鷲尾山城跡(尾道市木ノ庄町木梨)

山城探訪」より

山口 哲晶

鷲尾山城跡遠望(南より)
鷲尾山城跡遠望(南より)

尾道の市街地から北部、藤井川に流れ込む支流木梨川によって開けた谷の奥まったところに、県史跡「鷲尾山城跡」はある。中世から戦国期にかけて、備後南部で勢力をはった雄族の中のひとり、本梨杉原氏の居城である。

杉原氏は系図によると桓武平氏の桑名流で、鎌倉時代初期に守護として西遷してきた一族だと伝え惣領家は府中市の背後にそびえる八尾山城を本拠として勢力を張っていた。時は下り、足利尊氏の九州下向の際に、その庶流と見られる信平・為平兄弟は尊氏に従い、建武三年(一三三六)苦戦した筑前国多々良浜の合戦に戦功をたて、恩賞として備後国御調郡木梨一三カ村(木梨、市原、小原、梶山田、三成、自江、猪子迫、木原、吉和、久山田、栗原、尾道、後地)の地頭職を得ている。これは御調郡の南半分にあたり、現在の尾道市の大部分を得たことになる。その後、兄信平は木梨に鷲尾山城を築いて木梨杉原氏の祖となり、弟為平は同庄内に家城を築いて後、後裔は沼隈郡山手に銀山城を築いて山手杉原氏を興している。

木梨杉原氏は土着して以来、漸次その勢力を伸ばしてきたが、この城も幾度かの戦乱の渦に巻き込まれている。天文一二年(一五四三)、五代光恒の時に出雲国富田月山城の尼子晴久により一時攻め落とされ光恒も殺されたが、その子、隆盛は山口の大内義隆に助けを求め城を取り戻している。その時、当城を鷲尾山城から「釈迦カ峰城」に改めている。次いで元亀三年(一五七二)には石原忠直に攻められて、隆盛は戦死、子の元恒は東隣新庄の古志清左衛門を頼り大場山城に身を寄せた。この時は小早川隆景の援助によって石原氏を討ち、城を奪回している。

その後、天正一二年(一五八四)元恒は尾道千光寺山に新たに「千光寺山城」を築いて移ったが、わずか七年後の同一九年、豊臣秀吉の山城廃止令により木梨に帰った。後、杉原氏は毛利輝元の命により周防国爪止庄に移封され当地を離れていったのである。

鷲尾山城は、木梨西側の山塊から東方に延びた尾根の先端、標高三二九・八メートルの山頂を中心に築かれ、尾根続きを幅約八メートルの空堀で区切り城域としている。

遺構は山頂の一辺約三〇から四〇メートルの不正形の本丸を中心に一段下がって、本丸の南側を囲むように幅約四から八メートル、長さ五〇メートルの帯曲輪を設け、さらに一段下がって幅八~九メートル、長さ約四〇メートルの帯曲輪が本丸の東側を取り巻いた輪状を呈して中心部を構成している。上下段とも帯曲輪の東側には一〇メートルから二〇メートルわたって斜面に石垣が築かれている。頂上から派生した各支尾根上には数段から十数段の曲輪を配し、全体として所謂、輪状連郭式の形態をとっている。

鷲尾山城跡略側図 1/2500 -コンターは10m間隔
鷲尾山城跡略側図 1/2500 -コンターは10m間隔

各曲輪群を見ていくと、まず東側の曲輪群は帯曲輪に続いて比高差をもって幅八メートル、長さ一四メートルの削平地を、さらにその下に小規模な削平地を設けている。北部は一段目の帯曲輪の西側に続くと思われる曲輪から一〇数段比較的穏やかな傾斜をもって直線状に築かれている。なかには周囲に石垣を用いた箇所も見られる。東側には三段目から延びた土塁が七段目まで存在し、西側には帯曲輪が八段目まで延びている。四段目の曲輪と腰曲輪には井戸の跡と思われる窪みも存在する。さらに北方の鞍部には幅八メートルの堀切があり、手前の曲輪から続く道が中央の幅二メートル程の土橋を通って城外と連絡している。

南西の尾根には主要部からやや離れて六段の曲輪を直線状に配し、南側には本丸に取り付いた石垣を用いた虎口に続き四段の曲輪を築き、一部石垣も見られる。この曲輪群に沿って登山道が続き、下段の曲輪の前面には「切り崩し」が存在する。そのまま下っていくと幅四メートル、長さ三〇メートル程の空堀があり、さらに下ると登城回の最初の守りとした三段の曲輪が見られる。その先は最先端の尾根の空堀である。

城跡に上ると、谷の奥部にも拘わらず見晴らしはよく、遠く瀬戸内の海が見渡せる。山上には礎石らしい石と、築山と言われる石組みも残っている。

城跡を訪ねるには、尾道の市街地から御調町に向かう道に乗り三成を過ぎたあたり、木梨川と藤井川の合流点付近の「木梨口」から右に折れてニキロメートル程上流に向かうと、田園風景の中に山頂の平らな台形状の堂々とした山が眼に入ってくる。これが鷲尾山城である。山を目指して集落に入っていくと標示板があるのですぐにわかるが、道は狭いので自家用車の場合は注意を要する

《参考文献》

  • 「尾道市史」
  • 「三原市史」
  • 「福山市史」
  • 「西備名区」
  • 西本省三編「日本城郭大系十三広島・岡山」新人物往来社、一九八〇
  • 小都隆「広島県の主要城跡」芸備友の会、一九八三
  • 田口義之「神辺城主山名理興の出自」山城志、備陽史探訪の会、一九八五
  • 森本繁「備後神辺城主杉原盛重」山城志、備陽史探訪の会、一九八五

【鷲尾山城跡】

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/c83552ef1c127bf73d8ab364af218199.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/c83552ef1c127bf73d8ab364af218199-150x100.jpg管理人中世史「山城探訪」より 山口 哲晶 尾道の市街地から北部、藤井川に流れ込む支流木梨川によって開けた谷の奥まったところに、県史跡「鷲尾山城跡」はある。中世から戦国期にかけて、備後南部で勢力をはった雄族の中のひとり、本梨杉原氏の居城である。 杉原氏は系図によると桓武平氏の桑名流で、鎌倉時代初期に守護として西遷してきた一族だと伝え惣領家は府中市の背後にそびえる八尾山城を本拠として勢力を張っていた。時は下り、足利尊氏の九州下向の際に、その庶流と見られる信平・為平兄弟は尊氏に従い、建武三年(一三三六)苦戦した筑前国多々良浜の合戦に戦功をたて、恩賞として備後国御調郡木梨一三カ村(木梨、市原、小原、梶山田、三成、自江、猪子迫、木原、吉和、久山田、栗原、尾道、後地)の地頭職を得ている。これは御調郡の南半分にあたり、現在の尾道市の大部分を得たことになる。その後、兄信平は木梨に鷲尾山城を築いて木梨杉原氏の祖となり、弟為平は同庄内に家城を築いて後、後裔は沼隈郡山手に銀山城を築いて山手杉原氏を興している。 木梨杉原氏は土着して以来、漸次その勢力を伸ばしてきたが、この城も幾度かの戦乱の渦に巻き込まれている。天文一二年(一五四三)、五代光恒の時に出雲国富田月山城の尼子晴久により一時攻め落とされ光恒も殺されたが、その子、隆盛は山口の大内義隆に助けを求め城を取り戻している。その時、当城を鷲尾山城から「釈迦カ峰城」に改めている。次いで元亀三年(一五七二)には石原忠直に攻められて、隆盛は戦死、子の元恒は東隣新庄の古志清左衛門を頼り大場山城に身を寄せた。この時は小早川隆景の援助によって石原氏を討ち、城を奪回している。 その後、天正一二年(一五八四)元恒は尾道千光寺山に新たに「千光寺山城」を築いて移ったが、わずか七年後の同一九年、豊臣秀吉の山城廃止令により木梨に帰った。後、杉原氏は毛利輝元の命により周防国爪止庄に移封され当地を離れていったのである。 鷲尾山城は、木梨西側の山塊から東方に延びた尾根の先端、標高三二九・八メートルの山頂を中心に築かれ、尾根続きを幅約八メートルの空堀で区切り城域としている。 遺構は山頂の一辺約三〇から四〇メートルの不正形の本丸を中心に一段下がって、本丸の南側を囲むように幅約四から八メートル、長さ五〇メートルの帯曲輪を設け、さらに一段下がって幅八~九メートル、長さ約四〇メートルの帯曲輪が本丸の東側を取り巻いた輪状を呈して中心部を構成している。上下段とも帯曲輪の東側には一〇メートルから二〇メートルわたって斜面に石垣が築かれている。頂上から派生した各支尾根上には数段から十数段の曲輪を配し、全体として所謂、輪状連郭式の形態をとっている。 各曲輪群を見ていくと、まず東側の曲輪群は帯曲輪に続いて比高差をもって幅八メートル、長さ一四メートルの削平地を、さらにその下に小規模な削平地を設けている。北部は一段目の帯曲輪の西側に続くと思われる曲輪から一〇数段比較的穏やかな傾斜をもって直線状に築かれている。なかには周囲に石垣を用いた箇所も見られる。東側には三段目から延びた土塁が七段目まで存在し、西側には帯曲輪が八段目まで延びている。四段目の曲輪と腰曲輪には井戸の跡と思われる窪みも存在する。さらに北方の鞍部には幅八メートルの堀切があり、手前の曲輪から続く道が中央の幅二メートル程の土橋を通って城外と連絡している。 南西の尾根には主要部からやや離れて六段の曲輪を直線状に配し、南側には本丸に取り付いた石垣を用いた虎口に続き四段の曲輪を築き、一部石垣も見られる。この曲輪群に沿って登山道が続き、下段の曲輪の前面には「切り崩し」が存在する。そのまま下っていくと幅四メートル、長さ三〇メートル程の空堀があり、さらに下ると登城回の最初の守りとした三段の曲輪が見られる。その先は最先端の尾根の空堀である。 城跡に上ると、谷の奥部にも拘わらず見晴らしはよく、遠く瀬戸内の海が見渡せる。山上には礎石らしい石と、築山と言われる石組みも残っている。 城跡を訪ねるには、尾道の市街地から御調町に向かう道に乗り三成を過ぎたあたり、木梨川と藤井川の合流点付近の「木梨口」から右に折れてニキロメートル程上流に向かうと、田園風景の中に山頂の平らな台形状の堂々とした山が眼に入ってくる。これが鷲尾山城である。山を目指して集落に入っていくと標示板があるのですぐにわかるが、道は狭いので自家用車の場合は注意を要する 《参考文献》 「尾道市史」 「三原市史」 「福山市史」 「西備名区」 西本省三編「日本城郭大系十三広島・岡山」新人物往来社、一九八〇 小都隆「広島県の主要城跡」芸備友の会、一九八三 田口義之「神辺城主山名理興の出自」山城志、備陽史探訪の会、一九八五 森本繁「備後神辺城主杉原盛重」山城志、備陽史探訪の会、一九八五 【鷲尾山城跡】備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会中世史部会では「中世を読む」と題した定期的な勉強会を行っています。
詳しくは以下のリンクをご覧ください。 中世を読む