「備陽史探訪:181号」より
矢田 貞美
矢田二郎三郎重宗〔万治元年(一六五八)七月二十四日生ー享保元年(一七一六)二月十二日没〕は、葛原屋敷住の庄屋矢田太郎右衛門重得の次男として生まれる。重宗については根岸の論文に譲り、小稿では顕彰碑の碑文について論じる。父重得は嫡男(太郎右衛門、屋号、永徳寺)に家督を、また次男二郎三郎重宗には分家させ庄屋職をそれぞれ譲り,三男権左衛門と女子2人を連れて隠居する(矢田家文書)。
当時の葛原屋敷は、現葛原屋敷裏手の竹藪林の上側、即ち蓮乗院の東側の現在畑地となっているところで、小字名「葛原屋敷」に該当する。現葛原家の屋敷に移居したのは重得(貞享四年(一六八七)没)の父太郎右衛門重善(寛永十六年(一六三九)没)が庄屋職を拝命した寛永八年(一六三一)以降のことと推察される。
明治十五年八月、地主大明神(二郎三郎重宗)の社殿再建のための趣意書「地主大明神の御神徳と其の略歴」が作成され(写真1)、裏面には矢田一族の住所氏名が記されている。再建社殿の上下の長押の間に同趣意書の要録を墨書した檜製の板が掲げられていた(写真2)。
この再建された社殿は、経年腐朽のため取り壊し、その跡地に平成二十三年二月、矢田氏一門によって石碑が建立され(写真3)、石碑には前記趣意書の要録が刻字されている。
なお、本家永徳寺の屋敷は現葛原屋敷東の隣接地にあり、現葛原家の屋敷より二十センチ程高く、屋敷跡には孟宗竹が茂り、楠や銀杏の大木が林立しており、生簀や切石の井戸枠が往時を偲ばせる。本家破産の際、この屋敷と建物は分家葛原家の所有となり、居宅は葛原勾当の弟子の集合稽古に使用されていた。勾当はこの二階建ての居宅を慶応三年(一八六七)十一月に売却するが、その後解体移築され中二階の居宅として隣町で使用されている。
一 重宗の顕彰碑と趣意書
社殿再建のための趣意書には、『地主大明神の俗名は二郎三郎で,諱は重宗,万治元年(一六五八)七月二十四日辰の刻に備後国安那郡八尋村に生まれた。生来豪宏、強きを挫き弱きを助けることを一生の楽しみとした。二十五歳で,父太郎右衛門重得の家督を継ぎ,同時に八尋村の庄屋の役についた。
元禄十三年(一七〇〇)、松平伊豫守が水野美濃守の後をうけて、備後の領主福山侯に任ぜられた時、領内の検地を行ったが、非常に過酷な為 人民が大変困るのを見兼ねて、嘆願書を出したり、役所に出かけて何回となく哀訴したけれども官吏は少しも応ずる様子もないので、村民は遂に蜂起して、やむなく強訴の挙に出でんとするに至った。これを見るや懇ろに慰諭し、退散せしめて、自ら其の衝に当たる決心をした。乃ち、白衣を下に着込んで、小刀を懐にし、豫め死を覚悟の上で、憤然、検地の前途を遮って、村民の窮状を抗訴し弁白し、一歩も譲らなかった。
其の誠意 其の情熱には官吏も大いに感動し、遂に其の願意を容れた上、議事に参与せしめ、無事に検地の大事業を結了させた。かくて、其の税率は、近隣無比の低率となった。 即ち
川南村 一石五斗 五斗九升
川北村 一石四斗 六斗五升
平野村 一石五斗三升 六斗六升
上竹田 一石四斗 六斗三升
下竹田 一石三斗七升 五斗六升
上御領 一石四斗二升 六斗四升
下御領 一石五斗五升 五斗 八尋村 一石三斗 四斗九升五合
注:上段の数字は反米(反収)を、下段のそれは税率を示す。
この外に、村内小神七十社、地蔵十四宇等へ無税の敷地及び若干宛の山林や田畑を付属させて祭祀料に供し、又、村中の全土地公認面積上に非常な余剰を存せしめた事など、皆、君の弁疏尽力の賜であって、隣村に類のない所であった。また毎年の歳暮には窮民血救の為に、袋米か、包み金を、暗夜に乗じて、戸内へ投入するなどの陰恵を終生怠らなかった。これは官も屡褒賞した。
正徳六年(一七一六)二月十二日病没するや、村中哀慕措く能わずして、氏神社の側に社殿を造営して、その神霊を祀り、「地主大明神」と尊称し、村内安全、争論祈願の守護神として、毎年祭事を執行し続けたのであるが、年移り星変り、社殿も漸く荒廃に帰し,祭事も中絶した。殊に明治維新に際し、旧事は改革せられ、明治八年の地租改正に当たって、君の遺跡も跡を存しないようになったのに、村吏も顧みないので、村民其の再興を企てる向きもあったが、村吏は、之を沮むに至って、矢田一門相謀って私財を投じ、社殿を再建し、遺徳を表彰せんとするや、村内有志も奮って賛同するに及んで、諸式愈々旧に復した。
右は秘蔵の内記と、古老の伝説による
明治十五年八月
神孫十四世 葛原二郎 謹誌
神 官 松永末賢
二 同趣意書の反収および税率の出典と趣意書の誤認
社殿再建のための趣意書「地主大明神の御神徳と其の略歴」の出典は、葛原家の秘蔵の内記および古老の伝説によると、同書の文末に記される。二郎重倫らが記す大部分は葛原家の内記と伝説によるとしても、本文には二ヶ所の誤認が認められる。
一つは前文で、「元禄十三年(一七〇〇)、松平伊豫守が水野美濃守の後をうけて、備後の領主福山侯に任ぜられた時、領内の検地を行ったが・・・」とあるが、これは事実誤認で、「元禄十一年福山藩主水野勝岑没後、藩主未定のため岡山藩主松平伊豫守綱政が幕府の命により元禄十二年領内検地を行ったが・・・」とすべきであろう。
他の一つは税率の単位である。同文中における村々の稲作の反収は、備陽六郡志に記す安那郡内の近隣各村の「中田」の設定反収とほぼ同じである。また、地主大明神の謂れに記す税率の数字は、単位は異なるが備陽六郡志の定免の項のそれと全く同一である。地主大明神の謂れでは税率と記し、その単位は斗升合で示されているが、備陽六郡志にはツ・分・厘で記されている。江戸時代の年貢を度量衡の斗・升・合で示した文献は皆無であり,論拠不明である。二郎重倫らはこの方面の知識が乏しかったのであろう。彼等は窮余の策として、備陽六郡志から設定収量の中田と定免の項を抜き書きし、定免のツ・分・厘を斗・升・合の単位に置換したものと推定される(表1)。
表1 安那郡内の隣村の設定反収(石)
| 上上田 | 上田 | 中田 | 下田 | 下下田 | 砂田 | 定免 |
---|
川北村 | ― | 1.6 | 1.4 | 1.2 | 0.9 | ― | 650 |
---|
平野村 | 1.8 | 1.6 | 1.4 | 1.2 | 0.9 | ― | 660 |
---|
上竹田村 | ― | 1.6 | 1.4 | 1.2 | 0.9 | ― | 630 |
---|
下竹田村 | ― | 1.6 | 1.4 | 1.2 | 0.9 | ― | 565 |
---|
上御領村 | ― | 1.6 | 1.4 | 1.2 | 0.9 | ― | 640 |
---|
下御領村 | ― | 1.6 | 1.4 | 1.2 | 0.9 | ― | 500 |
---|
八尋村 | 1.7 | 1.5 | 1.3 | 1.1 | 0.8 | 0.6 | 495 |
---|
備陽六郡志によると,各村の水田は地味により上上田、上田、中田、下田、下下田、砂田の六段階に分類されており、安那郡では反収(石)が上上田1.7又は1.8、上田1.5又は1.6、中田1.3~1.5、下田1.1~1.3、下下田0.8~1.0、砂田0.6又は0.7と設定されている(表1参照)。年貢の一定賦課率(定免)は下御領村が収量の五割なので、所謂、五公五民に相当し、八尋村以外の他村の定免は六割前後であるが、八尋村は四割九分五厘、即ち49.5%と五割以下であり、しかも地味による水田の各ランクの設定収量が隣村に比して最も少ない。当時、年貢は村請制であり、各ランク別水田の合計面積に設定反収と賦課率を乗じた石高を加算した総石高を納入していた。八尋村のこの低い賦課率と地味の評価を低く設定できたのは二郎三郎重宗の功績と、二郎重倫らの記した趣意書より推定される。
二郎重倫〔昭和十一年(一九三六)二月一日没 〕や神官松永らは二郎三郎重宗が偉大な人物であったとの伝承があったので,これを記録に留めておきたかったのであろう。二郎重倫らは葛原家に所蔵される関係古文書を探したが見当たらないので、地主大明神の資料に記される標準反収(中田)および斗升単位の賦課率の資料を、備陽六郡志より転載・作成したものと思われる。
なお、葛原氏は江戸時代末頃までは矢田姓であった。八尋村の庄屋矢田二郎三郎重知の嫡男重美(文化九年(一八一二)三月十三日生、明治十五年九月八日没)は三歳のとき疱瘡に罹り失明した。九歳で京都の松野検校に弟子入りし、生田流の筝曲および地唄を学び十五歳で勾当の位階を許された。その際、同門の兄弟子に八田部勾当なる人がおり、同門に八田部勾当と矢田勾当が居ては、紛らわしいので、葛原勾当として勾当の位階を授けられた。既述の如く矢田家の先祖が居住した葛原屋敷名に因んで葛原を姓称したのである。葛原勾当は現在の芸名のようなものである。勾当の継嗣(次男)二郎重倫が葛原を姓称して明治に至り、明治四年(一八七一)四月四日、戸籍法(大政官布告第一七〇号)制定の際、矢田に復姓せず葛原を姓称し、現在に至る。この二郎重倫が社殿再建のための趣意書の創案者の一人葛原二郎その人であり、二郎重倫の継嗣が童謡作家の葛原しげるである。
【参考文献】
根岸尚克:庄屋矢田重宗、備陽史探訪一七四号、二〇一三
https://bingo-history.net/archives/18338https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/08/38816bcf45272b5c2f48b65f815d8381-1024x713.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/08/38816bcf45272b5c2f48b65f815d8381-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:181号」より
矢田 貞美 矢田二郎三郎重宗〔万治元年(一六五八)七月二十四日生ー享保元年(一七一六)二月十二日没〕は、葛原屋敷住の庄屋矢田太郎右衛門重得の次男として生まれる。重宗については根岸の論文に譲り、小稿では顕彰碑の碑文について論じる。父重得は嫡男(太郎右衛門、屋号、永徳寺)に家督を、また次男二郎三郎重宗には分家させ庄屋職をそれぞれ譲り,三男権左衛門と女子2人を連れて隠居する(矢田家文書)。 当時の葛原屋敷は、現葛原屋敷裏手の竹藪林の上側、即ち蓮乗院の東側の現在畑地となっているところで、小字名「葛原屋敷」に該当する。現葛原家の屋敷に移居したのは重得(貞享四年(一六八七)没)の父太郎右衛門重善(寛永十六年(一六三九)没)が庄屋職を拝命した寛永八年(一六三一)以降のことと推察される。 明治十五年八月、地主大明神(二郎三郎重宗)の社殿再建のための趣意書「地主大明神の御神徳と其の略歴」が作成され(写真1)、裏面には矢田一族の住所氏名が記されている。再建社殿の上下の長押の間に同趣意書の要録を墨書した檜製の板が掲げられていた(写真2)。 この再建された社殿は、経年腐朽のため取り壊し、その跡地に平成二十三年二月、矢田氏一門によって石碑が建立され(写真3)、石碑には前記趣意書の要録が刻字されている。 なお、本家永徳寺の屋敷は現葛原屋敷東の隣接地にあり、現葛原家の屋敷より二十センチ程高く、屋敷跡には孟宗竹が茂り、楠や銀杏の大木が林立しており、生簀や切石の井戸枠が往時を偲ばせる。本家破産の際、この屋敷と建物は分家葛原家の所有となり、居宅は葛原勾当の弟子の集合稽古に使用されていた。勾当はこの二階建ての居宅を慶応三年(一八六七)十一月に売却するが、その後解体移築され中二階の居宅として隣町で使用されている。 一 重宗の顕彰碑と趣意書
社殿再建のための趣意書には、『地主大明神の俗名は二郎三郎で,諱は重宗,万治元年(一六五八)七月二十四日辰の刻に備後国安那郡八尋村に生まれた。生来豪宏、強きを挫き弱きを助けることを一生の楽しみとした。二十五歳で,父太郎右衛門重得の家督を継ぎ,同時に八尋村の庄屋の役についた。 元禄十三年(一七〇〇)、松平伊豫守が水野美濃守の後をうけて、備後の領主福山侯に任ぜられた時、領内の検地を行ったが、非常に過酷な為 人民が大変困るのを見兼ねて、嘆願書を出したり、役所に出かけて何回となく哀訴したけれども官吏は少しも応ずる様子もないので、村民は遂に蜂起して、やむなく強訴の挙に出でんとするに至った。これを見るや懇ろに慰諭し、退散せしめて、自ら其の衝に当たる決心をした。乃ち、白衣を下に着込んで、小刀を懐にし、豫め死を覚悟の上で、憤然、検地の前途を遮って、村民の窮状を抗訴し弁白し、一歩も譲らなかった。 其の誠意 其の情熱には官吏も大いに感動し、遂に其の願意を容れた上、議事に参与せしめ、無事に検地の大事業を結了させた。かくて、其の税率は、近隣無比の低率となった。 即ち 川南村 一石五斗 五斗九升
川北村 一石四斗 六斗五升
平野村 一石五斗三升 六斗六升
上竹田 一石四斗 六斗三升
下竹田 一石三斗七升 五斗六升
上御領 一石四斗二升 六斗四升
下御領 一石五斗五升 五斗 八尋村 一石三斗 四斗九升五合 注:上段の数字は反米(反収)を、下段のそれは税率を示す。 この外に、村内小神七十社、地蔵十四宇等へ無税の敷地及び若干宛の山林や田畑を付属させて祭祀料に供し、又、村中の全土地公認面積上に非常な余剰を存せしめた事など、皆、君の弁疏尽力の賜であって、隣村に類のない所であった。また毎年の歳暮には窮民血救の為に、袋米か、包み金を、暗夜に乗じて、戸内へ投入するなどの陰恵を終生怠らなかった。これは官も屡褒賞した。 正徳六年(一七一六)二月十二日病没するや、村中哀慕措く能わずして、氏神社の側に社殿を造営して、その神霊を祀り、「地主大明神」と尊称し、村内安全、争論祈願の守護神として、毎年祭事を執行し続けたのであるが、年移り星変り、社殿も漸く荒廃に帰し,祭事も中絶した。殊に明治維新に際し、旧事は改革せられ、明治八年の地租改正に当たって、君の遺跡も跡を存しないようになったのに、村吏も顧みないので、村民其の再興を企てる向きもあったが、村吏は、之を沮むに至って、矢田一門相謀って私財を投じ、社殿を再建し、遺徳を表彰せんとするや、村内有志も奮って賛同するに及んで、諸式愈々旧に復した。 右は秘蔵の内記と、古老の伝説による 明治十五年八月
神孫十四世 葛原二郎 謹誌
神 官 松永末賢 二 同趣意書の反収および税率の出典と趣意書の誤認
社殿再建のための趣意書「地主大明神の御神徳と其の略歴」の出典は、葛原家の秘蔵の内記および古老の伝説によると、同書の文末に記される。二郎重倫らが記す大部分は葛原家の内記と伝説によるとしても、本文には二ヶ所の誤認が認められる。 一つは前文で、「元禄十三年(一七〇〇)、松平伊豫守が水野美濃守の後をうけて、備後の領主福山侯に任ぜられた時、領内の検地を行ったが・・・」とあるが、これは事実誤認で、「元禄十一年福山藩主水野勝岑没後、藩主未定のため岡山藩主松平伊豫守綱政が幕府の命により元禄十二年領内検地を行ったが・・・」とすべきであろう。 他の一つは税率の単位である。同文中における村々の稲作の反収は、備陽六郡志に記す安那郡内の近隣各村の「中田」の設定反収とほぼ同じである。また、地主大明神の謂れに記す税率の数字は、単位は異なるが備陽六郡志の定免の項のそれと全く同一である。地主大明神の謂れでは税率と記し、その単位は斗升合で示されているが、備陽六郡志にはツ・分・厘で記されている。江戸時代の年貢を度量衡の斗・升・合で示した文献は皆無であり,論拠不明である。二郎重倫らはこの方面の知識が乏しかったのであろう。彼等は窮余の策として、備陽六郡志から設定収量の中田と定免の項を抜き書きし、定免のツ・分・厘を斗・升・合の単位に置換したものと推定される(表1)。 表1 安那郡内の隣村の設定反収(石) 上上田上田中田下田下下田砂田定免 川北村―1.61.41.20.9―650 平野村1.81.61.41.20.9―660 上竹田村―1.61.41.20.9―630 下竹田村―1.61.41.20.9―565 上御領村―1.61.41.20.9―640 下御領村―1.61.41.20.9―500 八尋村1.71.51.31.10.80.6495 備陽六郡志によると,各村の水田は地味により上上田、上田、中田、下田、下下田、砂田の六段階に分類されており、安那郡では反収(石)が上上田1.7又は1.8、上田1.5又は1.6、中田1.3~1.5、下田1.1~1.3、下下田0.8~1.0、砂田0.6又は0.7と設定されている(表1参照)。年貢の一定賦課率(定免)は下御領村が収量の五割なので、所謂、五公五民に相当し、八尋村以外の他村の定免は六割前後であるが、八尋村は四割九分五厘、即ち49.5%と五割以下であり、しかも地味による水田の各ランクの設定収量が隣村に比して最も少ない。当時、年貢は村請制であり、各ランク別水田の合計面積に設定反収と賦課率を乗じた石高を加算した総石高を納入していた。八尋村のこの低い賦課率と地味の評価を低く設定できたのは二郎三郎重宗の功績と、二郎重倫らの記した趣意書より推定される。 二郎重倫〔昭和十一年(一九三六)二月一日没 〕や神官松永らは二郎三郎重宗が偉大な人物であったとの伝承があったので,これを記録に留めておきたかったのであろう。二郎重倫らは葛原家に所蔵される関係古文書を探したが見当たらないので、地主大明神の資料に記される標準反収(中田)および斗升単位の賦課率の資料を、備陽六郡志より転載・作成したものと思われる。 なお、葛原氏は江戸時代末頃までは矢田姓であった。八尋村の庄屋矢田二郎三郎重知の嫡男重美(文化九年(一八一二)三月十三日生、明治十五年九月八日没)は三歳のとき疱瘡に罹り失明した。九歳で京都の松野検校に弟子入りし、生田流の筝曲および地唄を学び十五歳で勾当の位階を許された。その際、同門の兄弟子に八田部勾当なる人がおり、同門に八田部勾当と矢田勾当が居ては、紛らわしいので、葛原勾当として勾当の位階を授けられた。既述の如く矢田家の先祖が居住した葛原屋敷名に因んで葛原を姓称したのである。葛原勾当は現在の芸名のようなものである。勾当の継嗣(次男)二郎重倫が葛原を姓称して明治に至り、明治四年(一八七一)四月四日、戸籍法(大政官布告第一七〇号)制定の際、矢田に復姓せず葛原を姓称し、現在に至る。この二郎重倫が社殿再建のための趣意書の創案者の一人葛原二郎その人であり、二郎重倫の継嗣が童謡作家の葛原しげるである。 【参考文献】
根岸尚克:庄屋矢田重宗、備陽史探訪一七四号、二〇一三管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
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