「山城探訪」より
芦田川の支流神谷川の流域に開けた新市の平野は、東西を標高二百メートル前後の丘陵によって画された南北に細長い河谷平野である。城跡の存在する下安井の柏は、その北東に葺える蛇円山から南に伸びた丘陵中の小盆地で、北・西・東は尾根によって囲まれ、南側のみ開けるという、極めて要害の位置を占めている。
この柏が史上に現れるのは、応仁の乱中の文明三年(一四七一)と、戦国時代初頭の永正一八年(一五二一)のことである。備後の応仁の乱は、東軍方の守護山名是豊に対する西軍方の国人衆の反抗という構図で戦われるが、「渡辺先祖覚書」によると、文明三年四月、備後に入国した是豊がその最初の攻撃目標に選んだのが、宮下野守の拠る柏村であった。従来、応仁の乱に際して宮氏の惣領、下野守家は東軍方であったとする見解が有力であったが、この史料の出現によって西軍方であったことが判明したのである。後述するように、柏の城跡は、一キロ四方に及び、同書に「下野殿を初めとして宮一類柏村に立籠」とあるように、それは宮氏が総力を挙げて、現職の守護である山名是豊と戦うために築いた一大城塞群であった。この合戦の史料としては、他に備中洞松寺文書がある。同文書の庄元資寄進状によれば、文明三年十一月二十日、元資の弟資長が「備後柏村」で討死しており、同書の記述を裏付けている。しかし、結果は宮氏の敗北であった。同書は続けて、「下野殿を始め悉腹を切り」備後は「残る所なく(是豊の)御下知に従」ったと、この合戦が是豊の勝利に終わったと述べている。その後、是豊は備北山内氏の拠城甲山城に籠った備後国人衆の総反撃を受け、備後から逃走するが、柏村での敗北が宮下野守家に打撃を与えたことは間違いなく、以後同家の勢力は下降線をたどり、天文十年(一五四一)の同家の断絶(大館常興日記)という事態を迎える。
この間も柏村は同家の拠点として機能していたようで、永正一八年(大永一)四月九日、小奴可又次郎の「柏村固口」に於ける戦功を賞した、下野守家の政盛・親忠の感状が残っている(閥閲録一四九)。『備陽六郡志』下安井村の条に伝える宮殿の下屋敷や宮氏の石塔も、同家の本拠が付近一帯にあったことの一つの傍証となろう。(田口義之)
城跡の現状
城郭は、現在の声品郡新市町大字下安井の柏の集落を取り囲むように散在する城館跡群を総称して柏城跡(柏城砦群)と呼んでいる。柏城跡の規模は、標高二三八メートルの観音寺山を中心として東西一二〇〇メートル、南北一五〇〇メートルの範囲に名称のある城砦が八ヶ所、名称のない城砦が六ヶ所以上、居館跡と推定される谷部平坦地が八ヶ所以上確認された。
一九八九年に四五迫城跡ほか周辺三城跡の発掘調査および柏城跡の一部測量調査と、一九九三年には柏城跡北端の大森城跡の発掘調査がおこなわれた。残念ながら四五迫城跡を含む三城跡と大森城跡の空堀群の一部は開発により消滅したが発掘調査と周辺確認調査により柏城跡について全貌が明らかになりつつある。
四五迫本城跡・四五迫南城跡・四五迫北城跡の発掘調査の結果、中世山城の調査では例外的に遺物の出土が多く、土師質土器の土鍋・皿を中心として備前焼のすり鉢や、鉄(釘・針・刀子)や銅(銭・こうがい・飾り金具)の金属製品が出土した。出土遺物を分類してみると各城ごとに時期はほぼ同じであるが、商圏の違いを意味する土師質土器の違いが明らかになった。また、北城跡においては本城跡・南城跡よりも時期の新しい遺物がまとまって出土しており、柏城跡の使用年代を何期かに限定できる資料となっている。つまり、各地域から集められた小単位のグループがそれぞれの城域を防御するシステムによってこの広大な柏城跡が成りたっていると考えられる。
また、実際に発掘調査を行なってみると、表面観察(縄張り図。現状での測量調査)では判別できなかった小さな曲輪が斜面に多く造られていることが確認された。特に南側の小曲輪には炉跡が多数出土し貯蔵穴も確認された。本城跡には、南と北の端に柵列と掘立柱建物跡が二棟確認され、壁土を使用していることもわかった。
大森城跡の発掘調査では、空堀の中心が規則的な尺度で決められていることから、今後尺度資料の比較検討により築城者の限定がされる。
また、今回発掘調査をおこなっていない城砦群については、縄張り図の作成および航空測量をおこない、細部遺構ついては平板測量(二次元)および光波測量(三次元)を実施し、城郭データ蓄積および活用の各種実験をおこなった。その結果柏城跡全域の各城砦ごとに空堀・曲輪などの形態で各種分類できることが確認された。今後究極の調査である発掘調査に至るまでの事前調査として、最低限正確な城郭測量調査と周辺城郭の形態分類をおこなうことが必要である。
柏城には、北から野呂往還が入り、東からは六本の道、西からも四本の道が城内に取り込まれていて、交通の要衝にもなっている。また、柏城の中心となる観音寺山には柏観音寺があり、東一五〇〇メートルにある大坊福盛寺(真言宗)の奥ノ院といわれており、尾根伝いに城郭遺構が繋がっていて、山岳寺院を取り込んだ城郭になっている。つまり、柏城は宗教的にも軍事的にも重要な位置にあったといえる。
今後、さらに調査地域を拡大して西は亀寿山城跡・吉備津神社、南は戸手地区、東は福山市駅家町服部、北は蛇円山に至る総合調査をおこなうことにより、中世備後南部の歴史が解明されると思われる。(新市町立歴史民俗資料館尾多賀晴悟)
【柏城跡】
https://bingo-history.net/archives/13921https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/794fbf00c55833dd4934f9dfdb6d4039.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/794fbf00c55833dd4934f9dfdb6d4039-150x100.jpg管理人中世史「山城探訪」より 芦田川の支流神谷川の流域に開けた新市の平野は、東西を標高二百メートル前後の丘陵によって画された南北に細長い河谷平野である。城跡の存在する下安井の柏は、その北東に葺える蛇円山から南に伸びた丘陵中の小盆地で、北・西・東は尾根によって囲まれ、南側のみ開けるという、極めて要害の位置を占めている。 この柏が史上に現れるのは、応仁の乱中の文明三年(一四七一)と、戦国時代初頭の永正一八年(一五二一)のことである。備後の応仁の乱は、東軍方の守護山名是豊に対する西軍方の国人衆の反抗という構図で戦われるが、「渡辺先祖覚書」によると、文明三年四月、備後に入国した是豊がその最初の攻撃目標に選んだのが、宮下野守の拠る柏村であった。従来、応仁の乱に際して宮氏の惣領、下野守家は東軍方であったとする見解が有力であったが、この史料の出現によって西軍方であったことが判明したのである。後述するように、柏の城跡は、一キロ四方に及び、同書に「下野殿を初めとして宮一類柏村に立籠」とあるように、それは宮氏が総力を挙げて、現職の守護である山名是豊と戦うために築いた一大城塞群であった。この合戦の史料としては、他に備中洞松寺文書がある。同文書の庄元資寄進状によれば、文明三年十一月二十日、元資の弟資長が「備後柏村」で討死しており、同書の記述を裏付けている。しかし、結果は宮氏の敗北であった。同書は続けて、「下野殿を始め悉腹を切り」備後は「残る所なく(是豊の)御下知に従」ったと、この合戦が是豊の勝利に終わったと述べている。その後、是豊は備北山内氏の拠城甲山城に籠った備後国人衆の総反撃を受け、備後から逃走するが、柏村での敗北が宮下野守家に打撃を与えたことは間違いなく、以後同家の勢力は下降線をたどり、天文十年(一五四一)の同家の断絶(大館常興日記)という事態を迎える。 この間も柏村は同家の拠点として機能していたようで、永正一八年(大永一)四月九日、小奴可又次郎の「柏村固口」に於ける戦功を賞した、下野守家の政盛・親忠の感状が残っている(閥閲録一四九)。『備陽六郡志』下安井村の条に伝える宮殿の下屋敷や宮氏の石塔も、同家の本拠が付近一帯にあったことの一つの傍証となろう。(田口義之) 城跡の現状
城郭は、現在の声品郡新市町大字下安井の柏の集落を取り囲むように散在する城館跡群を総称して柏城跡(柏城砦群)と呼んでいる。柏城跡の規模は、標高二三八メートルの観音寺山を中心として東西一二〇〇メートル、南北一五〇〇メートルの範囲に名称のある城砦が八ヶ所、名称のない城砦が六ヶ所以上、居館跡と推定される谷部平坦地が八ヶ所以上確認された。 一九八九年に四五迫城跡ほか周辺三城跡の発掘調査および柏城跡の一部測量調査と、一九九三年には柏城跡北端の大森城跡の発掘調査がおこなわれた。残念ながら四五迫城跡を含む三城跡と大森城跡の空堀群の一部は開発により消滅したが発掘調査と周辺確認調査により柏城跡について全貌が明らかになりつつある。 四五迫本城跡・四五迫南城跡・四五迫北城跡の発掘調査の結果、中世山城の調査では例外的に遺物の出土が多く、土師質土器の土鍋・皿を中心として備前焼のすり鉢や、鉄(釘・針・刀子)や銅(銭・こうがい・飾り金具)の金属製品が出土した。出土遺物を分類してみると各城ごとに時期はほぼ同じであるが、商圏の違いを意味する土師質土器の違いが明らかになった。また、北城跡においては本城跡・南城跡よりも時期の新しい遺物がまとまって出土しており、柏城跡の使用年代を何期かに限定できる資料となっている。つまり、各地域から集められた小単位のグループがそれぞれの城域を防御するシステムによってこの広大な柏城跡が成りたっていると考えられる。 また、実際に発掘調査を行なってみると、表面観察(縄張り図。現状での測量調査)では判別できなかった小さな曲輪が斜面に多く造られていることが確認された。特に南側の小曲輪には炉跡が多数出土し貯蔵穴も確認された。本城跡には、南と北の端に柵列と掘立柱建物跡が二棟確認され、壁土を使用していることもわかった。 大森城跡の発掘調査では、空堀の中心が規則的な尺度で決められていることから、今後尺度資料の比較検討により築城者の限定がされる。 また、今回発掘調査をおこなっていない城砦群については、縄張り図の作成および航空測量をおこない、細部遺構ついては平板測量(二次元)および光波測量(三次元)を実施し、城郭データ蓄積および活用の各種実験をおこなった。その結果柏城跡全域の各城砦ごとに空堀・曲輪などの形態で各種分類できることが確認された。今後究極の調査である発掘調査に至るまでの事前調査として、最低限正確な城郭測量調査と周辺城郭の形態分類をおこなうことが必要である。 柏城には、北から野呂往還が入り、東からは六本の道、西からも四本の道が城内に取り込まれていて、交通の要衝にもなっている。また、柏城の中心となる観音寺山には柏観音寺があり、東一五〇〇メートルにある大坊福盛寺(真言宗)の奥ノ院といわれており、尾根伝いに城郭遺構が繋がっていて、山岳寺院を取り込んだ城郭になっている。つまり、柏城は宗教的にも軍事的にも重要な位置にあったといえる。 今後、さらに調査地域を拡大して西は亀寿山城跡・吉備津神社、南は戸手地区、東は福山市駅家町服部、北は蛇円山に至る総合調査をおこなうことにより、中世備後南部の歴史が解明されると思われる。(新市町立歴史民俗資料館尾多賀晴悟) 【柏城跡】 管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
備陽史探訪の会中世史部会では「中世を読む」と題した定期的な勉強会を行っています。
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