備後宮氏の出自―宮氏は「なぜ」宮氏なのか―

備陽史探訪:185号」より

会長 田口 義之

先日、今回の講演(1)の準備をしながら「ふと」思いついたことがある。それは、なぜ「宮氏」なのかという疑問である。

中世の武士団は、「武」を職能とした集団であるとともに、その「在地性」も必要条件と言われている。単なる武装集団ではなく、在地領主として「土」に根付いた集団でなければならない。その在地性の象徴が「名字」であった。

とすると、備後の宮氏の場合、名字は何を表しているのであろうか。

この事の説明がはっきりなされていないからこそ、吉備津宮の「宮」の連想から、同社の「社家」出身といった誤った説明がなされるようになったのだと思う(2)。

宮氏と吉備津神社の関係が想定されるようになったのは、戦前の郷土史家の一連の研究である(3)。戦前、備後の郷土史家に架せられた大きな使命は、南朝の忠臣として顕彰された桜山四郎入道の出自の解明であった。だが、桜山四郎入道に関しては「太平記」以外、一切記録が無かった。かろうじて出典不明ながら「大日本史」に、その後継者と目される桜山左近将監が登場し(4)、永和年中(一三七五~七九)宮左近将監が吉備津宮を再興したという伝承があることから、この宮左近将監を桜山左近将監と同一人物と見なし、桜山氏は宮氏の一族という見方が生まれた。以後、初めに述べた「宮」氏と「お宮」との連想から宮氏を吉備津宮と結び付けようとする考えが益々強まり、今日に及んだ(5)。

しかし、実際のところ、中世武家としての宮氏と、吉備津宮の関連を想定される確実な資料は皆無と言っていいのが現実である。戦前の郷土史家が飛びついた「永和年中宮左近将監、吉備津宮再興」という伝承も、出所さえはっきりしないあやふやなもので、戦火で焼失した同宮は明徳三年(一三九二)備後守護細川頼長によって再建されたとするのが正しい(6)。これは吉備津宮が備後の一宮であるからには、守護がその外護にあたるのは当然のことで、以後此の伝統は天文九年(一五四〇)、「社務大願主」山名理興の銅鐘再鋳(7)、永禄八年(一五六五)の備後守護毛利氏による「備後一宮上棟」にまで及んでいる(8)。

宮氏と吉備津宮との関連は、社家有木氏を介してと説明されることも多いが、宮氏が被官とした有木藤左衛門尉、同民部丞が吉備津宮の神主であった確証はない(9)。

では、備後宮氏の名字の由来を語る史料がないのかといえば、そんなことはない。同時代史料にいくらでも見出せるのである。特に肖像画の賛文は注目される。それは像主の依頼を受けて叙述されるのが普通であるからである。

現在、宮氏の肖像画としては、県重文の宮景盛画像と、東京国立博物館蔵の宮盛直画像の二本が知られ、画像自体は消失しているが「徳雲寺記」に賛文のみが収められた宮政盛のそれが伝わっている(10)。宮景盛の画像賛では出自を単に「淡海公(藤原不比等)」の後裔とあるのみだが、政盛、盛直の画像賛文では、はっきりと宮氏は藤原(小野宮)実頼(清慎公)の子孫と明記されている。

宮盛直画像(東京国立博物館提供)
宮盛直画像(東京国立博物館提供)

藤原実頼(九〇〇~九七〇)は、藤原氏の嫡流関白忠平の長男で、父と同じく摂政関白を務め、弟師輔と共に村上天皇の天暦の治を支えた人物で、小野宮第に住んだことから小野宮殿と呼ばれた。本来、摂関家の嫡流を継ぐ人物であったが、入内させた娘から皇子が生まれず、弟の娘に皇子が誕生し、冷泉天皇となったことから、師輔の子孫に摂関家の嫡流が移り、実頼の系統は次第に衰えていった。実頼の子孫をその邸宅の名称を取って「小野宮家」或いは「小野宮流」という。この系統に歌人で有名な藤原公任、「三蹟」の一人藤原佐理等がいる。

宮氏が藤原姓であったことは他にも多くの例証があり、動かない。宮氏は藤原氏の中で邸宅名「小野宮」の「宮」を取って、名字とした中世武士団とすべきである。

にもかかわらず、備後一宮吉備津神社に関係してその出自が述べられるのは、やはり、先学の影響と、その本拠が吉備津神社の所在地宮内、新市(福山市新市町)周辺と考えられたためであろう。同時代史料を尊重するならば、宮氏は藤原氏の一族小野宮家の流れで、何らかの契機で備後に移住し、国人領主として発展した武士団と考えるべきである。

宮氏のそもそもの本拠地が備後南部の宮内一帯ではなく、備後北部の旧奴可郡(庄原市東部)であったことは、多くの証拠が残っている(11)。しかも、奴可を名字とした平家方の武将奴可入道西寂をその先祖とする伝承まで、室町時代に存在した(12)。戦国期も、この地域には宮氏の一族宮久代氏が本拠を置き、山内首藤、三吉、出雲の三沢氏と肩を並べる有力国人衆であったことは周知の事実である。

問題は、再び元の戻って「なぜ」宮氏なのかということである。広く備後・安芸の中世武士団を眺めて見ると、名字の地が別にある武士団と、備後・安芸の在名を名乗った武士団の二種類あることに気づく(あたり前だが)。毛利・吉川・小早川・山内首藤・平賀氏等が前者、杉原・三吉氏等が後者で、宮氏の場合は前者に入る。和智・江田・有地氏など備後の在名を名乗った有力武士はいるが、何れも庶子家で惣領家は広沢・宮氏など備後以外の在名を名字としている。

毛利氏や山内首藤氏が安芸、備後に移ってきたのは、吉田庄や地毘庄の地頭職を獲得し、それらの諸職を「一所懸命の地」として守り、勢力を拡大していったからに他ならない。宮氏の場合も同じことが考えられるのではあるまいか。もし、吉備津神社との結びつきが考えられるとしたら、同神社領の地頭職などが考えられよう。それよりも、「蔗軒日録」の筆者季弘大叔が記録したように(13)、小野宮流の下級貴族が摂関家九条家の奴(やっこ、被官を意味しよう)となり、同家の荘園奴可庄(保とも奴可東西とも呼ばれる)の預所、或いは下司となり、やがて土着して在地領主となった。こう考えたほうが良いだろう。宮氏が「なぜ」宮氏なのかは、毛利氏や山内首藤氏などのように、宮氏も他国から移ってきた武士団と考えれば解ける謎である。

宮氏の研究は、一度戦前からの呪縛から離れて、史料をありのままに見つめなおすことから出発すべきであろう。

【補注】
(1)七月二六日博物館で開催された特別講演会
(2)『新市町史』通史編第二章五節など
(3)濱本憲章「桜山四郎入道茲俊論考(一)『備後史談』第九巻四号など
(4)『大日本史』列伝桜山茲俊の条
(5)市川裕士「備後国人宮氏・一宮と室町幕府・守護」『日本歴史』七八一号 二〇一三
(6)「水野記」寛永寺社記(『広島県史』近世資料編Ⅰ所収) 
(7)『福山志料」品治郡宮内村など
(8)『萩藩閥閲録』八四
(9)『広島県史』古代中世資料編Ⅳ所収「尾多賀文書」、有木氏には吉備津神社の社家であった家と、神石郡有木郷を本拠とした国人有木氏があり、社家有木氏についてはほとんど分っていない。
(10)『広島県史』古代中世資料編Ⅳ
(11)宮氏の氏寺徳雲寺、千手寺はこの地にあり、宮氏は「奴可保」の地頭であった(『大覚寺文書』一八二三)
(12)『蔗軒日録』文明一八年四月二七日の条
(13)補注(12)参照

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