「山城探訪」より
網本 善光
笠岡市の北部、小田郡矢掛町と境を接して、高梁川の支流である小田川がほぼ東西方向に流れている。
この小田川の南側、笠岡市走出・甲弩地内は、その南半を山塊に囲まれている。そして、ここには、それらの山塊から流れ出る尾坂川・井立川などを中心に水田が広がり、平野部を形成している。
この平野部のほぼ中央、県道笠岡・井原線と、同じく笠岡・井原線とが分かれ行く交差点付近の西側に、小さな独立丘陵がある。この丘陵は、北側の標高六五・ニメートルを測るほぼ円形の部分と、南側の標高八五・六メートルを測る東西にやや細長い部分とに分かれている。その間は、狭い鞍部となっており、小字も「峠」と呼ばれている。
これらのうちの北側の丘陵部分、小字を「要害」と呼ぶ付近が「折敷山城跡」である。
城は山頂部を削平して築かれ、主郭を中心に西側と北側とに郭を有する。現在、その頂部には貯水槽が作られており、周囲もうっそうとした竹やぶに覆われているものの、その北半に広がる走出・甲弩の平野から、さらに小田川流域までを広く見晴らす立地条件にある。
山頂に位置する主郭は、主軸をほぼ東西方向に持ち、東西約五〇メートル、南北約三〇メートルを測る。東南側はやや直線的な形状を示すものの、全体としては長方形に近い平面形を示している。主郭の南側には、それぞれ幅十メートル程度の曲輪が東西方向に、二段設けられている。
主郭の西側は、深い堀切りによって区画されて、標高六〇・五メートルの「西の丸」に続く。この郭も東西方向に築かれており、東西約五〇メートル、南北約二〇メートル、南西部を一部削平されているものの、ほぼ長方形に近い形状を示している。さらに、西北隅方向には、二段の小規模な曲輪が設けられている。
また、主郭の北側には小さな鞍部をはさんで「北の丸」が設けられている。この郭は南北方向を主軸とし、南北約五〇メートル、東西約二〇メートルを測る。その東西には、それぞれ南北方向に、幅約五メートルの帯曲輪が残っている。
城跡には、主郭を取り囲むように、北東側から西側をめぐって、南西側に伸びる道がある。主郭の南側に残る帯曲輪をはさんで、この道の西側にも小規模の曲輪が確認されたことから、「大手」側と推測した。この大手側あたりまでが山の斜面部であり、ここからはちょうど、南側の山との間の鞍部を見晴らす位置になる。
くわえて、城跡から見て南東側、峠をはさんで「的場」・「弓場」といった地名が残されており、実際にも平坦部が認められる。
この折敷山城の築城年代は不明であるが、『古戦場備中府志』には「尾鋪山城」として見え、城主として、天文・弘治年間(一五三二~一五五八)の有岡新之丞の名前を伝えている。
さらに、同書は、有岡氏の後として、永禄九年(一五六六)より小田政清、文禄四年(一五九五)より毛利家蔵入、慶長三年(一五九八)より毛利元康、同五年(一六〇〇)より代官所、そして、同八年(一六〇三)よりは宇喜多秀家の家臣であった楢村監物領、と伝えている。
有岡氏については詳細不明であるが、『笠岡市史第一巻』によると、小田氏の被官であったとも伝えられている。小田氏は、毛利氏に属した有力な国人であり、矢掛町小田を中心に、この地に勢力をもち、永禄八年(一五六五)には、同じく笠岡市内の山口にある馬鞍山城を本拠とした。そして、同じく笠岡にその本拠を置いた、村上氏との間で抗争を繰り広げた。
また、小田氏の属城の一つである、市内新賀の政所山城の城主として有岡右京の名が伝えられている。この名前は、『中国兵乱記』が記す、永禄十年(一五六七)の龍の口合戦に活躍した備中方の侍の一人、小田小太郎(戦死)の郎党として登場している。そして、この有岡右京が、先に名前の出た、有岡新之丞の舎弟であるとも言われる(古戦場備中府志)。
『笠岡市史』では、折敷山城主としての有岡氏の存在から、天文年間当時には、走出・甲弩まで小田氏の勢力が及んでいたことが考えられる、としている。
折敷山城は、このほかに『中国兵乱記』では、天正二年(一五七四)の三村元親一族と毛利家との戦いにおいて、猿掛城(小田郡矢掛町・吉備郡真備町)攻めの、毛利家の宍戸備前守が入城したことを伝えている。
さらに下って天正十年(一五八二)の高松城攻めの時にも、毛利方の軍勢が陣取ったことが伝えられている。
折敷山城を訪ねるには、JR笠岡駅前から、井笠バス矢掛行きに乗り、北川バス停下車。そこから西に約五〇〇メートル歩き、県道笠岡・井原線沿い、市立北川小学校の南西側に見える山の頂にある。
【折敷山城跡】
《参考文献》
「中国兵乱記」『吉備群書集成』第三輯
「古戦場備中府志」『同』 第五輯
『小田郡誌』
『笠岡市史 第一巻』
新人物往来社刊『日本城郭大系』(巻十三広島・岡山版 一九八〇)
加原耕作編著「新釈 備中兵乱記」(一九八七)
https://bingo-history.net/archives/13857https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/6a7d54507cb3dac672844c5b0eb5b947.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/6a7d54507cb3dac672844c5b0eb5b947-150x100.jpg管理人中世史「山城探訪」より
網本 善光 笠岡市の北部、小田郡矢掛町と境を接して、高梁川の支流である小田川がほぼ東西方向に流れている。 この小田川の南側、笠岡市走出・甲弩地内は、その南半を山塊に囲まれている。そして、ここには、それらの山塊から流れ出る尾坂川・井立川などを中心に水田が広がり、平野部を形成している。 この平野部のほぼ中央、県道笠岡・井原線と、同じく笠岡・井原線とが分かれ行く交差点付近の西側に、小さな独立丘陵がある。この丘陵は、北側の標高六五・ニメートルを測るほぼ円形の部分と、南側の標高八五・六メートルを測る東西にやや細長い部分とに分かれている。その間は、狭い鞍部となっており、小字も「峠」と呼ばれている。 これらのうちの北側の丘陵部分、小字を「要害」と呼ぶ付近が「折敷山城跡」である。 城は山頂部を削平して築かれ、主郭を中心に西側と北側とに郭を有する。現在、その頂部には貯水槽が作られており、周囲もうっそうとした竹やぶに覆われているものの、その北半に広がる走出・甲弩の平野から、さらに小田川流域までを広く見晴らす立地条件にある。 山頂に位置する主郭は、主軸をほぼ東西方向に持ち、東西約五〇メートル、南北約三〇メートルを測る。東南側はやや直線的な形状を示すものの、全体としては長方形に近い平面形を示している。主郭の南側には、それぞれ幅十メートル程度の曲輪が東西方向に、二段設けられている。 主郭の西側は、深い堀切りによって区画されて、標高六〇・五メートルの「西の丸」に続く。この郭も東西方向に築かれており、東西約五〇メートル、南北約二〇メートル、南西部を一部削平されているものの、ほぼ長方形に近い形状を示している。さらに、西北隅方向には、二段の小規模な曲輪が設けられている。 また、主郭の北側には小さな鞍部をはさんで「北の丸」が設けられている。この郭は南北方向を主軸とし、南北約五〇メートル、東西約二〇メートルを測る。その東西には、それぞれ南北方向に、幅約五メートルの帯曲輪が残っている。 城跡には、主郭を取り囲むように、北東側から西側をめぐって、南西側に伸びる道がある。主郭の南側に残る帯曲輪をはさんで、この道の西側にも小規模の曲輪が確認されたことから、「大手」側と推測した。この大手側あたりまでが山の斜面部であり、ここからはちょうど、南側の山との間の鞍部を見晴らす位置になる。 くわえて、城跡から見て南東側、峠をはさんで「的場」・「弓場」といった地名が残されており、実際にも平坦部が認められる。 この折敷山城の築城年代は不明であるが、『古戦場備中府志』には「尾鋪山城」として見え、城主として、天文・弘治年間(一五三二~一五五八)の有岡新之丞の名前を伝えている。 さらに、同書は、有岡氏の後として、永禄九年(一五六六)より小田政清、文禄四年(一五九五)より毛利家蔵入、慶長三年(一五九八)より毛利元康、同五年(一六〇〇)より代官所、そして、同八年(一六〇三)よりは宇喜多秀家の家臣であった楢村監物領、と伝えている。 有岡氏については詳細不明であるが、『笠岡市史第一巻』によると、小田氏の被官であったとも伝えられている。小田氏は、毛利氏に属した有力な国人であり、矢掛町小田を中心に、この地に勢力をもち、永禄八年(一五六五)には、同じく笠岡市内の山口にある馬鞍山城を本拠とした。そして、同じく笠岡にその本拠を置いた、村上氏との間で抗争を繰り広げた。 また、小田氏の属城の一つである、市内新賀の政所山城の城主として有岡右京の名が伝えられている。この名前は、『中国兵乱記』が記す、永禄十年(一五六七)の龍の口合戦に活躍した備中方の侍の一人、小田小太郎(戦死)の郎党として登場している。そして、この有岡右京が、先に名前の出た、有岡新之丞の舎弟であるとも言われる(古戦場備中府志)。 『笠岡市史』では、折敷山城主としての有岡氏の存在から、天文年間当時には、走出・甲弩まで小田氏の勢力が及んでいたことが考えられる、としている。 折敷山城は、このほかに『中国兵乱記』では、天正二年(一五七四)の三村元親一族と毛利家との戦いにおいて、猿掛城(小田郡矢掛町・吉備郡真備町)攻めの、毛利家の宍戸備前守が入城したことを伝えている。 さらに下って天正十年(一五八二)の高松城攻めの時にも、毛利方の軍勢が陣取ったことが伝えられている。 折敷山城を訪ねるには、JR笠岡駅前から、井笠バス矢掛行きに乗り、北川バス停下車。そこから西に約五〇〇メートル歩き、県道笠岡・井原線沿い、市立北川小学校の南西側に見える山の頂にある。 【折敷山城跡】 《参考文献》
「中国兵乱記」『吉備群書集成』第三輯
「古戦場備中府志」『同』 第五輯
『小田郡誌』
『笠岡市史 第一巻』
新人物往来社刊『日本城郭大系』(巻十三広島・岡山版 一九八〇)
加原耕作編著「新釈 備中兵乱記」(一九八七)管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
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