ある山城の譜( 利鎌山城・福山市芦田町福田)

備陽史探訪:64号」より

松岡 正

文治元年(一一八五)鎌倉幕府は全国に守護地頭制をしいた。それは、それ迄続いた荘園制度崩壊の第一歩である。備後の守護は土肥実平であり、備後北部に地頭として大田荘(世羅郡甲山町)に三善氏、三谷郡十二郷(三次市)に広沢氏、地毗荘(庄原市)に山内首藤氏らが入ってきた。史家はこれを東国武士の西遷と呼び、歴史の時代は古代から中世へと転換していく。

しかし、備後南部にはその数年前、寿永元年(一一八二)に芦田川川南六郷(永谷・福田・有地・杵磨・栗柄・土生)を束ねる藤原光雅という武将がいた。彼の出目は遠州(静岡県浜松地方)であるという。光雅は戸釜山(福山市芦田町福田の福相小学校東側の小山)に居城をもった。

そして、六郷に従臣を配する。

有地に後藤康経が一二〇〇年宇山城
相方に内田藤郷が一一九七年相方城
杵磨に菅原光斉が一一九四年滑山城
栗柄に徳毛家忠が一一九七年徳毛城
土生に杉本信長が一一九七年淵上城

をそれぞれ築いて入城した。

福田・永谷は直轄地とし、光雅は一一九六年に市原(福田村亀山八幡神社の南の比高一二〇mの山頂)に城を築いて戸釜山城から移った。新城を利鎌山城と命名し、姓を「福田」と改姓する。(注①)

私は藤原光雅を福田荘(注②)の荘官(荘園領主の代理となって、現地で荘園を経営する役人)ではなかったかと考えている。そして、ここでいう城は戦国期の土塁・曲輪・堀切りなどの防御構築を持った山城ではなく、山頂を小範囲に削り、柵をめぐらす程度のもので、家臣の築いた城々も山頂に物見台をもうけた位ではなかったかと想像する。また、荘官・地頭たちが荘園を蚕食して自領化とするには永い年月を経ていることは日本通史の示すところで、その問題には触れない。

利鎌山城主は

福田光雅―光治―光宗―光清―光基―光季

と六代続く。六代城主光季のとき、元弘元年(一三三一)楠木正成が河内国赤坂城(大阪府中河内郡)で挙兵する。備後も桜山城(芦品郡新市町宮内)主桜山茲俊がそれに呼応して、備後国内の武士はその動乱にまきこまれるが、そのなかに福田光季は動いた様子はない。(注③)利鎌山城は辺地にあって、孤高・中立を保っていたのかも知れない。

しかし、中央の情勢は大きく変わっていく。

一三三三年 鎌倉幕府滅亡
一三三四年 建武の中興
一三三五年 足利尊氏反する。
一三三六年 尊氏は官軍に敗れて西走する。

少数の尊氏は北九州の多多良浜で九州勢と戦い、奇跡の勝利を得て再度、東上する。尊氏は海路を、弟の直義は陸路をとり、途上の城々を攻めおとした。

この年、つまり建武三年利鎌山城は足利直義勢に攻められ落城した。六代城主 福田従八位遠江守光季は城内で自害し、一族四散、城は空城になった。

利鎌山城の興亡は、鎌倉幕府の興亡と期を一にしている。

福田氏の菩提寺であった福田寺(福田保育所東の山上)は、慶長三年(一五九八)に出火があり一山焼尽して廃寺になり、この地の旧小字名を「福田地」として名残りを止めている。この所に「日切地蔵」と言って土地の人々の信仰を集めている地蔵があるが、その周辺には無数の無縁墓がある。このなかの数ある五輪塔に福田氏一族の霊が眠っていると言われている。

観応二年(一三五一)「足利尊氏方に荷担し、勲功があった」として足利義詮から旧松永市本郷町に在城していた杉原信平(注④)に福田庄が与えられる。しかし、杉原氏は高州(尾道市高須町)地頭職を同時に与えられたので利鎌山城へ入った記録はない。

延文元年(一三五六)に福田庄地頭職を与えられた岡田盛次が利鎌山城へ入城してくる。(注⑤)

岡田盛次は遠江国山名郡の人であったという。盛次は「建武以来に戦功があったとして、福田庄五千貫の地頭職を与える」という感状を受けている。宛名は岡田盛次と岡田信次の兄弟名である。兄盛次は重明と改名して第二期初代利鎌山城主になり、弟信次は高須村、関屋城へ移った。

岡田氏城主は

岡田盛次―盛長―盛政―盛延―盛春―久重―盛清―盛雅

と八代続く。各城主の没年次から見ると、応仁の乱の鎮まった文明九年は四代盛延の頃であり、亀寿山城(新市町新市)宮氏が減びた天文三年(一五三四)は八代盛雅の時である。

宮氏が滅びたあと、宮氏から分流した有地氏(芦田町下有地の大谷城に拠って一時、大谷姓を名乗り、のち、本文の冒頭で記した相方城に移る)が台頭して隣地を侵食する。

弘治三年(一五五七)利鎌山城は有地隆信の攻撃を受けて落城した。八代城主 岡田遠江守盛雅は討死し、一族の多くは高須村関屋城へ落ちていった。落城には、戦い上手の有地隆信につられて盛雅勢は出撃する。城内が手薄になったとき裏門から隆信の子、元盛が攻めこんだ。城内の大部分は婦女子で、盛雅の正室「蓮の前」は腰元を督励し自らは男装して薙刀をもって元盛と戦い防戦したという悲話を残している。

岡田氏の末孫三十八代目といわれる芦田町市原の岡田家は昭和二十六年火災にあい、長持ち十数個に収められていた古文書は焼きただれ、いにしえをたどる道はない。

山麓の亀山八幡神社にはこんな伝承が語られている。ある利鎌山城主が神社造営のとき、鎮座の地を天意に求めて空に向かって矢を放った。その落下地点が甲目山であり、その名をとって亀山(甲目山)八幡神社とし、崇敬したという。

有地氏は領有した利鎌山城には、「舎弟を控置者也」として一族の者を城番においた。

時代は分立から統合に向かっている。有地氏は安芸毛利氏へ、そして天下は豊臣秀吉によって統一されていく。天正十七年(一五八九)秀吉による「山城破却令」が発せられ、中世初期から続いた利鎌山城も終焉をつげる。時代は中世から近世へと転換していくのである。

広島県内の山城跡は約千三百ヵ所、福山市内では約五十ヵ所あると言う。その多くの城主は興亡流転した。その中で中世の四百年の間、福田氏・岡田氏・有地氏と三期領主が変わったが、その城主の血脈を利鎌山城のように伝えられるものは数少ないであろう。

後記

この小論は大部分を芦田町下有地の内田重徳先生著『松籟』『芦田町散策』に拠っている。長年にわたって研究された先生の郷土史発表の内容紹介といってもよい。ただ、一部には私見によって変更・付記したものもあり、この小論に見出されるかも知れない誤謬についてはご指導願いたい。

内田先生は寛永二十年(一六四三)再改編『備後古城系譜記』(尾道市浄土寺蔵、以下浄土寺本と略記する)に拠っておられる。従って浄土寺本の正鵠が問われるであろう。

明治二十四、府中―栗柄―杵磨―本郷―松永を通る県道開通工事があった。杵磨の滑川峰山城(本文の冒頭の記事で滑山城と記しているのと同一の城)の中腹を掘っていたとき深さ三mの土中から石棺が出てきた。中には石灰詰めにした一体の人骨で、石蓋に「明徳三年二月四日卒す。徳田信濃守綱朝」との墨書があった。浄土寺本によれば湯舟城(鈴木山入舟城)の第二期二代城主名として「徳田信濃守綱朝 明徳三年(一三九八)三月四日卒去す」があり、全く一致する。(注⑥)

従って、内田先生はこの本を重視されている。私も『西備名区』(一八〇四年刊)の著者が、浄土寺本を目に通していたらその記述内容の一部が変わっていたろうと思う。しかし、尾道浄土寺は芸州藩領内であった。

  • ①同時期(一二〇二年)に対岸の府中に八尾山城(出口町)が杉原光平によって築かれている。(『日本城郭大系13』)
  • ②福田荘は一二一三年頃には青連院(比叡山の天台座主の住房。京都市東山区)門跡相伝房領であった。
  • ③桜山茲俊の記録には『桜山朝臣詳伝』得能正通著、『小説さくら山』片岡修身著がある。
  • ④杉原信平については、田口会長著『備後の武将と山城』(芦田川文庫)六四頁にその名が見える。この頃は、いわゆる「観応の擾乱」と呼ばれる時期であり、再読をお勧めする。
  • ⑤城主岡田氏の記録は、尾道市原田町梶山田に住まれる岡田城主の末孫といわれる方の古文書を整理された駅家町服部の岡田逸一先生著『岡田氏系譜』から引用する。ここを、丁寧に説明すると『松籟』(本文後記参照)には『浄土寺本古城記』と『岡田氏系譜』の二つを並記してあるが、私は後者を借用した。なお、年号は北朝方を用いている。
  • ⑥湯舟城は滑川峰山城より約千m松永側にある。「何故、湯舟城主の墓が滑川峰山城の山腹にあったのか」との疑間は残るが、内田先生は、この頃両城は本城と支城の関係にあったのではないかと推定されている。
https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/25.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/25-150x150.jpg管理人中世史「備陽史探訪:64号」より 松岡 正 文治元年(一一八五)鎌倉幕府は全国に守護地頭制をしいた。それは、それ迄続いた荘園制度崩壊の第一歩である。備後の守護は土肥実平であり、備後北部に地頭として大田荘(世羅郡甲山町)に三善氏、三谷郡十二郷(三次市)に広沢氏、地毗荘(庄原市)に山内首藤氏らが入ってきた。史家はこれを東国武士の西遷と呼び、歴史の時代は古代から中世へと転換していく。 しかし、備後南部にはその数年前、寿永元年(一一八二)に芦田川川南六郷(永谷・福田・有地・杵磨・栗柄・土生)を束ねる藤原光雅という武将がいた。彼の出目は遠州(静岡県浜松地方)であるという。光雅は戸釜山(福山市芦田町福田の福相小学校東側の小山)に居城をもった。 そして、六郷に従臣を配する。 有地に後藤康経が一二〇〇年宇山城 相方に内田藤郷が一一九七年相方城 杵磨に菅原光斉が一一九四年滑山城 栗柄に徳毛家忠が一一九七年徳毛城 土生に杉本信長が一一九七年淵上城 をそれぞれ築いて入城した。 福田・永谷は直轄地とし、光雅は一一九六年に市原(福田村亀山八幡神社の南の比高一二〇mの山頂)に城を築いて戸釜山城から移った。新城を利鎌山城と命名し、姓を「福田」と改姓する。(注①) 私は藤原光雅を福田荘(注②)の荘官(荘園領主の代理となって、現地で荘園を経営する役人)ではなかったかと考えている。そして、ここでいう城は戦国期の土塁・曲輪・堀切りなどの防御構築を持った山城ではなく、山頂を小範囲に削り、柵をめぐらす程度のもので、家臣の築いた城々も山頂に物見台をもうけた位ではなかったかと想像する。また、荘官・地頭たちが荘園を蚕食して自領化とするには永い年月を経ていることは日本通史の示すところで、その問題には触れない。 利鎌山城主は 福田光雅―光治―光宗―光清―光基―光季 と六代続く。六代城主光季のとき、元弘元年(一三三一)楠木正成が河内国赤坂城(大阪府中河内郡)で挙兵する。備後も桜山城(芦品郡新市町宮内)主桜山茲俊がそれに呼応して、備後国内の武士はその動乱にまきこまれるが、そのなかに福田光季は動いた様子はない。(注③)利鎌山城は辺地にあって、孤高・中立を保っていたのかも知れない。 しかし、中央の情勢は大きく変わっていく。 一三三三年 鎌倉幕府滅亡 一三三四年 建武の中興 一三三五年 足利尊氏反する。 一三三六年 尊氏は官軍に敗れて西走する。 少数の尊氏は北九州の多多良浜で九州勢と戦い、奇跡の勝利を得て再度、東上する。尊氏は海路を、弟の直義は陸路をとり、途上の城々を攻めおとした。 この年、つまり建武三年利鎌山城は足利直義勢に攻められ落城した。六代城主 福田従八位遠江守光季は城内で自害し、一族四散、城は空城になった。 利鎌山城の興亡は、鎌倉幕府の興亡と期を一にしている。 福田氏の菩提寺であった福田寺(福田保育所東の山上)は、慶長三年(一五九八)に出火があり一山焼尽して廃寺になり、この地の旧小字名を「福田地」として名残りを止めている。この所に「日切地蔵」と言って土地の人々の信仰を集めている地蔵があるが、その周辺には無数の無縁墓がある。このなかの数ある五輪塔に福田氏一族の霊が眠っていると言われている。 観応二年(一三五一)「足利尊氏方に荷担し、勲功があった」として足利義詮から旧松永市本郷町に在城していた杉原信平(注④)に福田庄が与えられる。しかし、杉原氏は高州(尾道市高須町)地頭職を同時に与えられたので利鎌山城へ入った記録はない。 延文元年(一三五六)に福田庄地頭職を与えられた岡田盛次が利鎌山城へ入城してくる。(注⑤) 岡田盛次は遠江国山名郡の人であったという。盛次は「建武以来に戦功があったとして、福田庄五千貫の地頭職を与える」という感状を受けている。宛名は岡田盛次と岡田信次の兄弟名である。兄盛次は重明と改名して第二期初代利鎌山城主になり、弟信次は高須村、関屋城へ移った。 岡田氏城主は 岡田盛次―盛長―盛政―盛延―盛春―久重―盛清―盛雅 と八代続く。各城主の没年次から見ると、応仁の乱の鎮まった文明九年は四代盛延の頃であり、亀寿山城(新市町新市)宮氏が減びた天文三年(一五三四)は八代盛雅の時である。 宮氏が滅びたあと、宮氏から分流した有地氏(芦田町下有地の大谷城に拠って一時、大谷姓を名乗り、のち、本文の冒頭で記した相方城に移る)が台頭して隣地を侵食する。 弘治三年(一五五七)利鎌山城は有地隆信の攻撃を受けて落城した。八代城主 岡田遠江守盛雅は討死し、一族の多くは高須村関屋城へ落ちていった。落城には、戦い上手の有地隆信につられて盛雅勢は出撃する。城内が手薄になったとき裏門から隆信の子、元盛が攻めこんだ。城内の大部分は婦女子で、盛雅の正室「蓮の前」は腰元を督励し自らは男装して薙刀をもって元盛と戦い防戦したという悲話を残している。 岡田氏の末孫三十八代目といわれる芦田町市原の岡田家は昭和二十六年火災にあい、長持ち十数個に収められていた古文書は焼きただれ、いにしえをたどる道はない。 山麓の亀山八幡神社にはこんな伝承が語られている。ある利鎌山城主が神社造営のとき、鎮座の地を天意に求めて空に向かって矢を放った。その落下地点が甲目山であり、その名をとって亀山(甲目山)八幡神社とし、崇敬したという。 有地氏は領有した利鎌山城には、「舎弟を控置者也」として一族の者を城番においた。 時代は分立から統合に向かっている。有地氏は安芸毛利氏へ、そして天下は豊臣秀吉によって統一されていく。天正十七年(一五八九)秀吉による「山城破却令」が発せられ、中世初期から続いた利鎌山城も終焉をつげる。時代は中世から近世へと転換していくのである。 広島県内の山城跡は約千三百ヵ所、福山市内では約五十ヵ所あると言う。その多くの城主は興亡流転した。その中で中世の四百年の間、福田氏・岡田氏・有地氏と三期領主が変わったが、その城主の血脈を利鎌山城のように伝えられるものは数少ないであろう。 後記 この小論は大部分を芦田町下有地の内田重徳先生著『松籟』『芦田町散策』に拠っている。長年にわたって研究された先生の郷土史発表の内容紹介といってもよい。ただ、一部には私見によって変更・付記したものもあり、この小論に見出されるかも知れない誤謬についてはご指導願いたい。 内田先生は寛永二十年(一六四三)再改編『備後古城系譜記』(尾道市浄土寺蔵、以下浄土寺本と略記する)に拠っておられる。従って浄土寺本の正鵠が問われるであろう。 明治二十四、府中―栗柄―杵磨―本郷―松永を通る県道開通工事があった。杵磨の滑川峰山城(本文の冒頭の記事で滑山城と記しているのと同一の城)の中腹を掘っていたとき深さ三mの土中から石棺が出てきた。中には石灰詰めにした一体の人骨で、石蓋に「明徳三年二月四日卒す。徳田信濃守綱朝」との墨書があった。浄土寺本によれば湯舟城(鈴木山入舟城)の第二期二代城主名として「徳田信濃守綱朝 明徳三年(一三九八)三月四日卒去す」があり、全く一致する。(注⑥) 従って、内田先生はこの本を重視されている。私も『西備名区』(一八〇四年刊)の著者が、浄土寺本を目に通していたらその記述内容の一部が変わっていたろうと思う。しかし、尾道浄土寺は芸州藩領内であった。 注 ①同時期(一二〇二年)に対岸の府中に八尾山城(出口町)が杉原光平によって築かれている。(『日本城郭大系13』) ②福田荘は一二一三年頃には青連院(比叡山の天台座主の住房。京都市東山区)門跡相伝房領であった。 ③桜山茲俊の記録には『桜山朝臣詳伝』得能正通著、『小説さくら山』片岡修身著がある。 ④杉原信平については、田口会長著『備後の武将と山城』(芦田川文庫)六四頁にその名が見える。この頃は、いわゆる「観応の擾乱」と呼ばれる時期であり、再読をお勧めする。 ⑤城主岡田氏の記録は、尾道市原田町梶山田に住まれる岡田城主の末孫といわれる方の古文書を整理された駅家町服部の岡田逸一先生著『岡田氏系譜』から引用する。ここを、丁寧に説明すると『松籟』(本文後記参照)には『浄土寺本古城記』と『岡田氏系譜』の二つを並記してあるが、私は後者を借用した。なお、年号は北朝方を用いている。 ⑥湯舟城は滑川峰山城より約千m松永側にある。「何故、湯舟城主の墓が滑川峰山城の山腹にあったのか」との疑間は残るが、内田先生は、この頃両城は本城と支城の関係にあったのではないかと推定されている。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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