石屋原城跡と大石城跡(芦品郡新市町藤尾・神石郡三和町)

山城探訪」より

中央が石屋原城跡
中央が石屋原城跡

福塩線の新市駅を降りて、北に伸びる県道新市七曲西城線を、神谷川に沿って一四キロメートル北上すれば神石高原に入る。

この高原の入り口の、神石郡三和町と芦品郡新市町との境界線上に位置する場所に、行く手を遮るように石屋原(いわやはら)城跡が聳えている。神谷川を隔てて北方に大石城跡が迫っている。『備後古城記』によれば芦田郡藤尾村の石屋山城、神石郡父木野村の古城主として入江大蔵正高、同左衛門進、同平内を挙げている。

石屋原城跡は平地からの比高七三メートルで、神谷川の流れを遮るように南から北へ突き出た尾根を二条の堀切で断ち切り、尾根先端部に四段の曲輪を配している。南端は幅一四メートル、深さ五メートルの堀切を隔てて、馬の洗い場の地名の残る南北三五メートル、幅一六メートルから七メートルの⑤郭で守りを固め、一〇メートル下って幅五メートル、深さニメートルの堀切に続いている。

石屋原城跡略側図 1/2500 コンターは10m間隔
石屋原城跡略側図 1/2500 コンターは10m間隔

この二つの目の堀切の側面は、石積で出来ており大変珍しく一見の価値がある。主郭は南北三八メートル、幅一一メートルから六メートルを測り、東に高さ約一メートル、長さ一〇メートルの石垣をはさんで東西一五メートル、幅一〇メートルの②郭、さらに一〇メートル下って幅一〇メートルの③郭、北に一五メートル下って南北二八メートル、幅五メートルの井戸跡と伝わる④郭、東に小曲輪を配し、他に数本の空堀と堅堀を築いている。各曲輪には部分的に石垣が残っている。この城跡は、大石城の出城として利用したものと考えられる。

一方、大石城跡は神谷川を隔てて北から南へ大きく張り出した尾根上に築かれ、眼下に石屋原城跡を窺うことが出来る。平地からの比高一八三メートル、北面背後を幅一〇メートル、深さ八メートルの堀切で大きく断ち切り、主郭は南北七三メートル、幅一五メートルを測る長大な曲輪で北に虎口を設け、南に四メートル下って南北一四メートル、幅二四メートルの②郭、六メートル下って南に一段、東に二段の曲輪を配し、先端の切岸を真下に一〇メートル下れば空堀に出る。主郭を北に六メートル下って南北三三メートル、幅二〇メートルの③郭を帯曲輪で結び、さらに一五メートル下って五本の堅堀を配して曲輪の守りとしている。城の東面は谷筋に向かってほぼ垂直に四〇メートル下った自然地形を利用した斜面で出来ており、敵を寄せ付けることは困難である。

大石城跡略側図 1/2500 コンターは10m間隔
大石城跡略側図 1/2500 コンターは10m間隔

山際を西から東に伸びた西城往来を押さえる要所に位置し、西に向かって防御を中心とした遺構であることから、詰めの城として機能していたと考えられる。麓の郷地区には、「どい」や「でえのはな」の地名が残る城主の居館跡や、持仏堂跡と考えられる「伝正堂」の地名が残っている。近くに残る薬師堂には、室町時代の作と伝えられる薬師如来が安置されている。また、法雲寺には延文二年(一三五七)杉原常源が寄進した釈迦如来が伝わっている。

父木野の中央に位置する標高六六四メートルの五殿山の頂上には、南北朝期の元弘の変に備後の宮内桜山城主桜山慈俊に加わった父木野の地頭椙原筑前守高平が、後醍醐天皇を隠岐島から迎えるために御殿山城を築城した伝承がある。杉原氏が貞和年中(一三四五~一三五〇)に勧請したと伝わる父木野青瀧神社、大石城の鬼門にあたる尾坂八幡神社が寛正三年(一四六二)勧請されたと伝わることなどから、この頃に築城されたものと考えられる。

『康正二年造内裏段銭并国役引付』によれば、備後国父木野四箇所分の段銭として九貫六百文を杉原美濃守が納めているように、早くから当地に勢力を有していた。

神辺城主杉原理興、盛重の家老で陰徳太平記の剛勇として名を馳せた入江大蔵大夫正高が石屋原城主として在城し、盛重の跡目争いで浪人となる天正十二年(一五八四)頃までに廃城されたものと考えられる。

入江氏は法雲寺寄進状に杉原入江と見える通り、地頭杉原氏の系譜を伝えている庶家である。氏寺の法雲寺墓所に残る杉原氏一族の宝篋印塔や五輪塔が、往時を偲ばせている。

三和町桑木の森定城(滝ノ飛山城)、同亀石の大谷山城、新市町金丸の天神山城、同金丸の多能城などを支城として、大石城や石屋原城を中心に神石郡の南部から芦品郡の北部に勢力を有していた。

石屋原城を訪ねるには中国バス下江村停留所から百メートル下った丸山橋を右手(西)に十分程で山頂に達する。大石城へはこのバス停から谷筋に伸びた林道を歩いて二十分程でお堂に突き当たって右手(西)にとって五分で山頂に達する。

《参考文献》
神石郡教育会編「神石郡誌」
芦品郡役所編「芦品郡誌」
得能正通編「備後叢書」
濱本鶴賓「備後の大石氏は赤穂家老大石氏の先祖か」(備後史談七―九・七―十 一九三一年)
神石郡三和町編「三和町誌」
杉原茂「八ツ尾山 杉原城主記」
杉原道彦「父木野党書」

【石屋原城】

 
【大石城】

 
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城館を見直す目(その2)
 

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