「山城探訪」より
JR福塩線新市駅前に降り立つと、眼前に黒々とした山塊が見る者を圧するように迫って来る。これが備後宮氏の居城として有名な亀寿山城跡である。駅前の道路をそのまま北に進み、府中街道を渡ってしばらく行くと左手に山頂への登り口がある。
当城は、近世以来、備後宮氏の惣領家の本拠として紹介されてきた。例えば、近世の代表的な地誌『福山志料』には、「備後古城記」を引用して、南北朝時代に活躍した宮下野守兼信がこの城に拠り、以後その子孫が居城し、戦国時代、毛利氏と戦って敗北した宮下野守入道に至ったとある。しかし、今日、宮氏についての研究が進むにつれ、この伝承には疑間が持たれるようになってきた。
その疑問の第一は、備後宮氏の惣領筋の家には、「下野守」を官途とする家(下野守家)と、「上野介」を名乗る家(上野介家)の二家があって、亀寿山城に拠ったとされる宮兼信の子孫は、「備後古城記」等が言う下野守家ではなく、上野介家であることである(『広島県史』通史編中世等)。では、兼信の後、城主が交代し下野守家の居城となったかと言えば、事はそんなに簡単ではない。下野守家の拠点としては後に紹介する「柏村」が史料に現れるのである。
この城に拠ったのが、下野守家か上野介家かの詮索は別にして、宮氏にとって当城が重要な位置を占めていたのは間違いない事実である。宮氏は、備後一の宮吉備津神社と密接なつながりを持っていたが、同神社は当城の北方ニキロに位置する。また、同氏が在庁官人の出身とすれば、当城の位置は、備後国府の喉元を押さえる位置を占めている。なお、備後宮氏は戦国時代中期の天文年間(一五三二~五五)、毛利氏の攻撃を受け滅亡するが、その後も毛利氏の支城として利用されたようで、「備後古城記」の言う古志氏の在城は毛利氏の城番としてのそれであろう。
また、『萩藩閥閲録』巻一〇四の湯浅権兵衛書出文書の中に、「外郡神持山要害」に関する大内氏年寄衆の連署状(一二九号文書)があるが、もしこの神持山(かみじやま)が当城のこととすれば、同文書は亀寿山城に関する唯一つの確実な史料と言うことになる。
(田口義之)
城跡の現状
城郭は、相方城郭の対岸に位置し、南の声田川と東の神谷川に挟まれた急峻な独立丘陵「通称亀寿山」全体を城砦化しているが遺構の残存状況は非常に悪い。一九八七~八年に亀寿山遺跡調査団によって遺構全体の縄張り図作成および主要遺構の測量調査(平板・航空)がおこなわれた。
調査の結果、南北八〇〇メートル、東西六〇〇メートルの範囲に遺構が分布し、西南東側は城域が明らかである。しかし、北側は中学校建設のために山麓部分の遺構は不明であり、土師質土器の散布地が隣接する桜山城跡まで繋がっていて北側の城域が明らかではない。
中心となる曲輪は標高一三九メートルの頂上部を幅六〇メートル、深さ一四メートルの自然地形を人口的に造作した大空堀と、その中央部に土橋を伴う幅五メートルの空堀によって東西二つの主郭群に分けられる。また、東の主郭群から北に向かって延びる尾根には北の主郭群と南東に向かって延びる尾根の先端には南東の曲輪群(御旅)がある。西の主郭群からは南に向かって延びる尾根が途中で二股に分れ、それぞれの先端部に曲輪群が確認された。また、西に向かって新市町と府中市の境界線上に曲輪群が確認され、北側の別所谷を取り囲むように尾根伝いに鳶尾山城に繋がっている。遺構は全山にわたり展開しているが、大きく分けて尾根先端部と中腹部そして頂上部に曲輪群をつくり、それぞれの谷部には土師質土器が出土していることから各谷には、居館もしくは城の入口に相当する施設があったものと考えられる。
亀寿山城跡は、政治的にも地域的にも境目にあり城域こそは大きいがそれぞれの曲輪群は小さくまとまっており、柏城跡と同じく小単位のグループでそれぞれの城域を防御するシステムになっていたと考えられる。亀寿山城跡は一つの城郭としてとらえるとともに、隣接する桜山城跡(国史跡)・鳶尾山城跡・吉備津神社(国史跡)を含めた城館跡群(仮称として一宮城跡)の一つとして、一宮城跡南側の防御施設であると考えたほうが説明しやすい。
(新市町立歴史民俗資料館 尾多賀晴悟)
【亀寿山城跡】
https://bingo-history.net/archives/13865https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/1b372f4463389418e6b94483c2f07b95.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/1b372f4463389418e6b94483c2f07b95-150x100.jpg管理人中世史「山城探訪」より JR福塩線新市駅前に降り立つと、眼前に黒々とした山塊が見る者を圧するように迫って来る。これが備後宮氏の居城として有名な亀寿山城跡である。駅前の道路をそのまま北に進み、府中街道を渡ってしばらく行くと左手に山頂への登り口がある。 当城は、近世以来、備後宮氏の惣領家の本拠として紹介されてきた。例えば、近世の代表的な地誌『福山志料』には、「備後古城記」を引用して、南北朝時代に活躍した宮下野守兼信がこの城に拠り、以後その子孫が居城し、戦国時代、毛利氏と戦って敗北した宮下野守入道に至ったとある。しかし、今日、宮氏についての研究が進むにつれ、この伝承には疑間が持たれるようになってきた。 その疑問の第一は、備後宮氏の惣領筋の家には、「下野守」を官途とする家(下野守家)と、「上野介」を名乗る家(上野介家)の二家があって、亀寿山城に拠ったとされる宮兼信の子孫は、「備後古城記」等が言う下野守家ではなく、上野介家であることである(『広島県史』通史編中世等)。では、兼信の後、城主が交代し下野守家の居城となったかと言えば、事はそんなに簡単ではない。下野守家の拠点としては後に紹介する「柏村」が史料に現れるのである。 この城に拠ったのが、下野守家か上野介家かの詮索は別にして、宮氏にとって当城が重要な位置を占めていたのは間違いない事実である。宮氏は、備後一の宮吉備津神社と密接なつながりを持っていたが、同神社は当城の北方ニキロに位置する。また、同氏が在庁官人の出身とすれば、当城の位置は、備後国府の喉元を押さえる位置を占めている。なお、備後宮氏は戦国時代中期の天文年間(一五三二~五五)、毛利氏の攻撃を受け滅亡するが、その後も毛利氏の支城として利用されたようで、「備後古城記」の言う古志氏の在城は毛利氏の城番としてのそれであろう。 また、『萩藩閥閲録』巻一〇四の湯浅権兵衛書出文書の中に、「外郡神持山要害」に関する大内氏年寄衆の連署状(一二九号文書)があるが、もしこの神持山(かみじやま)が当城のこととすれば、同文書は亀寿山城に関する唯一つの確実な史料と言うことになる。
(田口義之) 城跡の現状
城郭は、相方城郭の対岸に位置し、南の声田川と東の神谷川に挟まれた急峻な独立丘陵「通称亀寿山」全体を城砦化しているが遺構の残存状況は非常に悪い。一九八七~八年に亀寿山遺跡調査団によって遺構全体の縄張り図作成および主要遺構の測量調査(平板・航空)がおこなわれた。 調査の結果、南北八〇〇メートル、東西六〇〇メートルの範囲に遺構が分布し、西南東側は城域が明らかである。しかし、北側は中学校建設のために山麓部分の遺構は不明であり、土師質土器の散布地が隣接する桜山城跡まで繋がっていて北側の城域が明らかではない。 中心となる曲輪は標高一三九メートルの頂上部を幅六〇メートル、深さ一四メートルの自然地形を人口的に造作した大空堀と、その中央部に土橋を伴う幅五メートルの空堀によって東西二つの主郭群に分けられる。また、東の主郭群から北に向かって延びる尾根には北の主郭群と南東に向かって延びる尾根の先端には南東の曲輪群(御旅)がある。西の主郭群からは南に向かって延びる尾根が途中で二股に分れ、それぞれの先端部に曲輪群が確認された。また、西に向かって新市町と府中市の境界線上に曲輪群が確認され、北側の別所谷を取り囲むように尾根伝いに鳶尾山城に繋がっている。遺構は全山にわたり展開しているが、大きく分けて尾根先端部と中腹部そして頂上部に曲輪群をつくり、それぞれの谷部には土師質土器が出土していることから各谷には、居館もしくは城の入口に相当する施設があったものと考えられる。 亀寿山城跡は、政治的にも地域的にも境目にあり城域こそは大きいがそれぞれの曲輪群は小さくまとまっており、柏城跡と同じく小単位のグループでそれぞれの城域を防御するシステムになっていたと考えられる。亀寿山城跡は一つの城郭としてとらえるとともに、隣接する桜山城跡(国史跡)・鳶尾山城跡・吉備津神社(国史跡)を含めた城館跡群(仮称として一宮城跡)の一つとして、一宮城跡南側の防御施設であると考えたほうが説明しやすい。
(新市町立歴史民俗資料館 尾多賀晴悟)
【亀寿山城跡】 管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
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