草戸千軒の地名の変遷について(草出・草出津の背景)

備陽史探訪:109号」より

堤 勝義

草戸千軒町遺跡

―中世の一時期から―

草戸千軒もしくは、それと思われる地名から、歴史的背景を交えて書いてみたいと思う。

一、中世の一時期の地名について

(1)文永十一年(一二七四)金宝寺(現在の鞆の安国寺の前身)の善光寺様式の阿弥陀三尊像を造立するために、鞆の港にとまっていた船に出向いて寄附をつのっている。

その勧進帳の中に「くさいてさふろう殿」とあり、くさいて(草出)から草戸千軒の住人と考えられる「くさいてさふろう殿」も阿弥陀三尊造立の為の寄附をしている。

草戸千軒から鞆を経て、船に乗って、京方面に行く為に乗船していたのではないか。

(2)元徳元年(一三二九)~戦国時代熊野那智大社の先達寺院、檀那帳の中に、草出津とあり、草出津とは、草戸千軒の事であると思う。

熊野那智大社の先達寺院をして、尾道千光寺の権現堂があり、檀那のひとつとして、「草出津」があった。

(3)康永年間(一三四二~)備後草津、唯阿弥陀仏と『時衆過去帳』にあり、備後の草津とは、草戸千軒町の事と思われる。時衆が草戸千軒にいた事も示している。

(4)観応元年(一三五〇)『太平記』の記述中に、「草井地」より上杉弾正が、一千余騎で打ち出ている。足利直義方の上杉弾正が、尊氏(元は高氏、後醍醐天皇より尊の名をもらう)の執事である高氏を追って、兵を「草井地」に結集して、打ち出ている。

(5)明暦二年(一三九一)奈良西大寺の末寺帳に「クサイツ草出常福寺」とあり、草出に所在する常福寺(現明王院)の寺名が載っている。

(6)永享十二年(一四四〇)草出、弥阿弥陀仏と『時衆過去帳』にある。中世の一時期を年代を追ってみてみた。『太平記』の記述中に「草井地」とあるだけで後は、草出・草井津として地名が使われている。芦田川を上下する物質の集散地として、鞆からの中継地として使われていた草津であった。

二、歴史的背景から

(1)金宝寺の阿弥陀三尊像は、信州善光寺の本尊を模したものである。善光寺の阿弥陀三尊像は小ぶりなもので、背に負って持ち運びが出来るもので、それにならって、全国的に善光寺式の阿弥陀三尊像は小ぶりなものである。

金宝寺を造立した法燈国師心地覚心は、信州の出身であり、善光寺とも縁があった。

臨済宗の法燈派は紀州興国寺を拠点にして、鞆、四国の字和島地方や、特に金沢等の北陸地方に教線を延ばしていった。

特に瀬戸内海の鞆に覚心が拠点を定め、巨大な他に類を見ない善光寺様式の阿弥陀三尊像を造立したことは、覚心自身が法燈派の拠点を鞆に定めようとして、大きく力をそそいだ事が理解できる。

(2)元徳元年(一三二九)~戦国時代の熊野那智大社の先達寺院・檀那(信者)帳の中に、草出津の地名を見る事が出来る。

先達寺院としては、尾道の千光寺権現堂、歌島(現向島)の惣持院、小国の大平寺、重永の神上寺、三谷の大楽寺等があり、檀那として、重永、河北、河南、尾道、多島、とも、新庄之内今津、御調郡五ヶ庄、栗原、吉波、山南、山北等を見る事が出来る。

熊野神社は、熊野坐神社(熊野本宮)、熊野速玉神社、熊野那智大社の三社があり、これを総称して、熊野三山といっている。

熊野信仰は、吉野や大峯にくらべると知られるのが遅かったが、末法思想の中で、阿弥陀如来信仰と結びついて、熊野信仰が盛んになって来たのであり、各地に、熊野に導く先達寺院があり、その元に各地に信者のネットワークがあった事がわかるのである。その中に草出津も入っていたのである。

この時代には、熊野信仰だけでなく、西国巡礼も盛んに行われていた。備後一の宮の吉備津神社に大永八年(一五二八)九月吉日に付に西国巡礼が三度成就した福田遠江守が、西国巡禮札を納入している。
(3)・(6)『時衆過去帳』の中の康永年間(一三四二~)と永享十二年(一四四〇)の項に、草戸千軒にいた時衆二名を見る事が出来る。

康永年間に、備後草津「唯阿弥陀仏」、永享十二年に、草出「弥阿弥陀仏」とあり、二名の男の時衆がいたことがわかる。

この地方では、時宗は尾道・鞆に拠点を定めていた。寺院としては、尼の寺院と、男の時宗寺院があった。鞆と草戸千軒は近距離にあるので、鞆の時宗寺院から来たものであろう。

鞆には沖御堂(現本願寺)があり、沖の御堂の名前からして、海から夜間に陸地が見える燈台の役目をしていたのではないか。これは関西大学の吉田徳夫氏もいっている事であるが、夜間に火を燃やしていたのではないかと思う。それゆえ、沖御堂と名付けられていたのではないかと考えられる。

本願寺は尼寺ではなかったかと思われ、他に男の時宗寺院もあった。尾道の時宗寺院としては、西郷(元は江)寺があった。瀬戸内海きっての中世を代表する南北朝時代の非常に美しい本堂がある時宗寺院である。

(4)足利直義・直冬方の上杉弾正が足利尊氏方の高氏を追って、草井地に一千余騎の軍勢を結集している。草戸千軒を含む地域は、通常、草出、草井津と呼ばれているが、このときだけは、草井地と呼ばれている。観応元年(一三五〇)には、草戸千軒は「草津」の機能を失っていたものと思う。

草戸千軒は、十四世紀後半には生活遺物がなく、洪水によって町が壊滅していたものと考えられる。

十四世紀の空白期には、陶磁器類が高い比率で廃棄されていて、集落全域に及んでいる。

また、墓地についても、空白期に全く存在していない事からも町の壊滅していた事がわかる。

上杉弾正が兵を結集したときには、町は草津としての機能を失っていて、その事により、草出ではなく草井地と呼ばれたのではないかと思う。

(5)奈良西大寺の末寺帳に、クサイツ草出常福寺とあり、常福寺(現明王院)が、西大寺律宗の末寺であった事がわかる。

西大寺は尾道の浄土寺を再興していて、浄土寺を再建した定証は、長谷観音を敬仰していた事から、浄土寺の本尊として、平安時代の観音菩薩立像を求めている。

当時、浄土寺と常福寺は西大寺の末寺として兄弟寺院のような関係で、五重塔や本堂が共にあった。

常福寺の本尊である十一面観音菩薩立像は平安時代のものであるが、浄土寺の本尊と同じく、この時代に求められたものと思っている。それは十一面観音の厨子からも推測される。

本尊が平安時代のものだから、その時代と考えるのではなく、また、空海と関係がある等と考えるのではなく、西大寺の末寺時代に求めたものと考えるのが、妥当であろうと思う。

例えば、題目等が鎌倉時代のものだからといって、すぐに鎌倉時代に開基を求めるのではなく、その時代のものを買い求めた事もあるので、詳細に検討をする必要がある。

浄土寺は、西大寺の拠点寺院として統いていたが、常福寺は、早くに西国寺末寺として真言宗に復帰している。

以上中世の一時期の草戸千軒を含む地域の呼び名について書いてみた。通常は、草出(クサイツ)と呼ばれていた事がわかる。

ただし、草戸千軒が洪水によって町が壊滅していたと考えられる十四世紀後半には、「草井地」と呼ばれていたのではないかと考えられるのである。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2002/10/5746937b37cc5a7980ac8d9b4e2aa12e.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2002/10/5746937b37cc5a7980ac8d9b4e2aa12e-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:109号」より 堤 勝義 ―中世の一時期から― 草戸千軒もしくは、それと思われる地名から、歴史的背景を交えて書いてみたいと思う。 一、中世の一時期の地名について (1)文永十一年(一二七四)金宝寺(現在の鞆の安国寺の前身)の善光寺様式の阿弥陀三尊像を造立するために、鞆の港にとまっていた船に出向いて寄附をつのっている。 その勧進帳の中に「くさいてさふろう殿」とあり、くさいて(草出)から草戸千軒の住人と考えられる「くさいてさふろう殿」も阿弥陀三尊造立の為の寄附をしている。 草戸千軒から鞆を経て、船に乗って、京方面に行く為に乗船していたのではないか。 (2)元徳元年(一三二九)~戦国時代熊野那智大社の先達寺院、檀那帳の中に、草出津とあり、草出津とは、草戸千軒の事であると思う。 熊野那智大社の先達寺院をして、尾道千光寺の権現堂があり、檀那のひとつとして、「草出津」があった。 (3)康永年間(一三四二~)備後草津、唯阿弥陀仏と『時衆過去帳』にあり、備後の草津とは、草戸千軒町の事と思われる。時衆が草戸千軒にいた事も示している。 (4)観応元年(一三五〇)『太平記』の記述中に、「草井地」より上杉弾正が、一千余騎で打ち出ている。足利直義方の上杉弾正が、尊氏(元は高氏、後醍醐天皇より尊の名をもらう)の執事である高氏を追って、兵を「草井地」に結集して、打ち出ている。 (5)明暦二年(一三九一)奈良西大寺の末寺帳に「クサイツ草出常福寺」とあり、草出に所在する常福寺(現明王院)の寺名が載っている。 (6)永享十二年(一四四〇)草出、弥阿弥陀仏と『時衆過去帳』にある。中世の一時期を年代を追ってみてみた。『太平記』の記述中に「草井地」とあるだけで後は、草出・草井津として地名が使われている。芦田川を上下する物質の集散地として、鞆からの中継地として使われていた草津であった。 二、歴史的背景から (1)金宝寺の阿弥陀三尊像は、信州善光寺の本尊を模したものである。善光寺の阿弥陀三尊像は小ぶりなもので、背に負って持ち運びが出来るもので、それにならって、全国的に善光寺式の阿弥陀三尊像は小ぶりなものである。 金宝寺を造立した法燈国師心地覚心は、信州の出身であり、善光寺とも縁があった。 臨済宗の法燈派は紀州興国寺を拠点にして、鞆、四国の字和島地方や、特に金沢等の北陸地方に教線を延ばしていった。 特に瀬戸内海の鞆に覚心が拠点を定め、巨大な他に類を見ない善光寺様式の阿弥陀三尊像を造立したことは、覚心自身が法燈派の拠点を鞆に定めようとして、大きく力をそそいだ事が理解できる。 (2)元徳元年(一三二九)~戦国時代の熊野那智大社の先達寺院・檀那(信者)帳の中に、草出津の地名を見る事が出来る。 先達寺院としては、尾道の千光寺権現堂、歌島(現向島)の惣持院、小国の大平寺、重永の神上寺、三谷の大楽寺等があり、檀那として、重永、河北、河南、尾道、多島、とも、新庄之内今津、御調郡五ヶ庄、栗原、吉波、山南、山北等を見る事が出来る。 熊野神社は、熊野坐神社(熊野本宮)、熊野速玉神社、熊野那智大社の三社があり、これを総称して、熊野三山といっている。 熊野信仰は、吉野や大峯にくらべると知られるのが遅かったが、末法思想の中で、阿弥陀如来信仰と結びついて、熊野信仰が盛んになって来たのであり、各地に、熊野に導く先達寺院があり、その元に各地に信者のネットワークがあった事がわかるのである。その中に草出津も入っていたのである。 この時代には、熊野信仰だけでなく、西国巡礼も盛んに行われていた。備後一の宮の吉備津神社に大永八年(一五二八)九月吉日に付に西国巡礼が三度成就した福田遠江守が、西国巡禮札を納入している。 (3)・(6)『時衆過去帳』の中の康永年間(一三四二~)と永享十二年(一四四〇)の項に、草戸千軒にいた時衆二名を見る事が出来る。 康永年間に、備後草津「唯阿弥陀仏」、永享十二年に、草出「弥阿弥陀仏」とあり、二名の男の時衆がいたことがわかる。 この地方では、時宗は尾道・鞆に拠点を定めていた。寺院としては、尼の寺院と、男の時宗寺院があった。鞆と草戸千軒は近距離にあるので、鞆の時宗寺院から来たものであろう。 鞆には沖御堂(現本願寺)があり、沖の御堂の名前からして、海から夜間に陸地が見える燈台の役目をしていたのではないか。これは関西大学の吉田徳夫氏もいっている事であるが、夜間に火を燃やしていたのではないかと思う。それゆえ、沖御堂と名付けられていたのではないかと考えられる。 本願寺は尼寺ではなかったかと思われ、他に男の時宗寺院もあった。尾道の時宗寺院としては、西郷(元は江)寺があった。瀬戸内海きっての中世を代表する南北朝時代の非常に美しい本堂がある時宗寺院である。 (4)足利直義・直冬方の上杉弾正が足利尊氏方の高氏を追って、草井地に一千余騎の軍勢を結集している。草戸千軒を含む地域は、通常、草出、草井津と呼ばれているが、このときだけは、草井地と呼ばれている。観応元年(一三五〇)には、草戸千軒は「草津」の機能を失っていたものと思う。 草戸千軒は、十四世紀後半には生活遺物がなく、洪水によって町が壊滅していたものと考えられる。 十四世紀の空白期には、陶磁器類が高い比率で廃棄されていて、集落全域に及んでいる。 また、墓地についても、空白期に全く存在していない事からも町の壊滅していた事がわかる。 上杉弾正が兵を結集したときには、町は草津としての機能を失っていて、その事により、草出ではなく草井地と呼ばれたのではないかと思う。 (5)奈良西大寺の末寺帳に、クサイツ草出常福寺とあり、常福寺(現明王院)が、西大寺律宗の末寺であった事がわかる。 西大寺は尾道の浄土寺を再興していて、浄土寺を再建した定証は、長谷観音を敬仰していた事から、浄土寺の本尊として、平安時代の観音菩薩立像を求めている。 当時、浄土寺と常福寺は西大寺の末寺として兄弟寺院のような関係で、五重塔や本堂が共にあった。 常福寺の本尊である十一面観音菩薩立像は平安時代のものであるが、浄土寺の本尊と同じく、この時代に求められたものと思っている。それは十一面観音の厨子からも推測される。 本尊が平安時代のものだから、その時代と考えるのではなく、また、空海と関係がある等と考えるのではなく、西大寺の末寺時代に求めたものと考えるのが、妥当であろうと思う。 例えば、題目等が鎌倉時代のものだからといって、すぐに鎌倉時代に開基を求めるのではなく、その時代のものを買い求めた事もあるので、詳細に検討をする必要がある。 浄土寺は、西大寺の拠点寺院として統いていたが、常福寺は、早くに西国寺末寺として真言宗に復帰している。 以上中世の一時期の草戸千軒を含む地域の呼び名について書いてみた。通常は、草出(クサイツ)と呼ばれていた事がわかる。 ただし、草戸千軒が洪水によって町が壊滅していたと考えられる十四世紀後半には、「草井地」と呼ばれていたのではないかと考えられるのである。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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