中世芦田川河口の繁栄(胎蔵寺胎内文書から見えたこと)

備陽史探訪:131号」より

田口 義之

胎蔵寺胎内文書の発見

平成一四年の新年早々、新聞は驚くべき発見を伝えた。北吉津町の真言宗胎蔵寺で、修理中の本造釈迦如来坐像の胎内から多数の古文書が発見されたというのだ。私は早速市教委に行って詳しい様子を尋ねた。写真しか見せてもらえなかったが、「貞和」という年号や、「備後州深津郡杉原保」「常興禅寺」などの文字が目に飛び込んだ。貞和は南北朝時代の年号、常興寺は今の福山城のある丘にあったとされる寺の名だ。

この胎内文書によって二つのことが明らかになった。

一つは、伝承が事実であったことが証明されたことである。今回修理された釈迦如来坐像は、江戸時代の備陽六郡志などに、かつて福山城本丸にあった常興寺から、同寺の廃寺によって胎蔵寺に移されたことが記されていた。それが事実であったことが判明した。また、「備後州深津郡杉原保」とあることから、常興寺のあった今の福山城一帯が従来謎とされていた「杉原保」の故地に間違いないことが確認された。杉原保は備後の豪族杉原氏の「苗字の地」で、御調郡に比定されていたが、この文書の発見で福山市の丸之内から本庄にかけて存在したことが明らかになった。

松隈山常興禅寺

胎内文書の解読はこれからであるが、この文書の発見によって今まで謎とされてきた常興寺が南北朝時代には確かに今の福山城の本丸にあって繁栄していたことが明らかになった。従来の記録でも常興寺は相当な伽藍であったことは予想されていた。「扶桑五山記」という室町時代の記録に、備後に6ヶ寺しかなかった「諸山」の一つに「松隈山常興禅寺」があると記されていた。今回の発見で明らかになった常興寺のことである。「諸山」は、室町幕府が定めた五山制度、京・鎌倉の五山を頂点とした臨済禅の一翼を担った地方の有力寺院で、住職の任命は将軍が行った。これは大変なことだ。福山城の本丸はこの常興寺の境内をものまま利用したものだった。その規模も現在の城跡公園から想像がつくだろう。しかも「諸山」の寺格を持った寺は有力な地方豪族の氏寺であることが多かった。常興寺も杉原氏の菩提寺であったことが記録からわかっている。

芦田川河口の繁栄

常興寺が備後の有力豪族杉原氏の氏寺として繁栄していたことになると、今まで「芦田川河口の寒村に過ぎなかった」と言われて来た今の丸之内一帯は、中世相当栄えていたことが想像される。寺の門前には市場町が存在したであろうし、杉原氏の館や家臣団の住居も周辺に存在していたはずだ。このことを前提に中世の芦田川河口の様子を想像していくと、今までと違ったイメージが湧いてくる。芦田川の左岸、今の丸之内から本庄にかけての一帯には常興寺や明王院(中世までは本庄にあった)、さらには能満寺(この寺も杉原氏の氏寺の一つである)などの伽藍が立ち並び、市場町や港湾集落も見られる。そして、右岸には有名な「草戸千軒」だ。草戸山の麓には常福寺(現明王院)の赤い五重塔がそびえている。胎蔵寺の釈迦如来坐像胎内文書の解読は、今まで闇に隠れていた中世福山の活気を甦らせてくれるに違いない。

胎蔵寺釈迦如来坐像胎内文書
胎蔵寺釈迦如来坐像胎内文書

「日本国備後州深津郡杉原保とある」福山市教育委員会提供

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/92510dab0ea91f8b86c176850aedb2ee.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/92510dab0ea91f8b86c176850aedb2ee-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:131号」より 田口 義之 胎蔵寺胎内文書の発見 平成一四年の新年早々、新聞は驚くべき発見を伝えた。北吉津町の真言宗胎蔵寺で、修理中の本造釈迦如来坐像の胎内から多数の古文書が発見されたというのだ。私は早速市教委に行って詳しい様子を尋ねた。写真しか見せてもらえなかったが、「貞和」という年号や、「備後州深津郡杉原保」「常興禅寺」などの文字が目に飛び込んだ。貞和は南北朝時代の年号、常興寺は今の福山城のある丘にあったとされる寺の名だ。 この胎内文書によって二つのことが明らかになった。 一つは、伝承が事実であったことが証明されたことである。今回修理された釈迦如来坐像は、江戸時代の備陽六郡志などに、かつて福山城本丸にあった常興寺から、同寺の廃寺によって胎蔵寺に移されたことが記されていた。それが事実であったことが判明した。また、「備後州深津郡杉原保」とあることから、常興寺のあった今の福山城一帯が従来謎とされていた「杉原保」の故地に間違いないことが確認された。杉原保は備後の豪族杉原氏の「苗字の地」で、御調郡に比定されていたが、この文書の発見で福山市の丸之内から本庄にかけて存在したことが明らかになった。 松隈山常興禅寺 胎内文書の解読はこれからであるが、この文書の発見によって今まで謎とされてきた常興寺が南北朝時代には確かに今の福山城の本丸にあって繁栄していたことが明らかになった。従来の記録でも常興寺は相当な伽藍であったことは予想されていた。「扶桑五山記」という室町時代の記録に、備後に6ヶ寺しかなかった「諸山」の一つに「松隈山常興禅寺」があると記されていた。今回の発見で明らかになった常興寺のことである。「諸山」は、室町幕府が定めた五山制度、京・鎌倉の五山を頂点とした臨済禅の一翼を担った地方の有力寺院で、住職の任命は将軍が行った。これは大変なことだ。福山城の本丸はこの常興寺の境内をものまま利用したものだった。その規模も現在の城跡公園から想像がつくだろう。しかも「諸山」の寺格を持った寺は有力な地方豪族の氏寺であることが多かった。常興寺も杉原氏の菩提寺であったことが記録からわかっている。 芦田川河口の繁栄 常興寺が備後の有力豪族杉原氏の氏寺として繁栄していたことになると、今まで「芦田川河口の寒村に過ぎなかった」と言われて来た今の丸之内一帯は、中世相当栄えていたことが想像される。寺の門前には市場町が存在したであろうし、杉原氏の館や家臣団の住居も周辺に存在していたはずだ。このことを前提に中世の芦田川河口の様子を想像していくと、今までと違ったイメージが湧いてくる。芦田川の左岸、今の丸之内から本庄にかけての一帯には常興寺や明王院(中世までは本庄にあった)、さらには能満寺(この寺も杉原氏の氏寺の一つである)などの伽藍が立ち並び、市場町や港湾集落も見られる。そして、右岸には有名な「草戸千軒」だ。草戸山の麓には常福寺(現明王院)の赤い五重塔がそびえている。胎蔵寺の釈迦如来坐像胎内文書の解読は、今まで闇に隠れていた中世福山の活気を甦らせてくれるに違いない。 「日本国備後州深津郡杉原保とある」福山市教育委員会提供備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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