み取れるものだけをたよりに痕跡を探し出し作成することにした。したがってできれば文献、古文書に詳しい方からの批判をいただいてブラッシュアップしていき、正確度を上げられればと思っている。手法の違う二つの結果による相互批判という意味でもその方が良いのかもしれない。

さて、前も述べたように航空写真が割と簡単に手に入るようになった。手に入る過去の航空写真で一番古いのは1947年の様である。たぶんそれ以前にも大戦中米軍で爆撃目標を特定するために撮った偵察写真はあると思われるが現在まで見たことはない。この1947年の米軍が撮った航空写真を見ると、正に区画整理直前であり、しかも戦災で建物が焼けたためなのか、当時の道路が明瞭に読み取れる。しかも驚いたことにそれが城下町絵図とほぼ正確に一致する。つまり当時までは明確に城下町当時の街路が残っていたのである。

それ以外にも様々な痕跡が読み取れ総合して絵図と矛盾の無いように復元を進めた。

今回城下町を復元するにあたって、次のような手法を取った。

利用した資料は、手に入る範囲の福山城下町絵図(十種)、新旧航空写真、戦災後の区画整理前後の計画図、新旧地形図、である。

まず現在の航空写真と、区画整理前の航空写真を正確に各部分が同じ位置になるように重ね合わせる必要があるので、その二つの航空写真をパソコンの画像処理ソフトを使って重ね合わせる。ただそれらの写真はそのままの状態では、撮影レンズの特性による歪や、周辺部分は斜めに写されて拡大された状態になっているといった特徴があり、単純に重ね合わせても各部分の位置が合わない。そのため、古い方の写真を基準として当時と現在で位置が変わっていないと思われる建物、地形、道、水路、痕跡等をできるだけ多く探し出し、別のレイヤー上にプロットし、それらが合うように新しい方の航空写真を修正していった。これが一番手間がかかるが、根気よくやれば見事に各部分重なり合う。

次に区画整理前の航空写真と城下町絵図を比較しながら、道、水路等を書き込んでいく。

北の部分は寺社、城址等あまり変化していない部分が多く、比較的楽に対応がとれる。読み取り難いのは吉津川の川幅で、当時は大河であったと記されているようにかなりの幅を持っていたといわれる。たしかに蓮池下流は家もなく当時の広い川幅が残っている。吉津、胡町あたりは町屋が張り出していて、川幅が狭まり当時の面影はないが、それでも建屋の方向、地上の痕跡が読み取れるところもありある程度推定できる。

西は、絵図では西の防御を考えたのか、それとも低地であったためか、初期の絵図では幅広の水路(池)が描かれている。特に能満池以外にも通安寺周辺には池があったようであり、江戸時代でも時代が下がると単なる水路で描かれるようになるが、当初はかなり広かったようである。この城下町西側の惣構水路、池の推定がポイントとなるが、探すと図1に示すように区画整理前の航空写真には水路ははっきり残っておりまたその西側の水田内に池の西端と思われる痕跡、それに沿った道が読み取れ絵図に書かれている形状とも矛盾しない。長者町・寺社の配置はあまり変化していないようである。

城下町西側 水路痕跡
図1 城下町西側水路痕跡

南は道三川がポイントになる。当初は南の惣構水路であったと思われ絵図では幅広く書かれているのもある。1947年航空写真では図2のように南への迂回 蛇行跡も読み取れることから考えて城下町以前の芦田川流路痕跡の一つであると思われる。南町あたりは初期の絵図には池が描かれ、城下町の最も低い地であったと思われる。
城下南側 道三川蛇行跡
図2 道三川蛇行跡

道三、霞の西は自然堤防の上にできた町であり霞の通りは変わってない。後の城下町拡張で作られた道三町には絵図では南に水路がなく高藪で囲われている。たぶんこれは当初芦田川流路跡であった道三川を惣構の南端としたが、道三あたりが、自然堤防で周りより高く、のちに太平の世となりあまり軍事的な必要もなくなり道三川の外ではあるが拡張したのであろう。

東は東小学校あたり、鉄道周辺の改変はあるが、惣構水路が明瞭に残っており対応はしやすい。寺町の寺や北の寺社配置はあまり変わっていないようである。

城下町の外側の状況については絵図にも記載はなく、しかも芦田川改修で大幅に変化している。資料としては改修前の明治大正の地形図しか無いのでそれを参考に、地形図を重ね合わせ、大まかに川筋、道路を書き込んだ。

これらを総合して城下町を区画整理前の航空写真上に書き込み、それを現在の航空写真上に対応させたのが図3である。元図をかなり縮小し白黒にしているので見難いが当時に比べ特に寺の敷地が小さくなり、水路・池がほとんど埋め立てられたり付け替えられているのが印象的である。この重ね合わせている城下町の図は1690年前後の水野期末の絵図を下敷きにしている。

現在の航空写真とこれを重ね合わせてみると、変化に驚かされるが、街角に立って昔の城下町の街並みを想像しているのも楽しい。

前にも述べたように純粋に地理・地形からの復元であり、別の観点からの参考になる情報があればぜひいただきたい。それにより新たに記載、修正していき、より正確にしていきたい。

福山城下町復元図
図3 現在の街並み上への城下町の復元

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2014/12/4ada78a99d690befe9a00f10e42f14b4.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2014/12/4ada78a99d690befe9a00f10e42f14b4-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:181号」より 瀬良 泰三 旧城下町の南端に位置する場所に生まれ育った関係で、そこが昔の城下町のどのような場所で、どんな位置関係にあったのかずっと興味があったが、なにしろ物心付いた時にはすでに町は戦災で焼かれその後の区画整理がなされた後であり、まったく面影も失われてしまっていた。 資料を探して図書館等でも調べてみたが、現在の街並みと以前の城下町の正確な位置関係を示したような地図も見つからず、長年心に引っかかったままとなっていた。 近年、現在や過去の航空写真とか絵図等も比較的簡単に手に入るようになったこともあり、それらを比較検討することにより我々でも城下町をかなり正確に復元できる可能性が出てきた。そこでまず現在の街並みの上に城下町を復元することを試みた。たださほど文献、古文書の知識を持っていないこともあり今回は出来るだけ既成概念を除去して純粋に地理・地形をもとに、それから読み取れるものだけをたよりに痕跡を探し出し作成することにした。したがってできれば文献、古文書に詳しい方からの批判をいただいてブラッシュアップしていき、正確度を上げられればと思っている。手法の違う二つの結果による相互批判という意味でもその方が良いのかもしれない。 さて、前も述べたように航空写真が割と簡単に手に入るようになった。手に入る過去の航空写真で一番古いのは1947年の様である。たぶんそれ以前にも大戦中米軍で爆撃目標を特定するために撮った偵察写真はあると思われるが現在まで見たことはない。この1947年の米軍が撮った航空写真を見ると、正に区画整理直前であり、しかも戦災で建物が焼けたためなのか、当時の道路が明瞭に読み取れる。しかも驚いたことにそれが城下町絵図とほぼ正確に一致する。つまり当時までは明確に城下町当時の街路が残っていたのである。 それ以外にも様々な痕跡が読み取れ総合して絵図と矛盾の無いように復元を進めた。 今回城下町を復元するにあたって、次のような手法を取った。 利用した資料は、手に入る範囲の福山城下町絵図(十種)、新旧航空写真、戦災後の区画整理前後の計画図、新旧地形図、である。 まず現在の航空写真と、区画整理前の航空写真を正確に各部分が同じ位置になるように重ね合わせる必要があるので、その二つの航空写真をパソコンの画像処理ソフトを使って重ね合わせる。ただそれらの写真はそのままの状態では、撮影レンズの特性による歪や、周辺部分は斜めに写されて拡大された状態になっているといった特徴があり、単純に重ね合わせても各部分の位置が合わない。そのため、古い方の写真を基準として当時と現在で位置が変わっていないと思われる建物、地形、道、水路、痕跡等をできるだけ多く探し出し、別のレイヤー上にプロットし、それらが合うように新しい方の航空写真を修正していった。これが一番手間がかかるが、根気よくやれば見事に各部分重なり合う。 次に区画整理前の航空写真と城下町絵図を比較しながら、道、水路等を書き込んでいく。 北の部分は寺社、城址等あまり変化していない部分が多く、比較的楽に対応がとれる。読み取り難いのは吉津川の川幅で、当時は大河であったと記されているようにかなりの幅を持っていたといわれる。たしかに蓮池下流は家もなく当時の広い川幅が残っている。吉津、胡町あたりは町屋が張り出していて、川幅が狭まり当時の面影はないが、それでも建屋の方向、地上の痕跡が読み取れるところもありある程度推定できる。 西は、絵図では西の防御を考えたのか、それとも低地であったためか、初期の絵図では幅広の水路(池)が描かれている。特に能満池以外にも通安寺周辺には池があったようであり、江戸時代でも時代が下がると単なる水路で描かれるようになるが、当初はかなり広かったようである。この城下町西側の惣構水路、池の推定がポイントとなるが、探すと図1に示すように区画整理前の航空写真には水路ははっきり残っておりまたその西側の水田内に池の西端と思われる痕跡、それに沿った道が読み取れ絵図に書かれている形状とも矛盾しない。長者町・寺社の配置はあまり変化していないようである。 南は道三川がポイントになる。当初は南の惣構水路であったと思われ絵図では幅広く書かれているのもある。1947年航空写真では図2のように南への迂回 蛇行跡も読み取れることから考えて城下町以前の芦田川流路痕跡の一つであると思われる。南町あたりは初期の絵図には池が描かれ、城下町の最も低い地であったと思われる。 道三、霞の西は自然堤防の上にできた町であり霞の通りは変わってない。後の城下町拡張で作られた道三町には絵図では南に水路がなく高藪で囲われている。たぶんこれは当初芦田川流路跡であった道三川を惣構の南端としたが、道三あたりが、自然堤防で周りより高く、のちに太平の世となりあまり軍事的な必要もなくなり道三川の外ではあるが拡張したのであろう。 東は東小学校あたり、鉄道周辺の改変はあるが、惣構水路が明瞭に残っており対応はしやすい。寺町の寺や北の寺社配置はあまり変わっていないようである。 城下町の外側の状況については絵図にも記載はなく、しかも芦田川改修で大幅に変化している。資料としては改修前の明治大正の地形図しか無いのでそれを参考に、地形図を重ね合わせ、大まかに川筋、道路を書き込んだ。 これらを総合して城下町を区画整理前の航空写真上に書き込み、それを現在の航空写真上に対応させたのが図3である。元図をかなり縮小し白黒にしているので見難いが当時に比べ特に寺の敷地が小さくなり、水路・池がほとんど埋め立てられたり付け替えられているのが印象的である。この重ね合わせている城下町の図は1690年前後の水野期末の絵図を下敷きにしている。 現在の航空写真とこれを重ね合わせてみると、変化に驚かされるが、街角に立って昔の城下町の街並みを想像しているのも楽しい。 前にも述べたように純粋に地理・地形からの復元であり、別の観点からの参考になる情報があればぜひいただきたい。それにより新たに記載、修正していき、より正確にしていきたい。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
詳しくは以下のリンクをご覧ください。 近世福山の歴史を学ぶ