尾道北部の道しるべ
「備陽史探訪:185号」より
岡田 宏一郎
備後の道を歩く2
福山市内でも道標(道しるべ)をよく見かける。興味があるから見かけたら観察することを心がけているが尾道北部地域の道標は「栗原町」や「美ノ郷町三成や木頃」また「木ノ庄町」「原田町」などでも多く確認している。その道標には寄付者名が刻まれ、ほとんどが「尾道市長江町 奥本吉右衛門」となっているのに興味がわくのである。建立時期は「大正十年代」に集中している。だがこの奥本吉右衛門という人物について詳しいことはわかっていない。元は栗原に住んでいたとか、長江町で米屋を営んでいたとか、言うことは聞いているが正確で詳しいことは分からない。これから調べてみたい課題でもある。
今回はその奥本吉右衛門の建立による道標がどこにあるか確認した探訪記である。
まず美ノ郷町三成地域の道標であるが、旧尾道鉄道の車庫(現中国バス車庫)裏側の藤井川に架かっている柏木田橋のたもとに立っている。この道標には
山方薬師堂と指形で方向が示され、側面には
向 松永駅近道とある。反対側には
尾道市長江町 奥本吉右衛門 大正十年六月建立とあり、裏面に
発起人 栗原村 田中松太郎 美ノ郷村 迫亀吉と彫られている。
また白江地区の遊亀橋そばにもある。南面に
右 市村へ約八町近し 左 市村 甲山 大社道 寄附者 尾道市 奥本吉右衛門〈市村とは御調町市のことである〉とあり、東面に
左 尾道市 壱里二十五町 取次 白江青年會西面に
右 尾道市 壱里二十五町 大正十年三月建之とある。
三成下組と猪子迫との境には畑の中に倒されたままの道標が転がっている。これには
向テ右 今津松永方面
向テ左 猪子迫 西村 山方方面
寄附人 尾道市 奥本吉右衛門
大正十四年八月建 世話人 猪子迫青年團となっている。
山方地区には二基あるが一基は奥本吉右衛門が寄附者ではない。この道標は中組の荒神社下の四差路にあり
東 松永 西 木梨 南 尾道 北 府中
大正十五年六月 発起者 瀬塚伊太郎 寄附者 尾道市 岡千吉となっている。
もう一基は八幡氏宅裏の四差路にある。これには
東 高塚観音堂路 西 三成 経 尾道市 南 猪子迫 至 松永驛近道 北 梶山田とあり
大正十年十月 尾道市 奥本吉右衛門である。
残る一基は三成の養老温泉橋のたもとに放置されたまま倒れている。以前は武内氏の畑の中に放置されていたといわれ、設置されていた場所は不明であるということだった。この道標には
右 三原久井甲山近道 左 尾道吉和栗原道とあり
寄附者 尾道市 奥本吉右衛門
大正十二年三月となっている。
その他に行方不明の道標があるという。旧184号線の三成商店街の三差路にあったという。
鞆鉄バス松永三成線の終点でバスの方向転換に邪魔になるとして移されたといわれているがどこにあるのかわからず、地元では探していると言う。
さて木頃地区に行くと県道三原線の木頃小学校近くに道標がある。これも奥本吉右衛門による寄附で、これには南面に
向って 右 松永町へ貮里 左 三原町へ三里東面に
右 市村へ貮里 尾道市 五十甼とあり
大正十一年二月建之
寄附者 尾道市長江町 奥本吉右衛門と刻まれている。
木ノ庄町木門田の旧道から中野に抜ける山道の角に道標がある。東面に
向って 右ハ市村□(□は不明) 左ハ尾道□□(埋まっていて不明)南面には
大正十一年六月 世話人武太郎とあり、北面には
向って 右ハ 三原 尾道中野・深町とある。西面に
寄附者 尾道市長江町 奥本吉右衛門となっている。
さらに原田町の街道沿いの駐在所そばに辻堂と道標が並んでいる。それには
東村 西村道と指で方向が示され、側面に
尾道へ約二里 府中へ約二里とある。反対側に
発起者 清戸初次 取次者 下組青年會裏側には
大正十四年六月建之 尾道市奥本吉右衛門となっていた。
美ノ郷町三成の南の栗原町でも見ている。それが備後運動公園入り口前にある道標である。それには
左 中野大通寺道
右 本郷ヨリ出雲新道ニ至ルとあり、木頃本郷の村に行く道が示されている。寄附者は同じように
尾道市長江町 奥本吉右衛門建之となっており、年代は
大正十二年四月 栗原町青年團川上支部となっている。
このように尾道の北部の旧道や山道にある道標は「奥本吉右衛門」が寄附し建立したものである。奥本吉右衛門が建立した道標は37基ほどあると聞いているが、自分は全部については確認してはしていない。この道標は分かれ道に立ち、行き先の方向や距離を表示しているだけではないという。寺や神社など信仰やお参りのための案内道標としても建てられたのだろうか?という話を聞いているが道標の表示などの一部からそうしたことも考えられると思ったのである。
(引用 「三成の行方不明の道標については三訪会会報69号より」 山方地区の道標は現地で確認していないので「三訪会ふるさとシリーズ 史跡編」からの引用)
https://bingo-history.net/archives/18592https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/09/176d733a14ed481293b098a8393aa4c3.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/09/176d733a14ed481293b098a8393aa4c3-150x100.jpg近世近代史「備陽史探訪:185号」より 岡田 宏一郎 備後の道を歩く2 福山市内でも道標(道しるべ)をよく見かける。興味があるから見かけたら観察することを心がけているが尾道北部地域の道標は「栗原町」や「美ノ郷町三成や木頃」また「木ノ庄町」「原田町」などでも多く確認している。その道標には寄付者名が刻まれ、ほとんどが「尾道市長江町 奥本吉右衛門」となっているのに興味がわくのである。建立時期は「大正十年代」に集中している。だがこの奥本吉右衛門という人物について詳しいことはわかっていない。元は栗原に住んでいたとか、長江町で米屋を営んでいたとか、言うことは聞いているが正確で詳しいことは分からない。これから調べてみたい課題でもある。 今回はその奥本吉右衛門の建立による道標がどこにあるか確認した探訪記である。 まず美ノ郷町三成地域の道標であるが、旧尾道鉄道の車庫(現中国バス車庫)裏側の藤井川に架かっている柏木田橋のたもとに立っている。この道標には山方薬師堂と指形で方向が示され、側面には向 松永駅近道とある。反対側には尾道市長江町 奥本吉右衛門 大正十年六月建立とあり、裏面に発起人 栗原村 田中松太郎 美ノ郷村 迫亀吉と彫られている。 また白江地区の遊亀橋そばにもある。南面に右 市村へ約八町近し 左 市村 甲山 大社道 寄附者 尾道市 奥本吉右衛門〈市村とは御調町市のことである〉とあり、東面に左 尾道市 壱里二十五町 取次 白江青年會西面に右 尾道市 壱里二十五町 大正十年三月建之とある。 三成下組と猪子迫との境には畑の中に倒されたままの道標が転がっている。これには向テ右 今津松永方面向テ左 猪子迫 西村 山方方面寄附人 尾道市 奥本吉右衛門大正十四年八月建 世話人 猪子迫青年團となっている。 山方地区には二基あるが一基は奥本吉右衛門が寄附者ではない。この道標は中組の荒神社下の四差路にあり東 松永 西 木梨 南 尾道 北 府中大正十五年六月 発起者 瀬塚伊太郎 寄附者 尾道市 岡千吉となっている。 もう一基は八幡氏宅裏の四差路にある。これには東 高塚観音堂路 西 三成 経 尾道市 南 猪子迫 至 松永驛近道 北 梶山田とあり大正十年十月 尾道市 奥本吉右衛門である。 残る一基は三成の養老温泉橋のたもとに放置されたまま倒れている。以前は武内氏の畑の中に放置されていたといわれ、設置されていた場所は不明であるということだった。この道標には右 三原久井甲山近道 左 尾道吉和栗原道とあり寄附者 尾道市 奥本吉右衛門大正十二年三月となっている。 その他に行方不明の道標があるという。旧184号線の三成商店街の三差路にあったという。 鞆鉄バス松永三成線の終点でバスの方向転換に邪魔になるとして移されたといわれているがどこにあるのかわからず、地元では探していると言う。 さて木頃地区に行くと県道三原線の木頃小学校近くに道標がある。これも奥本吉右衛門による寄附で、これには南面に向って 右 松永町へ貮里 左 三原町へ三里東面に右 市村へ貮里 尾道市 五十甼とあり大正十一年二月建之寄附者 尾道市長江町 奥本吉右衛門と刻まれている。 木ノ庄町木門田の旧道から中野に抜ける山道の角に道標がある。東面に向って 右ハ市村□(□は不明) 左ハ尾道□□(埋まっていて不明)南面には大正十一年六月 世話人武太郎とあり、北面には向って 右ハ 三原 尾道中野・深町とある。西面に寄附者 尾道市長江町 奥本吉右衛門となっている。 さらに原田町の街道沿いの駐在所そばに辻堂と道標が並んでいる。それには東村 西村道と指で方向が示され、側面に尾道へ約二里 府中へ約二里とある。反対側に発起者 清戸初次 取次者 下組青年會裏側には大正十四年六月建之 尾道市奥本吉右衛門となっていた。 美ノ郷町三成の南の栗原町でも見ている。それが備後運動公園入り口前にある道標である。それには左 中野大通寺道右 本郷ヨリ出雲新道ニ至ルとあり、木頃本郷の村に行く道が示されている。寄附者は同じように尾道市長江町 奥本吉右衛門建之となっており、年代は大正十二年四月 栗原町青年團川上支部となっている。 このように尾道の北部の旧道や山道にある道標は「奥本吉右衛門」が寄附し建立したものである。奥本吉右衛門が建立した道標は37基ほどあると聞いているが、自分は全部については確認してはしていない。この道標は分かれ道に立ち、行き先の方向や距離を表示しているだけではないという。寺や神社など信仰やお参りのための案内道標としても建てられたのだろうか?という話を聞いているが道標の表示などの一部からそうしたことも考えられると思ったのである。 (引用 「三成の行方不明の道標については三訪会会報69号より」 山方地区の道標は現地で確認していないので「三訪会ふるさとシリーズ 史跡編」からの引用)管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
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