永正の安芸国衆協約の成立事情とその効力
「備陽史探訪:109号」より
住本 雄司
永正九年(一五一二)三月三日、安芸の国衆九名が協約を締結した。
協約は冒頭から「将軍家や諸大名に命令されても、従うかどうかは衆中で相談して決めよう」と、国家機構の権威を全否定するような過激な表現が目につく。更に「衆中の或る国衆の親類被官以下の者が重罪を犯し追放処分になった場合、衆中の他の国衆がこの者を自国に受け入れてはならない」と、司法共助の思想も盛り込まれている。そして何より「衆中の或る国衆が外部の者と合戦に及んだ時は、他の国衆は各々合力するなり名代を遣わすなり、協約の趣旨に沿って相談のうえ行動する事」と、各国衆の自主性を許容しつつも軍事同盟条約としての内容を備えている。
この協約は従来、前将軍を奉じて上洛した大内義興に随従し、三年余の在京生活を強いられた安芸国人が、その軍費・軍役の負担に耐えかね、お互いに示し合わせて帰国の上、国元に尼子氏勢力の影響が強く及び始めている状況を踏まえ、今後は大内氏とも距離を置く事にしようというスタンスを申し合わせたものと理解されてきた。
この通説は「将軍家=足利義尹」「諸大名=大内義興」という連想から、協約第一条の仮想敵を大内氏に限定して解釈する事によって形成されたものであろう。が、協約締結後において、安芸国衆が示し合わせて一斉に大内氏から離反する行動を取ったという事実はない。通説に従う限り「この協約は所詮、書面上のやりとりに過ぎず、転変常なき戦国の世において契状など一片の反故紙に過ぎない」という消極的な評価につながっていく。しかし果たしてそうであろうか?九名の国衆は、一時の気休めのため、もしくは単なる酔狂で、かくも重大な内容の協約に署名するものであろうか?
このような疑問に基づき、通説の根拠となる背景認識を再検討していこう。まずは、協約の仮想敵である「将軍家」「諸大名」の意味であるが、「将軍家=上意に従い仰せいださる儀」は実質的には大内義興の命令に他ならない。従ってこれと併記される「諸大名」とは、大内氏の命令とは相容れない命令を発する可能性を潜在的に有する守護大名を意味しており、具体的には、安芸分郡守護・武田氏、出雲守護・尼子氏、備後および安芸国正守護・山名氏などである。中でも署名した衆中にとって深刻な意味を持つのは、地元の武田元繁である。ここで「分郡守護」が大名の名に値するのかという疑問があろうが、当時、安芸武田氏の出身である武田元信は、若狭守護として健在であった。元繁を元信の名代として位置づければ、武田氏も立派な諸大名と言えよう。
次に、誰がこの協約に署名し誰がしなかったのかについての通説の理解を再検討する。署名したのは、天野興次(志和東)・天野元貞(志和堀)・平賀弘保(高屋)・小早川弘平(竹原)・阿曽沼弘秀(瀬野)・野間興勝(矢野)・吉川元経(大朝)の九名。通説では「佐東郡の熊谷・香川両氏は、当時在京中の武田氏の庭下にあって不在であった。また厳島神領は、藤原興親が上洛後まもなく死亡したため神主不在であった。よって協約に署名したのは、当時安芸在国の有力国衆の全てであった」とする。しかしそれでは、山県郡の今田・有田・壬生各氏や高田郡の宍戸氏の不参加も、偶々帰国メンバーに加わっていなかったのであろうという循環論法に陥ってしまい、不毛な解釈ではないだろうか。
そこで署名した国衆にこそ焦点を当てるべきである。すると、衆中の九名は主に三分割して理解されるべき事に気づく。それは、分郡守護・武田氏の管理下にある山県郡・佐東郡・安南郡に所在する国衆と、それ以外の国衆である。分郡外の高橋・毛利・平賀・小早川両天野六氏は、室町幕府の守護大名制において武田氏の命に服する義務はなく、これを仮想敵とする事に大きな抵抗はない。それに対し、安南郡の阿曽沼・野間両氏および山県郡の吉川氏らにとって、武田氏からの離反を分郡外の国衆に誓う事は、室町時代との決別ともいうべき深刻な決意を要するものであったろう。
では、なぜ彼らは協約に署名したのか。これは、署名させられたと考えた方が理解しやすい。つまり、大内義興が安芸九国人の帰国を許可するにあたって、分郡内の三氏が後日武田氏の命令に従って不穏な行動を取らないよう、分郡外の六氏に牽制させる事が、この協約のそもそもの目的であり、いわば偽装一揆契約だったのではないか、というのが筆者の推論である。その観点に立てば、実質的に武田氏の庭下にある佐東郡の熊谷・香川両氏や山県郡の今田・山県・壬生各氏については、当時、安芸在国していたか否かに関わらず、彼らに協約への署名を強制する事は、できる限り京都に引き止めておくべき武田元繁を激怒させ暴発させる事につながり、好ましくない。同様の配慮から、「上意に従い仰せいださる儀候といへども」という冒頭の文言も、この協約が仮想敵として潜在的反大内系守護大名を、特に武田元繁を想定している事をカモフラージュするための修飾辞であったと解釈できる。
果たして、帰国した安芸国衆が「諸大名」の命令に服して大内氏から離反する事を防止する装置を考案した大内氏の狙いは的中したのである。協約締結から僅か半年後、但馬及び備後守護が、山名四天王と称される重臣たちによって致豊から誠豊にすげかえられた。山名新体制は、出雲尼子氏と連携し、備後に反。大内氏の狼煙を挙げる。
翌永正十年(一五一三)三月、毛利元就(十七歳)が執権・志道広良に主君・興元への忠節を誓う書状を提出した。これはおそらく興元と高橋氏の娘の政略結婚が成立した直後の事であろう。(二年後に嫡子が誕生)婚姻によって毛利氏に対する高橋氏の影響力が一段と強まる事は毛利家中の者にとって必ずしも愉快ではないが、かといって高橋氏と事を構えるのは安芸国衆協約の違反であり容認できない。そこで若き元就に早くも釘を刺しておこうという志道広良のしたたかな政略がうかがえる。毛利氏との同盟に意を強くした高橋氏が同年五月、三吉氏と合戦に及んだのは私闘の疑いも濃いが、表面上は備後における反大内の動向を痛撃するという国衆協約の大義名分を掲げていたに違いない。協約を巧妙に活用した事例と言えよう。
永正十二年(一五一五)、忍耐も限界に達した武田元繁の帰国を大内義興は遂に許可した。野に放たれた元繁は、さっそく厳島神領衆の東西抗争に付けこみ、神領衆東方に肩入れして己斐の要害を包囲した。参陣したのは、壬生・有田・今田ら協約に署名していない国衆である。これに対し、衆中の毛利興元・吉川元経が後巻として山県郡の有田城を攻め落とす。更に安南郡の衆中、野間・阿曽沼両氏が警固船約百艘を出して神領衆西方を救援している。
武田氏は有田城を奪回すべく佐東郡の熊谷・香川両氏らを率いて山県郡に発向し、約二年間、その地に在陣した。その間、毛利氏は背後から三吉氏の攻撃を受けるが、協約不参加の安芸国衆・宍戸氏が三吉氏に味方した。
そして永正十四年(一五一九)十月、有名な有田合戦において毛利・吉川連合軍は武田元繁を討ち果たした。ここにおいて主たる仮想敵が消滅し、翌年十月の大内義興の帰国によって安芸国衆協約は最終的に失効する。その間、九国人が勢ぞろいの大連合軍こそ形成されなかったが、国衆の連携プレーが諸所に成立し「各々合力の儀、旨の儀によって申し合わすべき事」という協約の精神は遵守されたと評価できよう。少なくとも衆中同士の内輪争いは見られなかったのである。
https://bingo-history.net/archives/11608https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/10/3676e70e7c5fc30e72a985817db5ffbc.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/10/3676e70e7c5fc30e72a985817db5ffbc-150x100.jpg中世史「備陽史探訪:109号」より 住本 雄司 永正九年(一五一二)三月三日、安芸の国衆九名が協約を締結した。 協約は冒頭から「将軍家や諸大名に命令されても、従うかどうかは衆中で相談して決めよう」と、国家機構の権威を全否定するような過激な表現が目につく。更に「衆中の或る国衆の親類被官以下の者が重罪を犯し追放処分になった場合、衆中の他の国衆がこの者を自国に受け入れてはならない」と、司法共助の思想も盛り込まれている。そして何より「衆中の或る国衆が外部の者と合戦に及んだ時は、他の国衆は各々合力するなり名代を遣わすなり、協約の趣旨に沿って相談のうえ行動する事」と、各国衆の自主性を許容しつつも軍事同盟条約としての内容を備えている。 この協約は従来、前将軍を奉じて上洛した大内義興に随従し、三年余の在京生活を強いられた安芸国人が、その軍費・軍役の負担に耐えかね、お互いに示し合わせて帰国の上、国元に尼子氏勢力の影響が強く及び始めている状況を踏まえ、今後は大内氏とも距離を置く事にしようというスタンスを申し合わせたものと理解されてきた。 この通説は「将軍家=足利義尹」「諸大名=大内義興」という連想から、協約第一条の仮想敵を大内氏に限定して解釈する事によって形成されたものであろう。が、協約締結後において、安芸国衆が示し合わせて一斉に大内氏から離反する行動を取ったという事実はない。通説に従う限り「この協約は所詮、書面上のやりとりに過ぎず、転変常なき戦国の世において契状など一片の反故紙に過ぎない」という消極的な評価につながっていく。しかし果たしてそうであろうか?九名の国衆は、一時の気休めのため、もしくは単なる酔狂で、かくも重大な内容の協約に署名するものであろうか? このような疑問に基づき、通説の根拠となる背景認識を再検討していこう。まずは、協約の仮想敵である「将軍家」「諸大名」の意味であるが、「将軍家=上意に従い仰せいださる儀」は実質的には大内義興の命令に他ならない。従ってこれと併記される「諸大名」とは、大内氏の命令とは相容れない命令を発する可能性を潜在的に有する守護大名を意味しており、具体的には、安芸分郡守護・武田氏、出雲守護・尼子氏、備後および安芸国正守護・山名氏などである。中でも署名した衆中にとって深刻な意味を持つのは、地元の武田元繁である。ここで「分郡守護」が大名の名に値するのかという疑問があろうが、当時、安芸武田氏の出身である武田元信は、若狭守護として健在であった。元繁を元信の名代として位置づければ、武田氏も立派な諸大名と言えよう。 次に、誰がこの協約に署名し誰がしなかったのかについての通説の理解を再検討する。署名したのは、天野興次(志和東)・天野元貞(志和堀)・平賀弘保(高屋)・小早川弘平(竹原)・阿曽沼弘秀(瀬野)・野間興勝(矢野)・吉川元経(大朝)の九名。通説では「佐東郡の熊谷・香川両氏は、当時在京中の武田氏の庭下にあって不在であった。また厳島神領は、藤原興親が上洛後まもなく死亡したため神主不在であった。よって協約に署名したのは、当時安芸在国の有力国衆の全てであった」とする。しかしそれでは、山県郡の今田・有田・壬生各氏や高田郡の宍戸氏の不参加も、偶々帰国メンバーに加わっていなかったのであろうという循環論法に陥ってしまい、不毛な解釈ではないだろうか。 そこで署名した国衆にこそ焦点を当てるべきである。すると、衆中の九名は主に三分割して理解されるべき事に気づく。それは、分郡守護・武田氏の管理下にある山県郡・佐東郡・安南郡に所在する国衆と、それ以外の国衆である。分郡外の高橋・毛利・平賀・小早川両天野六氏は、室町幕府の守護大名制において武田氏の命に服する義務はなく、これを仮想敵とする事に大きな抵抗はない。それに対し、安南郡の阿曽沼・野間両氏および山県郡の吉川氏らにとって、武田氏からの離反を分郡外の国衆に誓う事は、室町時代との決別ともいうべき深刻な決意を要するものであったろう。 では、なぜ彼らは協約に署名したのか。これは、署名させられたと考えた方が理解しやすい。つまり、大内義興が安芸九国人の帰国を許可するにあたって、分郡内の三氏が後日武田氏の命令に従って不穏な行動を取らないよう、分郡外の六氏に牽制させる事が、この協約のそもそもの目的であり、いわば偽装一揆契約だったのではないか、というのが筆者の推論である。その観点に立てば、実質的に武田氏の庭下にある佐東郡の熊谷・香川両氏や山県郡の今田・山県・壬生各氏については、当時、安芸在国していたか否かに関わらず、彼らに協約への署名を強制する事は、できる限り京都に引き止めておくべき武田元繁を激怒させ暴発させる事につながり、好ましくない。同様の配慮から、「上意に従い仰せいださる儀候といへども」という冒頭の文言も、この協約が仮想敵として潜在的反大内系守護大名を、特に武田元繁を想定している事をカモフラージュするための修飾辞であったと解釈できる。 果たして、帰国した安芸国衆が「諸大名」の命令に服して大内氏から離反する事を防止する装置を考案した大内氏の狙いは的中したのである。協約締結から僅か半年後、但馬及び備後守護が、山名四天王と称される重臣たちによって致豊から誠豊にすげかえられた。山名新体制は、出雲尼子氏と連携し、備後に反。大内氏の狼煙を挙げる。 翌永正十年(一五一三)三月、毛利元就(十七歳)が執権・志道広良に主君・興元への忠節を誓う書状を提出した。これはおそらく興元と高橋氏の娘の政略結婚が成立した直後の事であろう。(二年後に嫡子が誕生)婚姻によって毛利氏に対する高橋氏の影響力が一段と強まる事は毛利家中の者にとって必ずしも愉快ではないが、かといって高橋氏と事を構えるのは安芸国衆協約の違反であり容認できない。そこで若き元就に早くも釘を刺しておこうという志道広良のしたたかな政略がうかがえる。毛利氏との同盟に意を強くした高橋氏が同年五月、三吉氏と合戦に及んだのは私闘の疑いも濃いが、表面上は備後における反大内の動向を痛撃するという国衆協約の大義名分を掲げていたに違いない。協約を巧妙に活用した事例と言えよう。 永正十二年(一五一五)、忍耐も限界に達した武田元繁の帰国を大内義興は遂に許可した。野に放たれた元繁は、さっそく厳島神領衆の東西抗争に付けこみ、神領衆東方に肩入れして己斐の要害を包囲した。参陣したのは、壬生・有田・今田ら協約に署名していない国衆である。これに対し、衆中の毛利興元・吉川元経が後巻として山県郡の有田城を攻め落とす。更に安南郡の衆中、野間・阿曽沼両氏が警固船約百艘を出して神領衆西方を救援している。 武田氏は有田城を奪回すべく佐東郡の熊谷・香川両氏らを率いて山県郡に発向し、約二年間、その地に在陣した。その間、毛利氏は背後から三吉氏の攻撃を受けるが、協約不参加の安芸国衆・宍戸氏が三吉氏に味方した。 そして永正十四年(一五一九)十月、有名な有田合戦において毛利・吉川連合軍は武田元繁を討ち果たした。ここにおいて主たる仮想敵が消滅し、翌年十月の大内義興の帰国によって安芸国衆協約は最終的に失効する。その間、九国人が勢ぞろいの大連合軍こそ形成されなかったが、国衆の連携プレーが諸所に成立し「各々合力の儀、旨の儀によって申し合わすべき事」という協約の精神は遵守されたと評価できよう。少なくとも衆中同士の内輪争いは見られなかったのである。管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会備陽史探訪の会中世史部会では「中世を読む」と題した定期的な勉強会を行っています。
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