相方城跡(広島県史跡・芦品郡新市町相方)

山城探訪」より

相方城跡 遺構分布図1/10000*黒塗は曲輪、二重線は堀切
相方城跡 遺構分布図1/10000*黒塗は曲輪、二重線は堀切

福山から府中方面へ行くと、新市の手前辺りから、左手に芦田川を挟んで、山頂にテレビ塔の林立する険しい山が迫って来る。これが総石垣造り、瓦葺、という広島県内では珍しい遺構を残した相方城跡である。新市の町中から佐賀田橋を渡り、土手道を右手に取ると、左手に「城山ゴルフクラブ」の看板が目に付く。この看板にしたがって山道に登り、ゴルフ練習場に入らずに山頂を目指すと、やがて視界が開け、白く輝く石垣が見えて来る。徒歩だと、土手道をそのまま進み、土手が城山の麓に接した辺りから山に入る。この道は本来の登城道と推定され、つづら折れの急坂を登ると尾根上の大堀切に到達し、そのまま右の尾根筋を登り詰めると山頂主郭に達する。途中には崩れ残った石段が見られ、この道が確かに城が存在していた時代の登城道であったことをうかがわせる。

城は、天正初年(一五七二頃)、有地民部少輔元盛によって築かれたと言われるが、「備後古城記」によると、馬屋原監物と言う者が大永年中(一五二一~二八)に居城したとあり、山そのものは有地氏の築城以前から城塞として利用されていたようである。立地を見ると、宮氏の拠城亀寿山城と芦田川を挟んで相対し、同城の対塁として早くから何らかの施設が設けられていたものと推定される。

この地に城を築いた有地元盛は、声田町上下有地を本拠とした有地宮氏の三代目で、父祖の後を受けて勢力を飛躍的に拡大し、新たにその支配下に入った新市方面を押さえるため、居城を芦田町の大谷城(殿奥城の頂参照)から相方に移したと伝える。同氏は、元盛の父隆信の代に戦国大名毛利氏の支配下に入ったが、天正年間に至っても猶自律性を維持した国衆としての立場を維持しており、同一九年(一五九一)、同氏が毛利氏によって出雲に移されるまで、当城はその領域支配の要として重要な役割を果たした。

なお、当城の性格をめぐっては、後述のようにその遺構の特異性から、戦国大名毛利氏や近世大名福島氏の支城とし、石垣等は両氏の手になるとする見解がある。しかし、当時の情勢から考えて、有地氏以外に当城を使用する必然性は薄く、総石垣・瓦葺という当城の特色は、別の観点からの説明が必要である。(田口義之)

城跡の現状

城郭は、芦田川南岸の東西にのびる標高一九一メートルの丘陵(通称城山)の頂部を中心とした山頂部の遺構とそれらを補助する周辺部の遺構が東西一〇〇〇メートル、南北五〇〇メートルの範囲に分布している。

主郭となる山頂部の遺構は、標高一九一メートルを頂部とする東側曲輪群〈A〉と幅約三〇メートルの空堀をはさんで標高一八八メートルを頂部とする西側曲輪群〈B〉がある。主郭の曲輪群は、高さ二~五メートルほどの打込接(うちこみはぎ)の総石垣で築かれている。最高所の二つの曲輪は、三〇〇~七〇〇平方メートルと広く礎石建物があったと考えられ瓦や土師質土器を出土する。東側曲輪群の西端には、二つの連続した門を直角に折曲げた升形門の曲輪があり、そこから南側の面を東に向かって屏風状に横矢邪(よこやひずみ)が六ヶ所設置されている。北側は比高一八〇メートルの断崖絶壁で、一部石垣は残存するが崩落が激しい。西側曲輪群は主郭の周囲に石垣が残存しているが、そこから西に続く曲輪には石垣は使用されていない。西側の城域は尾根鞍部にある幅一〇メートルの空堀で区切られる。東側に続く尾根には曲輪群〈C・D〉が発掘調査によって確認され東端の曲輪群〈D〉までを城域としている。東南方向に延びる尾根には曲輪群〈E〉が発掘調査によって確認され東から南にかけての防御を広げている。発掘調査の結果、周辺の曲輪群からは一六世紀後半の遺物を出土した。

東側郭群 西端に残る虎口跡
東側郭群 西端に残る虎口跡

相方城跡の特徴でもある主郭群の石垣は、短期間に築造されたものではなく東側から西側に向かって十年ぐらいの歳月をかけて築造されたと考えられる。発掘調査を実施していないので確定はできないが、類例調査から、東側の石垣は自然石を少し加工したのみで、竪石を使用していることや石垣の隅が丸みをおびていることなどから天正末期から文禄にかけての築造で、主郭部や西側の石垣は割石を使用しクサビ(矢)の間隔などから慶長五(一六〇〇)年ごろに築造中止となり廃城になったと考えられる。

発掘調査および縄張り図・遺構の測量調査の結果、相方城跡は新旧二時期以上の大規模な築城がおこなわれ、在地の領主によって築かれた中世山城の上に戦国末期に毛利氏が直轄城として主郭部を総石垣で築いたと考えられる。

相方城跡に関しては文献史料はほとんど無いが、相方城の城門と櫓(焼失)が町内素蓋鳴神社に移築されているなど、周辺地域に関係資料と現地に良好な遺跡が保存されていることから早急に総合調査を実施し保存と活用の事業を行わなくてはならない。

一九九四年 現状遺構測量調査
一九九五年一月 広島県史跡指定
一九九五年六月 遺構確認調査予定
(新市町立歴史民俗資料館 尾多賀晴悟)

相方城跡主要部 尾多賀作図
相方城跡主要部 尾多賀作図

【相方城跡】

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/e0a48c42dd3719a2c51d94457df6fb43.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/e0a48c42dd3719a2c51d94457df6fb43-150x100.jpg管理人中世史「山城探訪」より 福山から府中方面へ行くと、新市の手前辺りから、左手に芦田川を挟んで、山頂にテレビ塔の林立する険しい山が迫って来る。これが総石垣造り、瓦葺、という広島県内では珍しい遺構を残した相方城跡である。新市の町中から佐賀田橋を渡り、土手道を右手に取ると、左手に「城山ゴルフクラブ」の看板が目に付く。この看板にしたがって山道に登り、ゴルフ練習場に入らずに山頂を目指すと、やがて視界が開け、白く輝く石垣が見えて来る。徒歩だと、土手道をそのまま進み、土手が城山の麓に接した辺りから山に入る。この道は本来の登城道と推定され、つづら折れの急坂を登ると尾根上の大堀切に到達し、そのまま右の尾根筋を登り詰めると山頂主郭に達する。途中には崩れ残った石段が見られ、この道が確かに城が存在していた時代の登城道であったことをうかがわせる。 城は、天正初年(一五七二頃)、有地民部少輔元盛によって築かれたと言われるが、「備後古城記」によると、馬屋原監物と言う者が大永年中(一五二一~二八)に居城したとあり、山そのものは有地氏の築城以前から城塞として利用されていたようである。立地を見ると、宮氏の拠城亀寿山城と芦田川を挟んで相対し、同城の対塁として早くから何らかの施設が設けられていたものと推定される。 この地に城を築いた有地元盛は、声田町上下有地を本拠とした有地宮氏の三代目で、父祖の後を受けて勢力を飛躍的に拡大し、新たにその支配下に入った新市方面を押さえるため、居城を芦田町の大谷城(殿奥城の頂参照)から相方に移したと伝える。同氏は、元盛の父隆信の代に戦国大名毛利氏の支配下に入ったが、天正年間に至っても猶自律性を維持した国衆としての立場を維持しており、同一九年(一五九一)、同氏が毛利氏によって出雲に移されるまで、当城はその領域支配の要として重要な役割を果たした。 なお、当城の性格をめぐっては、後述のようにその遺構の特異性から、戦国大名毛利氏や近世大名福島氏の支城とし、石垣等は両氏の手になるとする見解がある。しかし、当時の情勢から考えて、有地氏以外に当城を使用する必然性は薄く、総石垣・瓦葺という当城の特色は、別の観点からの説明が必要である。(田口義之) 城跡の現状 城郭は、芦田川南岸の東西にのびる標高一九一メートルの丘陵(通称城山)の頂部を中心とした山頂部の遺構とそれらを補助する周辺部の遺構が東西一〇〇〇メートル、南北五〇〇メートルの範囲に分布している。 主郭となる山頂部の遺構は、標高一九一メートルを頂部とする東側曲輪群〈A〉と幅約三〇メートルの空堀をはさんで標高一八八メートルを頂部とする西側曲輪群〈B〉がある。主郭の曲輪群は、高さ二~五メートルほどの打込接(うちこみはぎ)の総石垣で築かれている。最高所の二つの曲輪は、三〇〇~七〇〇平方メートルと広く礎石建物があったと考えられ瓦や土師質土器を出土する。東側曲輪群の西端には、二つの連続した門を直角に折曲げた升形門の曲輪があり、そこから南側の面を東に向かって屏風状に横矢邪(よこやひずみ)が六ヶ所設置されている。北側は比高一八〇メートルの断崖絶壁で、一部石垣は残存するが崩落が激しい。西側曲輪群は主郭の周囲に石垣が残存しているが、そこから西に続く曲輪には石垣は使用されていない。西側の城域は尾根鞍部にある幅一〇メートルの空堀で区切られる。東側に続く尾根には曲輪群〈C・D〉が発掘調査によって確認され東端の曲輪群〈D〉までを城域としている。東南方向に延びる尾根には曲輪群〈E〉が発掘調査によって確認され東から南にかけての防御を広げている。発掘調査の結果、周辺の曲輪群からは一六世紀後半の遺物を出土した。 相方城跡の特徴でもある主郭群の石垣は、短期間に築造されたものではなく東側から西側に向かって十年ぐらいの歳月をかけて築造されたと考えられる。発掘調査を実施していないので確定はできないが、類例調査から、東側の石垣は自然石を少し加工したのみで、竪石を使用していることや石垣の隅が丸みをおびていることなどから天正末期から文禄にかけての築造で、主郭部や西側の石垣は割石を使用しクサビ(矢)の間隔などから慶長五(一六〇〇)年ごろに築造中止となり廃城になったと考えられる。 発掘調査および縄張り図・遺構の測量調査の結果、相方城跡は新旧二時期以上の大規模な築城がおこなわれ、在地の領主によって築かれた中世山城の上に戦国末期に毛利氏が直轄城として主郭部を総石垣で築いたと考えられる。 相方城跡に関しては文献史料はほとんど無いが、相方城の城門と櫓(焼失)が町内素蓋鳴神社に移築されているなど、周辺地域に関係資料と現地に良好な遺跡が保存されていることから早急に総合調査を実施し保存と活用の事業を行わなくてはならない。 一九九四年 現状遺構測量調査 一九九五年一月 広島県史跡指定 一九九五年六月 遺構確認調査予定 (新市町立歴史民俗資料館 尾多賀晴悟) 【相方城跡】備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会中世史部会では「中世を読む」と題した定期的な勉強会を行っています。
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