「備陽史探訪:172号」より
種本 実
備後地方、とりわけ福山市民にとって母なる芦田川の流れは、昭和初期の大改修によって現在のように定まった。それ以前には、城下町福山の礎を築いた水野氏が、それまでの片山の東を流れて高屋川に合流していた芦田川を、ほぼ現在のように、郷分の山際に沿った流れに変えた。
堤防の一部分には、下流の城下町を水害から守るための、砂堰とか砂土手とか呼ばれる個所があったと伝わっている。その個所は、幸千中学校から約三百m北のあたりの河川敷と推測でき、現在のゴルフ場の中である。
地元の方で、ゴルフ場の芝の散水をされていた方から、砂堰跡の説明版がゴルフ場に埋めてあると聞いた。そこで五月晴れの某日、ゴルフ場に赴いて説明版を見つけた。説明版には、
福山城下町を洪水から守るため一定の水位を超すと土手が切れるようにした。濁流は中津原森脇下岩成村へと流れ込んだ
と刻まれてある。
中津原・森脇・下岩成村は現在では御幸町であり、かつてまだ集落がなかった時代はともかく、村々が成立してくると砂土手の決壊は大変な水害であるから、村人たちは土手を守ろうとして砂を盛る。一方、郷分から下流の人々は、土手が決壊しなければ自分たちの地域の堤が決壊するので、砂を盛らすまいと妨害する。
それはほぼ毎年のように繰り返された農民同士の激しい攻防であり、江戸時代以降にも、時には警官が大勢出動して鎮圧にあたったという。
御幸町の森脇八幡神社の創建は、下岩成村が成立した慶長年間の前期といわれている。境内には、狛犬や常夜灯、石鳥居の三点セットのほかに石柱が建っている。この石柱はかつて芦田川の堤防にあった砂堰に埋めてあったものである。現在の御幸町と、下流の住民との激しい争いを避けるための妥協案として、堰に盛る砂の高さを、三尺、約九十cmとした。その三尺を測るためのものである。石柱の碑文には
我芦田川沿岸地方民ノ生命線トシテ多年悪戦苦闘ノ古戦場タル羽賀砂堰ノ由緒アル此標柱治桑ノ変永ク埋滅二帰センコトヲ虞レ此処二移建シテ報本反始二資ス
と記されてある。石柱は高さが三・三mあり、上部の九十cmはやや削られて細くなっている。石柱は砂堰に埋められて、細くなっている九十cmだけが地上に出ていて、この高さまでは堰に砂を盛って良いとされてきたのである。
明治三十八年に砂堰に埋められたこの石柱は、昭和八年に芦田川の大改修で砂堰が撤去された後に、記念碑として神社の境内に移された。
現在の鶴ヶ橋は昭和十一年に渋谷昇によって完工したが、以前には少し上流に架かっていて、当時の川幅は今の半分ぐらいだった。横尾から橋を渡ると「立石」という集落であり、その先の当時の田圃の上には「江渡橋」という架橋があった。砂堰を超えた濁流は、現在の備後信用組合のあたりまで流れて、雨量が膨大な時にはさらに江渡橋の下を逆流して岩成、森脇方面が水没したという。
現在でもこの地方の旧家の基礎は道路よりもかなり地上げしてあり、かつての水害に備えた跡を垣間見ることができる。
村が水没すると、それでもなんとか炊事ができた家は持ち舟に食料を積んで周辺の家々に配ったり、手当たり次第に家財を載せて下岩成の光円寺へ避難したといい、同寺にはかつて「舟繋ぎの松」があった。
また、森脇の一角には「岩助堤防」と「高張堤防」と名付けられた堤防があって、逆流してきた濁流から村を守っていた。今、堤の跡には石碑が建っていて往時が偲ばれる。
この付近は「西京」とか「東京」といっていたが、平安末期に末法思想により経が埋められたという「経塚」の地名からの東西を指していた。
昭和十三年に御幸小学校が現在の地に建てられる際には、この堤防を撤去した土で敷地を造成した。
当時、尋常小学校の高等科二年生だった地元のY氏は、卒業前の三学期は小学校の移転にかかわる作業に追われていた、と回想されていた。
御幸町も徐々にベッドタウン化し、ダムもできて芦田川の流れは穏やかになったが、先人の多難な労苦は次代へ語り継がれるべきだろう。
【森脇八幡神社】
https://bingo-history.net/archives/12760https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2013/06/IMG_20220407_095817-1024x768.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2013/06/IMG_20220407_095817-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:172号」より
種本 実
連載「川筋を訪ねて」【その三】 備後地方、とりわけ福山市民にとって母なる芦田川の流れは、昭和初期の大改修によって現在のように定まった。それ以前には、城下町福山の礎を築いた水野氏が、それまでの片山の東を流れて高屋川に合流していた芦田川を、ほぼ現在のように、郷分の山際に沿った流れに変えた。 堤防の一部分には、下流の城下町を水害から守るための、砂堰とか砂土手とか呼ばれる個所があったと伝わっている。その個所は、幸千中学校から約三百m北のあたりの河川敷と推測でき、現在のゴルフ場の中である。 地元の方で、ゴルフ場の芝の散水をされていた方から、砂堰跡の説明版がゴルフ場に埋めてあると聞いた。そこで五月晴れの某日、ゴルフ場に赴いて説明版を見つけた。説明版には、 福山城下町を洪水から守るため一定の水位を超すと土手が切れるようにした。濁流は中津原森脇下岩成村へと流れ込んだ と刻まれてある。 中津原・森脇・下岩成村は現在では御幸町であり、かつてまだ集落がなかった時代はともかく、村々が成立してくると砂土手の決壊は大変な水害であるから、村人たちは土手を守ろうとして砂を盛る。一方、郷分から下流の人々は、土手が決壊しなければ自分たちの地域の堤が決壊するので、砂を盛らすまいと妨害する。 それはほぼ毎年のように繰り返された農民同士の激しい攻防であり、江戸時代以降にも、時には警官が大勢出動して鎮圧にあたったという。 御幸町の森脇八幡神社の創建は、下岩成村が成立した慶長年間の前期といわれている。境内には、狛犬や常夜灯、石鳥居の三点セットのほかに石柱が建っている。この石柱はかつて芦田川の堤防にあった砂堰に埋めてあったものである。現在の御幸町と、下流の住民との激しい争いを避けるための妥協案として、堰に盛る砂の高さを、三尺、約九十cmとした。その三尺を測るためのものである。石柱の碑文には 我芦田川沿岸地方民ノ生命線トシテ多年悪戦苦闘ノ古戦場タル羽賀砂堰ノ由緒アル此標柱治桑ノ変永ク埋滅二帰センコトヲ虞レ此処二移建シテ報本反始二資ス と記されてある。石柱は高さが三・三mあり、上部の九十cmはやや削られて細くなっている。石柱は砂堰に埋められて、細くなっている九十cmだけが地上に出ていて、この高さまでは堰に砂を盛って良いとされてきたのである。 明治三十八年に砂堰に埋められたこの石柱は、昭和八年に芦田川の大改修で砂堰が撤去された後に、記念碑として神社の境内に移された。 現在の鶴ヶ橋は昭和十一年に渋谷昇によって完工したが、以前には少し上流に架かっていて、当時の川幅は今の半分ぐらいだった。横尾から橋を渡ると「立石」という集落であり、その先の当時の田圃の上には「江渡橋」という架橋があった。砂堰を超えた濁流は、現在の備後信用組合のあたりまで流れて、雨量が膨大な時にはさらに江渡橋の下を逆流して岩成、森脇方面が水没したという。 現在でもこの地方の旧家の基礎は道路よりもかなり地上げしてあり、かつての水害に備えた跡を垣間見ることができる。 村が水没すると、それでもなんとか炊事ができた家は持ち舟に食料を積んで周辺の家々に配ったり、手当たり次第に家財を載せて下岩成の光円寺へ避難したといい、同寺にはかつて「舟繋ぎの松」があった。 また、森脇の一角には「岩助堤防」と「高張堤防」と名付けられた堤防があって、逆流してきた濁流から村を守っていた。今、堤の跡には石碑が建っていて往時が偲ばれる。 この付近は「西京」とか「東京」といっていたが、平安末期に末法思想により経が埋められたという「経塚」の地名からの東西を指していた。 昭和十三年に御幸小学校が現在の地に建てられる際には、この堤防を撤去した土で敷地を造成した。 当時、尋常小学校の高等科二年生だった地元のY氏は、卒業前の三学期は小学校の移転にかかわる作業に追われていた、と回想されていた。 御幸町も徐々にベッドタウン化し、ダムもできて芦田川の流れは穏やかになったが、先人の多難な労苦は次代へ語り継がれるべきだろう。 【森脇八幡神社】管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
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