「備陽史探訪:171号」より
種本 実
鶴ヶ橋について西備名區には、
此橋、南北にて四方へ分る。東は上方道、南は福山道、千田村なり。向ふは中津原にて、橋の北方より西に山陽道通す。北は石州、雲州路なり
と、この地が交通の要所であったことを記しているが、現在も同様である。橋の傍に「出雲大社道」の石碑が二本立っている。古い方の碑は二十数年前に運送業者のトラックがぶつかってヒビが入ったので、業者が独断で新しく建てたものである。文久三年の年号と「八雲琴當領社 世話山崎屋」とある。
また橋の名前の由来についての西備名區の記述では、
古へ日本武尊西征の後、穴の湾にて悪神を誅し給ふに、武倍山の御陣にて鵜(鶴にはあらぎるか)の瑞あり、彼導によって此處を渡り、東より北に渡りて悪神を誅し給う處を、鶴の墓と云う事は、其の處にて勝軍ありしとて名とせり
とある。昭和四十七年に当地に移転した盈進学園が建つ峠山に鎮座する岩大明神は、前述の由来をもとにして、日本武尊の武勇を崇拝して創建したといい、近くには尊の腰掛岩といわれる岩がある。
往古、この付近が沼地であったころから鶴が飛来していたとの伝承は、人口に膾炙されていて、踏切の傍のナマコ壁の商家には鶴の鏝絵が見られる。
江戸時代、高屋川に橋が未だない頃には渡し舟があって、旅人の休息場所の四ッ堂があり、尼が世話をしていたという。そのお堂が、鶴ヶ橋より一つ北側の踏切の向かいあたりにあった、一松院という寺の前身であると伝わる。江戸時代には付近に高札が立っていた。当寺は観音さんとして親しまれ、夏の盆踊りには、橋向こうの新茶屋や中津原からも大勢の人々が集まって、道端には露店が立ち並んで、たいそう賑やかであったという。道路の改修などで、今は周囲の民家と共に移転して当時の面影はない。
「出雲大社道」の石碑の背後には、日露戦争の凱旋碑が見える。もとは橋の傍にあって、現在の橋が起工される際に、前述の「出雲大社道」の碑と共に現在の場所に移転したという。
昭和五年十一月十四日に正戸山を望む平野で行われた陸軍大演習の際には、鶴ヶ橋の傍の某家の三階に参謀本部が置かれていた。昭和天皇が演習の統帥を終えて、正戸山からの帰途は往路とは異なり、横尾駅までは乗馬であった。日露戦争の凱旋碑の前では立ち止まって敬礼されて、何か下問された。それは当日の予定になかったことだったようで、参謀長は疾風のように二階から駆け下りて、天皇の下へ馳せ参じたという。
天皇が乗馬で向かった横尾の沿道の家屋の前は見苦しくないようにと、幕が張られ、町民は、家の前で地面にひれ伏してお通りを過ごした。某氏の思い出では、上目づかいに瞼に残ったお姿は、かぶっておられた帽子は、頂に毛がついていたのが印象に残っているという。
この時天皇の御休憩所である「御野立所」が、橋の袂と横尾の駅前に設けられた。今、横尾の駅前には行幸の記念碑と胡神社が建っている。胡神社は、以前は今の橋の袂付近にあった。昭和八年九月に両備鉄道が国鉄に買収され、軌道の拡幅に備えて現在の場所に移転した。かつて横尾には金融業も営んでいた豪商をはじめ、豊かな商人がひしめいていたので、商売繁盛を祈願して胡神社を勧請したのであろう。
交通渋滞の要因の一つだった踏切は平成元年に廃止となり、交叉点の一帯は道路が拡幅されて、現在の列車感知式信号機に変わった。かつて、踏切番は近くに家族と住む家があったが、両備鉄道の踏切番の家には風呂はなかったので、近くの某家は好意で家に招いていた。大正十四年生まれの当家のご主人は、当時を回想されて、夜、「お世話になり申す」と言いながら、玄関を開ける踏切番の声を今でも覚えているという。
当地に伝承されている穴の海や鶴の飛来、それに芦田川と高屋川の川筋の幾多の変遷等々、そんな悠久の歴史をみつめる峠山には、今日も豊かな草木がたなびいている。
※この拙文を綴るにあたっては、横尾の皆様から貴重なお話を拝聴しました。篤く御礼申し上げます。
【鶴ヶ橋】
https://bingo-history.net/archives/12736https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/80dd960a1e6c1a581eb193294fd9c4fd.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/80dd960a1e6c1a581eb193294fd9c4fd-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:171号」より
種本 実
連載「川筋を訪ねて」【その二】 鶴ヶ橋について西備名區には、 此橋、南北にて四方へ分る。東は上方道、南は福山道、千田村なり。向ふは中津原にて、橋の北方より西に山陽道通す。北は石州、雲州路なり と、この地が交通の要所であったことを記しているが、現在も同様である。橋の傍に「出雲大社道」の石碑が二本立っている。古い方の碑は二十数年前に運送業者のトラックがぶつかってヒビが入ったので、業者が独断で新しく建てたものである。文久三年の年号と「八雲琴當領社 世話山崎屋」とある。 また橋の名前の由来についての西備名區の記述では、 古へ日本武尊西征の後、穴の湾にて悪神を誅し給ふに、武倍山の御陣にて鵜(鶴にはあらぎるか)の瑞あり、彼導によって此處を渡り、東より北に渡りて悪神を誅し給う處を、鶴の墓と云う事は、其の處にて勝軍ありしとて名とせり とある。昭和四十七年に当地に移転した盈進学園が建つ峠山に鎮座する岩大明神は、前述の由来をもとにして、日本武尊の武勇を崇拝して創建したといい、近くには尊の腰掛岩といわれる岩がある。 往古、この付近が沼地であったころから鶴が飛来していたとの伝承は、人口に膾炙されていて、踏切の傍のナマコ壁の商家には鶴の鏝絵が見られる。 江戸時代、高屋川に橋が未だない頃には渡し舟があって、旅人の休息場所の四ッ堂があり、尼が世話をしていたという。そのお堂が、鶴ヶ橋より一つ北側の踏切の向かいあたりにあった、一松院という寺の前身であると伝わる。江戸時代には付近に高札が立っていた。当寺は観音さんとして親しまれ、夏の盆踊りには、橋向こうの新茶屋や中津原からも大勢の人々が集まって、道端には露店が立ち並んで、たいそう賑やかであったという。道路の改修などで、今は周囲の民家と共に移転して当時の面影はない。 「出雲大社道」の石碑の背後には、日露戦争の凱旋碑が見える。もとは橋の傍にあって、現在の橋が起工される際に、前述の「出雲大社道」の碑と共に現在の場所に移転したという。 昭和五年十一月十四日に正戸山を望む平野で行われた陸軍大演習の際には、鶴ヶ橋の傍の某家の三階に参謀本部が置かれていた。昭和天皇が演習の統帥を終えて、正戸山からの帰途は往路とは異なり、横尾駅までは乗馬であった。日露戦争の凱旋碑の前では立ち止まって敬礼されて、何か下問された。それは当日の予定になかったことだったようで、参謀長は疾風のように二階から駆け下りて、天皇の下へ馳せ参じたという。 天皇が乗馬で向かった横尾の沿道の家屋の前は見苦しくないようにと、幕が張られ、町民は、家の前で地面にひれ伏してお通りを過ごした。某氏の思い出では、上目づかいに瞼に残ったお姿は、かぶっておられた帽子は、頂に毛がついていたのが印象に残っているという。 この時天皇の御休憩所である「御野立所」が、橋の袂と横尾の駅前に設けられた。今、横尾の駅前には行幸の記念碑と胡神社が建っている。胡神社は、以前は今の橋の袂付近にあった。昭和八年九月に両備鉄道が国鉄に買収され、軌道の拡幅に備えて現在の場所に移転した。かつて横尾には金融業も営んでいた豪商をはじめ、豊かな商人がひしめいていたので、商売繁盛を祈願して胡神社を勧請したのであろう。 交通渋滞の要因の一つだった踏切は平成元年に廃止となり、交叉点の一帯は道路が拡幅されて、現在の列車感知式信号機に変わった。かつて、踏切番は近くに家族と住む家があったが、両備鉄道の踏切番の家には風呂はなかったので、近くの某家は好意で家に招いていた。大正十四年生まれの当家のご主人は、当時を回想されて、夜、「お世話になり申す」と言いながら、玄関を開ける踏切番の声を今でも覚えているという。 当地に伝承されている穴の海や鶴の飛来、それに芦田川と高屋川の川筋の幾多の変遷等々、そんな悠久の歴史をみつめる峠山には、今日も豊かな草木がたなびいている。 ※この拙文を綴るにあたっては、横尾の皆様から貴重なお話を拝聴しました。篤く御礼申し上げます。 【鶴ヶ橋】管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
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