「備陽史探訪:104号」より
小林 定市
一 新史料の発見
昨春佐藤錦士さんから、「井原市の大江町に、渡辺氏のことを書いているらしい、内容不詳の古文書を保存している家があるので、一度確認してほしい」との電話があり、数日後の昨年三月一日に、佐藤錦士さん、兄の英二さんと私の三人が、大江町の川合愛子さん宅を訪問し、貴重な古史料を拝見させて頂いた。
奥から出された主な古文書類は、①備後四代目の渡辺越中守兼(かね)が記した『先祖覚書』②嵯峨天皇から始まる『嵯峨源氏渡辺系図』③表紙が剥落(はくらく)した表題不詳の兵法書と刀剣鑑定書④天文三二年(一五五三)に毛利元就の命令で鞆城を普請した六代目渡辺出雲守房の肖像画⑤日蓮宗京都本法寺十世の功徳院日通が、文禄五年(一五九六)に福山九代目渡辺勘左衛門秀(幼名亀桓丸)に授与した曼陀羅(まんだら)本尊で、いずれも戦国武将の後裔を証明する珍しい古史料であった。
二 渡辺先祖党書
早速川合さんの了解を得て、『先祖覚書』と『嵯峨源氏渡辺系図』を複写し解読を進めると、『先祖覚書』は田日会長が昭和五十九年八月、本会機関誌の『山城志』第七集に《史料紹介》渡辺先祖覚書」として発表された内容と全く同文であった。
田日会長が写本に用いた原書は福山城古文書館所蔵の浜本鶴賓(かくひん)文庫で、川合家に伝来した『先祖覚書』は浜本鶴賓が写本に用いた原書と断定してもよい内容であった。
『先祖覚書』の筆者、渡辺越中守兼は文明四年(一四七三)~天文二三年(一五一四)十一月八日没、八三歳。法名日瑞。備後渡辺氏の四代目で文武に秀(ひい)でた戦国時代の武将で、後年福山市熊野町の上山田に一乗山城を築城し、日蓮宗に帰依し菩提寺の常国寺を創建した。
渡辺氏は越前福井庄から、京都悲田院(ひでんいん)の庄園備後長和庄に下向し、悲田院の代官を勤める一方、数代続けて守護山名氏の被官人となって、守護領であったと推定される長和庄草土の代官を初めとして、国兼(庄原市)・上下・市村・長和寺家半済(じけはんぜい)・坪生・藁江・木庄など守護領の代官を勤めている。
浜本本と川合家本の最大の相違点は、川合家本には表題「草戸村代々居住之次第」に続いて「南方(南朝)正平廿三二営ル應安元(一三六八)毛利小太郎元春越中守ノ事」と浜本本に見られない記入があることだ。
浜本鶴賓は毛利元春を意味不明の書込みと判断してか写しを省略していたが、草戸千軒を含む草戸村一帯の地を、毛利元春が数年間支配していた事は確実で、その時期は越中守兼が『先祖覚書』を書いた年より約一五〇年も昔年の出来事であった。
三 草戸村と毛利元春
毛利氏初代の毛利季光(すえみつ)から数えて五代目の、安芸国吉田庄の地頭毛利右馬頭元春(初名師親元阿)が草戸を支配したと書くと、読者の皆様から「毛利氏と草戸千軒は日本を代表する学者によって中世研究が進められているが、毛利氏が草戸を支配したと書いた学者は一人も見当らない。根拠の無いでたらめを書くな」と、叱られるであろう。
ところが『毛利家文書』一三八四号・一三八五号や『閥閲録(ばつえつろく)』八、福原對馬の条に依ると、長和庄北方地頭の長井貞広は相続人に恵まれず、応安六年(一三七三)に一族の毛利元春の五男広世を養子に迎えて所領を譲渡したとある。
その後長井貞広は永和元年(一三七六)八月、筑後国山崎で討死を遂げた事から支配権は養子の広世に移った。しかし、幼少の広世には領域支配の実務は無理だった様で、そこで父親の元春が実権を掌握して支配を代行した事情が、渡辺氏が草戸に来住した以降も地元に伝承として伝えられたのであろう。
康暦三年(一三八一)正月、元春は広世に安芸国内部庄福原村を譲渡すると、広世は備後の所領を見限り一族が多く居住する吉田庄近くの福原村に移り、同村の鈴尾山に城を築いて長井・毛利に加え、新たな名字福原の三姓を称した。経緯は不明であるが、長和庄北方は幕府に返却された模様で、次いで幕府領から守護山名氏の守護請地に変わったらしい。
四 毛利氏と長井氏との関係
安芸国吉田庄地頭毛利時親が越後国佐橋庄の南条館を本拠としていた当時、時親の宿所が炎上し、地頭にとって最も重要な所領の領有権を保証する手継文書を無くしてしまった。
その後毛利元春の代に、建武政権から一族の三名に紛失の問状が出されると、長井貞広の父の出羽守貞頼と祖父の治部少輔(じぶのしょう)頼秀は、元春の申請書について「文書の紛失は相違無し」と請文を京都代官所に提出した(『毛利家文書』十五号)。
従来草戸村は領家悲田院の領所(あずかりどころ)と推定されてきた。しかし、『先祖覚書』には「寺家(じけ)(悲田院領所)の内、田中名と申し候、先地頭に子細候て相抱候」と、長和庄の悲田院領所は田中の地名を伝えた土地であったと越中守兼は書いている。
田中の地名は現在長和庄の西方旧地頭分村の瀬戸池下流に残されており、従来の通説では、地頭分村は中世地頭が支配した地域と信じられてきたが、悲田院の支配地は通説とは逆の地頭分村であった。
次に「先地頭」とは悲田院領所の役人の呼称で、領家方代官の正式な呼称である公文(くもん)や雑掌(ざっしょう)は用いられず、長和庄では悲田院の代官も地頭と呼称されており、幕府が任命した新補(しんぼ)地頭の長井氏と悲田院が任命した代官も地頭と呼ばれていた。
五 常福寺の沙門頼秀
草戸村の常福寺は創建当初より奈良の真言律宗西大寺の末寺で、元応三年(一三二一)頃に建立された観音堂に「沙門頼秀」と地頭長井頼秀の墨書銘があり、続いて貞和四年(一三四八)に造塔された五重塔の伏鉢(ふくばち)にも「沙門頼秀」の陰刻銘が残されている。
『毛利家文書』に依ると、元徳元年(一三二九)に、頼秀(道可)は嫡子貞頼宛に譲状を書いており、貞頼にも貞和五年(一三四九)の譲状がある。
多くの地頭が書いている建武新政権前後の譲状を分析すると、筆頭に書かれた所領名は何れも地頭の根本所領であった。長井父子の譲状も筆頭に長和庄北方を記しており、続いて他の庄園名を記している。
北条政権が安定して戦乱を想定しなくてもよい時期の長和庄草戸は、備北の信敷庄(しのうのしょう)西方や出雲来次庄(きすきのしょう)と京都を結ぶ海陸の中継拠点としての条件に恵まれた長井氏の最も重要な所領であった。
長井頼秀は後醍醐天皇の南朝方に味方していた武将で、延元元年(一三三六)四月の『建武記』武者所(むしゃどころ)結番事の三番に、長井前治部少輔(さきのじぶのしょう)頼秀の名前があり、楠木正成等と共に南朝方の武将六五名の中に名前を連ねている。子息の貞頼は尊氏方として各地で大活躍しており、父子は南朝方と北朝方に分かれて行動していた可能性が高い。
足利尊氏・直義の兄弟が、後醍醐天皇の冥福と南北朝の戦死者の追善を祈るため安国寺利生塔(りしょうとう)の建立を推進した当時、南朝に加担していた地頭の長井頼秀が、後醍醐天皇や北条氏等多くの合戦犠牲者を弔うため幕府の方針に賛同し、地頭の財力をもって建立したのが常福寺の五重塔と考えられる。
六 真言律宗常福寺
その後明徳二年(一三九一)の『西大寺諸国末寺帳』に常福寺が記され、奈良西大寺に所蔵されていた永享八年(一四六三)の、『西大寺坊 寄宿諸末寺帳』の寺院数合計百八十七ヶ寺の中に、東室一分の十八ヶ寺の中に「(備後クサイツ)常福寺」と寺名が記されている。
次いで常福寺の寺名が史料に現れるのは八年後の文明三年(一四七一)で、尾道西国寺の『西国寺不断経修行事及び西国寺上銭帳』に常福寺衆が見られる。常福寺が真言律宗から真言宗に転宗した時期は明らかで無く、嵯峨の真言宗大覚寺と本末の寺縁を結んだ時期を明らかにする史料も無い。
七 毛利福島時代の修造
現在まで、草戸千軒に関する研究史料の出典は、明王院や水野氏に都合の良いものが主に公表されているが、江戸時代中期に巷間に伝えられた『福山語伝記』には、明王院由来の文末に「大昔ハ此辺マデ尾道西国寺末寺ニテ之有候由」と西国寺との関係を記している。
延宝九年(一六八一)の『草戸明細記』には、明王院之事の条に「大門之再興ハ慶長十九寅年(一六一四)八月施主ハ福嶋公也」と記し、福島正則も大門(県重文)を建立し、常福寺の繁栄に尽力したとする記録が残されている。
福山城古文書館に所蔵されている高田文庫の「福山御城下並近郷之絵図」には、草戸千軒中州にあった切土手跡が描かれ、明王院観音堂の所に「深津城主毛利元康(元就の八男)の家臣、小川新左衛門再建屋根瓦等新規に成」と書かれている。元康は天正十九年(一五九一)から慶長五年(一六〇〇)まで神辺城主として備南を支配した。
元康の時代に修理を加えたのであろうか、五重塔の初重に「当寺初見仕る日本一也天正弐拾年(一五九二)」の落書きがあると『福山市史』は記載している。「厚狭(あさ)毛利家文書』に依ると、元康の家老に小川新左衛門尉は実在し、元康の没後は元康の嫡男元宣の補佐役として活躍。
元康は神辺城の他に海陸の要地である深津王子山に築城しており、厚狭毛利系図に、元宜(元就の外孫)は備後深津で慶長三年(一五九八)に誕生したと記してある。常福寺は長井氏に続いて渡辺氏・毛利氏・福島氏の、知られざる援助によって中世から現在まで命脈が保たれた。
八 常福寺と水野家
明王院には元和六年(一六二〇)四月の大雨後に、水野勝成が本堂を再興したとする(『福山市史』上巻中世の建築)二枚の本堂棟札がある。
一枚の古い縁起の棟札を写したと記す棟札の銘文に「当寺の開起は大同年中(八〇六~八〇九)の初住持沙門、伽藍造立の願を発(おこ)す」と、開基は沙門で空海と記していない。
別の棟札には「大道(同)二年の昔十方の助成を以て、七道(堂)伽藍立て初め以来より」と、大同二年(八〇七)に七堂伽藍を初建立したと記しているが、実際に建立された年との差は五百数十年もの開きが見られる。
水野勝成が没した慶安四年(一六五一)に福山に来た、俳人の野々口立圃(りゅうほ)は常福寺の見たままを「観音堂の左に、阿弥陀堂とて形ばかり残り」と『草戸記』に記している。立圃は荒れ果て放置されたままの阿弥陀堂を目撃していた。
通説では水野氏が二棟の本堂を再興したことになっていても、実際には水野氏が支配していた三四年の間、阿弥陀堂の修造は先送りされてきた可能性がある。その後修復不能な阿弥陀堂は解体されたらしいが棟札と『草戸記』の矛盾は見逃せない。
九 常福寺と明王院の合併
由井正雪の慶安の変の翌年、承応元年(一六五二)九月に幕府転覆を計画し事前に露見した事件を承応事件という。
取り調べが進むと福山二代水野勝俊の家臣、三百石取の兵学者石橋源右衛門が事件を知りながら主君に報告しなかった罪を咎(とが)められた。当時幕府は多くの大名家を廃絶しており、幕府転覆に荷担した家臣を出した大名家は取り潰しの対象とされていた。
対応策として、新たに徳川家を祀る大寺社の造営が考えられた様だが、水野家の財政状況は非常に逼迫(ひっぱく)しており、そこで常福寺と明王院を合併し新たに庫裏・書院・護摩堂等を移築し寺観を調えた(『福山志料』は護摩堂と庫裏を建立と記す)。
水野勝貞は書院に徳川家光の位牌を祀らせ、家光の命日である二十日に毎月法要を行っていたが、何時しか毎年の祥月四月に行う年法要に変り、盛大な法要は賑やかな祭りに移行し、明王院が支配してきた草戸稲荷の卯祭として今に伝えられている。
十 宥仙(ゆうぜん)の縁起
常福寺の住僧舜意は、三代水野勝貞の命で仕方なく地頭分村福成寺の住職の身となる。建立されたままになっていた鐘楼に、明暦三年(一六五七)鋳崩れが目立つ梵鐘が鋳造された。その梵鐘に常福寺を開基した大師名が彫り込まれていたのであるが、寺伝銘文は読み落とされていたようで、現在まで公表されていない。撞木(ゆもく)で鐘を撞(つ)くときは、本堂の本尊に向かって撞くのが正式とされている。鐘楼は正規に建てられ鐘を撞くと、大悲閣の十一面観音像によく響くように配慮されている。
十八世宥仙は撞木を持つ僧が寺伝を読み易いように、梵鐘の池の間に「沼隈郡草戸之精舎中道山圓光寺明王院、門説大同二年平城皇帝之嘉運我祖野山大師之開基也」と陰刻銘文を彫らせている。大師とは高徳の僧に勅賜(ちょくし)された誼号(しごう)であるが、野山の号を賜った真言僧は何れの史料にも見当たらない。
十一 弘法大師の創建説
江戸時代中期頃、創立伝承が不詳となっていた多くの真言宗寺院は、『備陽六郡志』の野々浜村の条に見られる様に、「五ヶの真言と言って、大門村の上之坊・真明寺・野々浜村之長福寺・引野村之医王寺・津之下村之長源寺、何れも大師開基の地なり、しかれ共縁起なども無ければ以前の事相知れず」と、開基を弘法大師とする風潮が蔓延(まんえん)していた時代であった。
元禄三年(一六九〇)十二月、四代水野勝種によって観音堂の大修復が完工した。時の住持十九世宥翁は再興棟札に「中道山明王密院は相伝えて曰(いわ)く、大同の年に我が弘法大師の創基、数百年来の仏閣宝塔は今に尚存ず」と、宥順に寺歴を書かせている。
十七世舜意より以前の僧が書いた寺伝は見当たらず、宥翁は寺が百数十年以前は真言律宗であった事実も知らず、現在寺が真言宗寺院であるから、古い建造物は当然弘法大師が建立した寺と推定したのであろうか。宥翁の棟札が「弘法大師が開創」とする最古史料である。
文化二年(一八〇五)に明王院が藩役所に提出した『寺院由緒』に依ると、「本尊の十一面観音は伝教大師の一刀三礼の彫刻」「五重塔の本尊大日如来は弘法大師の作」と、寺伝は次第に飾られて行くのである。
十二 頼秀の事績評価
数年前に明王院住職の墓塔の調査を行った。江戸時代に法灯を伝えた住職の一世代あたりの平均在住年数を調べると二十年弱である。十七世舜意が寺を追われた明暦元年(一六五五)頃を起算年として、十七代に二十年弱を掛算すると開創年代が算出できると考え、これを計算すると正中元年(一三二四)の答が出た。観音堂に残された墨書銘の元応三年(一三二一)と僅か三年の相違である。この方法によると、観音堂が建立された年が計算上の開基年となった。
明王院の根拠薄弱な開基寺伝に阻まれ、観音堂と五重塔を建立した頼秀は残念なことに福山市民から正当に評価されていない。しかし、二国宝には不動の頼秀銘文が残されており、頼秀が顕彰される日が待ち遠しい。
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小林 定市 一 新史料の発見
昨春佐藤錦士さんから、「井原市の大江町に、渡辺氏のことを書いているらしい、内容不詳の古文書を保存している家があるので、一度確認してほしい」との電話があり、数日後の昨年三月一日に、佐藤錦士さん、兄の英二さんと私の三人が、大江町の川合愛子さん宅を訪問し、貴重な古史料を拝見させて頂いた。 奥から出された主な古文書類は、①備後四代目の渡辺越中守兼(かね)が記した『先祖覚書』②嵯峨天皇から始まる『嵯峨源氏渡辺系図』③表紙が剥落(はくらく)した表題不詳の兵法書と刀剣鑑定書④天文三二年(一五五三)に毛利元就の命令で鞆城を普請した六代目渡辺出雲守房の肖像画⑤日蓮宗京都本法寺十世の功徳院日通が、文禄五年(一五九六)に福山九代目渡辺勘左衛門秀(幼名亀桓丸)に授与した曼陀羅(まんだら)本尊で、いずれも戦国武将の後裔を証明する珍しい古史料であった。 二 渡辺先祖党書
早速川合さんの了解を得て、『先祖覚書』と『嵯峨源氏渡辺系図』を複写し解読を進めると、『先祖覚書』は田日会長が昭和五十九年八月、本会機関誌の『山城志』第七集に《史料紹介》渡辺先祖覚書」として発表された内容と全く同文であった。 田日会長が写本に用いた原書は福山城古文書館所蔵の浜本鶴賓(かくひん)文庫で、川合家に伝来した『先祖覚書』は浜本鶴賓が写本に用いた原書と断定してもよい内容であった。 『先祖覚書』の筆者、渡辺越中守兼は文明四年(一四七三)~天文二三年(一五一四)十一月八日没、八三歳。法名日瑞。備後渡辺氏の四代目で文武に秀(ひい)でた戦国時代の武将で、後年福山市熊野町の上山田に一乗山城を築城し、日蓮宗に帰依し菩提寺の常国寺を創建した。 渡辺氏は越前福井庄から、京都悲田院(ひでんいん)の庄園備後長和庄に下向し、悲田院の代官を勤める一方、数代続けて守護山名氏の被官人となって、守護領であったと推定される長和庄草土の代官を初めとして、国兼(庄原市)・上下・市村・長和寺家半済(じけはんぜい)・坪生・藁江・木庄など守護領の代官を勤めている。 浜本本と川合家本の最大の相違点は、川合家本には表題「草戸村代々居住之次第」に続いて「南方(南朝)正平廿三二営ル應安元(一三六八)毛利小太郎元春越中守ノ事」と浜本本に見られない記入があることだ。 浜本鶴賓は毛利元春を意味不明の書込みと判断してか写しを省略していたが、草戸千軒を含む草戸村一帯の地を、毛利元春が数年間支配していた事は確実で、その時期は越中守兼が『先祖覚書』を書いた年より約一五〇年も昔年の出来事であった。 三 草戸村と毛利元春
毛利氏初代の毛利季光(すえみつ)から数えて五代目の、安芸国吉田庄の地頭毛利右馬頭元春(初名師親元阿)が草戸を支配したと書くと、読者の皆様から「毛利氏と草戸千軒は日本を代表する学者によって中世研究が進められているが、毛利氏が草戸を支配したと書いた学者は一人も見当らない。根拠の無いでたらめを書くな」と、叱られるであろう。 ところが『毛利家文書』一三八四号・一三八五号や『閥閲録(ばつえつろく)』八、福原對馬の条に依ると、長和庄北方地頭の長井貞広は相続人に恵まれず、応安六年(一三七三)に一族の毛利元春の五男広世を養子に迎えて所領を譲渡したとある。 その後長井貞広は永和元年(一三七六)八月、筑後国山崎で討死を遂げた事から支配権は養子の広世に移った。しかし、幼少の広世には領域支配の実務は無理だった様で、そこで父親の元春が実権を掌握して支配を代行した事情が、渡辺氏が草戸に来住した以降も地元に伝承として伝えられたのであろう。 康暦三年(一三八一)正月、元春は広世に安芸国内部庄福原村を譲渡すると、広世は備後の所領を見限り一族が多く居住する吉田庄近くの福原村に移り、同村の鈴尾山に城を築いて長井・毛利に加え、新たな名字福原の三姓を称した。経緯は不明であるが、長和庄北方は幕府に返却された模様で、次いで幕府領から守護山名氏の守護請地に変わったらしい。 四 毛利氏と長井氏との関係
安芸国吉田庄地頭毛利時親が越後国佐橋庄の南条館を本拠としていた当時、時親の宿所が炎上し、地頭にとって最も重要な所領の領有権を保証する手継文書を無くしてしまった。 その後毛利元春の代に、建武政権から一族の三名に紛失の問状が出されると、長井貞広の父の出羽守貞頼と祖父の治部少輔(じぶのしょう)頼秀は、元春の申請書について「文書の紛失は相違無し」と請文を京都代官所に提出した(『毛利家文書』十五号)。 従来草戸村は領家悲田院の領所(あずかりどころ)と推定されてきた。しかし、『先祖覚書』には「寺家(じけ)(悲田院領所)の内、田中名と申し候、先地頭に子細候て相抱候」と、長和庄の悲田院領所は田中の地名を伝えた土地であったと越中守兼は書いている。 田中の地名は現在長和庄の西方旧地頭分村の瀬戸池下流に残されており、従来の通説では、地頭分村は中世地頭が支配した地域と信じられてきたが、悲田院の支配地は通説とは逆の地頭分村であった。 次に「先地頭」とは悲田院領所の役人の呼称で、領家方代官の正式な呼称である公文(くもん)や雑掌(ざっしょう)は用いられず、長和庄では悲田院の代官も地頭と呼称されており、幕府が任命した新補(しんぼ)地頭の長井氏と悲田院が任命した代官も地頭と呼ばれていた。 五 常福寺の沙門頼秀
草戸村の常福寺は創建当初より奈良の真言律宗西大寺の末寺で、元応三年(一三二一)頃に建立された観音堂に「沙門頼秀」と地頭長井頼秀の墨書銘があり、続いて貞和四年(一三四八)に造塔された五重塔の伏鉢(ふくばち)にも「沙門頼秀」の陰刻銘が残されている。 『毛利家文書』に依ると、元徳元年(一三二九)に、頼秀(道可)は嫡子貞頼宛に譲状を書いており、貞頼にも貞和五年(一三四九)の譲状がある。 多くの地頭が書いている建武新政権前後の譲状を分析すると、筆頭に書かれた所領名は何れも地頭の根本所領であった。長井父子の譲状も筆頭に長和庄北方を記しており、続いて他の庄園名を記している。 北条政権が安定して戦乱を想定しなくてもよい時期の長和庄草戸は、備北の信敷庄(しのうのしょう)西方や出雲来次庄(きすきのしょう)と京都を結ぶ海陸の中継拠点としての条件に恵まれた長井氏の最も重要な所領であった。 長井頼秀は後醍醐天皇の南朝方に味方していた武将で、延元元年(一三三六)四月の『建武記』武者所(むしゃどころ)結番事の三番に、長井前治部少輔(さきのじぶのしょう)頼秀の名前があり、楠木正成等と共に南朝方の武将六五名の中に名前を連ねている。子息の貞頼は尊氏方として各地で大活躍しており、父子は南朝方と北朝方に分かれて行動していた可能性が高い。 足利尊氏・直義の兄弟が、後醍醐天皇の冥福と南北朝の戦死者の追善を祈るため安国寺利生塔(りしょうとう)の建立を推進した当時、南朝に加担していた地頭の長井頼秀が、後醍醐天皇や北条氏等多くの合戦犠牲者を弔うため幕府の方針に賛同し、地頭の財力をもって建立したのが常福寺の五重塔と考えられる。 六 真言律宗常福寺
その後明徳二年(一三九一)の『西大寺諸国末寺帳』に常福寺が記され、奈良西大寺に所蔵されていた永享八年(一四六三)の、『西大寺坊 寄宿諸末寺帳』の寺院数合計百八十七ヶ寺の中に、東室一分の十八ヶ寺の中に「(備後クサイツ)常福寺」と寺名が記されている。 次いで常福寺の寺名が史料に現れるのは八年後の文明三年(一四七一)で、尾道西国寺の『西国寺不断経修行事及び西国寺上銭帳』に常福寺衆が見られる。常福寺が真言律宗から真言宗に転宗した時期は明らかで無く、嵯峨の真言宗大覚寺と本末の寺縁を結んだ時期を明らかにする史料も無い。 七 毛利福島時代の修造
現在まで、草戸千軒に関する研究史料の出典は、明王院や水野氏に都合の良いものが主に公表されているが、江戸時代中期に巷間に伝えられた『福山語伝記』には、明王院由来の文末に「大昔ハ此辺マデ尾道西国寺末寺ニテ之有候由」と西国寺との関係を記している。 延宝九年(一六八一)の『草戸明細記』には、明王院之事の条に「大門之再興ハ慶長十九寅年(一六一四)八月施主ハ福嶋公也」と記し、福島正則も大門(県重文)を建立し、常福寺の繁栄に尽力したとする記録が残されている。 福山城古文書館に所蔵されている高田文庫の「福山御城下並近郷之絵図」には、草戸千軒中州にあった切土手跡が描かれ、明王院観音堂の所に「深津城主毛利元康(元就の八男)の家臣、小川新左衛門再建屋根瓦等新規に成」と書かれている。元康は天正十九年(一五九一)から慶長五年(一六〇〇)まで神辺城主として備南を支配した。 元康の時代に修理を加えたのであろうか、五重塔の初重に「当寺初見仕る日本一也天正弐拾年(一五九二)」の落書きがあると『福山市史』は記載している。「厚狭(あさ)毛利家文書』に依ると、元康の家老に小川新左衛門尉は実在し、元康の没後は元康の嫡男元宣の補佐役として活躍。 元康は神辺城の他に海陸の要地である深津王子山に築城しており、厚狭毛利系図に、元宜(元就の外孫)は備後深津で慶長三年(一五九八)に誕生したと記してある。常福寺は長井氏に続いて渡辺氏・毛利氏・福島氏の、知られざる援助によって中世から現在まで命脈が保たれた。 八 常福寺と水野家
明王院には元和六年(一六二〇)四月の大雨後に、水野勝成が本堂を再興したとする(『福山市史』上巻中世の建築)二枚の本堂棟札がある。 一枚の古い縁起の棟札を写したと記す棟札の銘文に「当寺の開起は大同年中(八〇六~八〇九)の初住持沙門、伽藍造立の願を発(おこ)す」と、開基は沙門で空海と記していない。 別の棟札には「大道(同)二年の昔十方の助成を以て、七道(堂)伽藍立て初め以来より」と、大同二年(八〇七)に七堂伽藍を初建立したと記しているが、実際に建立された年との差は五百数十年もの開きが見られる。 水野勝成が没した慶安四年(一六五一)に福山に来た、俳人の野々口立圃(りゅうほ)は常福寺の見たままを「観音堂の左に、阿弥陀堂とて形ばかり残り」と『草戸記』に記している。立圃は荒れ果て放置されたままの阿弥陀堂を目撃していた。 通説では水野氏が二棟の本堂を再興したことになっていても、実際には水野氏が支配していた三四年の間、阿弥陀堂の修造は先送りされてきた可能性がある。その後修復不能な阿弥陀堂は解体されたらしいが棟札と『草戸記』の矛盾は見逃せない。 九 常福寺と明王院の合併
由井正雪の慶安の変の翌年、承応元年(一六五二)九月に幕府転覆を計画し事前に露見した事件を承応事件という。 取り調べが進むと福山二代水野勝俊の家臣、三百石取の兵学者石橋源右衛門が事件を知りながら主君に報告しなかった罪を咎(とが)められた。当時幕府は多くの大名家を廃絶しており、幕府転覆に荷担した家臣を出した大名家は取り潰しの対象とされていた。 対応策として、新たに徳川家を祀る大寺社の造営が考えられた様だが、水野家の財政状況は非常に逼迫(ひっぱく)しており、そこで常福寺と明王院を合併し新たに庫裏・書院・護摩堂等を移築し寺観を調えた(『福山志料』は護摩堂と庫裏を建立と記す)。 水野勝貞は書院に徳川家光の位牌を祀らせ、家光の命日である二十日に毎月法要を行っていたが、何時しか毎年の祥月四月に行う年法要に変り、盛大な法要は賑やかな祭りに移行し、明王院が支配してきた草戸稲荷の卯祭として今に伝えられている。 十 宥仙(ゆうぜん)の縁起
常福寺の住僧舜意は、三代水野勝貞の命で仕方なく地頭分村福成寺の住職の身となる。建立されたままになっていた鐘楼に、明暦三年(一六五七)鋳崩れが目立つ梵鐘が鋳造された。その梵鐘に常福寺を開基した大師名が彫り込まれていたのであるが、寺伝銘文は読み落とされていたようで、現在まで公表されていない。撞木(ゆもく)で鐘を撞(つ)くときは、本堂の本尊に向かって撞くのが正式とされている。鐘楼は正規に建てられ鐘を撞くと、大悲閣の十一面観音像によく響くように配慮されている。 十八世宥仙は撞木を持つ僧が寺伝を読み易いように、梵鐘の池の間に「沼隈郡草戸之精舎中道山圓光寺明王院、門説大同二年平城皇帝之嘉運我祖野山大師之開基也」と陰刻銘文を彫らせている。大師とは高徳の僧に勅賜(ちょくし)された誼号(しごう)であるが、野山の号を賜った真言僧は何れの史料にも見当たらない。 十一 弘法大師の創建説
江戸時代中期頃、創立伝承が不詳となっていた多くの真言宗寺院は、『備陽六郡志』の野々浜村の条に見られる様に、「五ヶの真言と言って、大門村の上之坊・真明寺・野々浜村之長福寺・引野村之医王寺・津之下村之長源寺、何れも大師開基の地なり、しかれ共縁起なども無ければ以前の事相知れず」と、開基を弘法大師とする風潮が蔓延(まんえん)していた時代であった。 元禄三年(一六九〇)十二月、四代水野勝種によって観音堂の大修復が完工した。時の住持十九世宥翁は再興棟札に「中道山明王密院は相伝えて曰(いわ)く、大同の年に我が弘法大師の創基、数百年来の仏閣宝塔は今に尚存ず」と、宥順に寺歴を書かせている。 十七世舜意より以前の僧が書いた寺伝は見当たらず、宥翁は寺が百数十年以前は真言律宗であった事実も知らず、現在寺が真言宗寺院であるから、古い建造物は当然弘法大師が建立した寺と推定したのであろうか。宥翁の棟札が「弘法大師が開創」とする最古史料である。 文化二年(一八〇五)に明王院が藩役所に提出した『寺院由緒』に依ると、「本尊の十一面観音は伝教大師の一刀三礼の彫刻」「五重塔の本尊大日如来は弘法大師の作」と、寺伝は次第に飾られて行くのである。 十二 頼秀の事績評価
数年前に明王院住職の墓塔の調査を行った。江戸時代に法灯を伝えた住職の一世代あたりの平均在住年数を調べると二十年弱である。十七世舜意が寺を追われた明暦元年(一六五五)頃を起算年として、十七代に二十年弱を掛算すると開創年代が算出できると考え、これを計算すると正中元年(一三二四)の答が出た。観音堂に残された墨書銘の元応三年(一三二一)と僅か三年の相違である。この方法によると、観音堂が建立された年が計算上の開基年となった。 明王院の根拠薄弱な開基寺伝に阻まれ、観音堂と五重塔を建立した頼秀は残念なことに福山市民から正当に評価されていない。しかし、二国宝には不動の頼秀銘文が残されており、頼秀が顕彰される日が待ち遠しい。管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
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