2015年5月23日発行
正保城絵図(備後国福山)
正保城絵図は、正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図で、城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれているほか、城下の町割・山川の位置・形が詳細に載されている。各藩は幕府の命を受けてから数年で絵図を提出し、幕府はこれを早くから紅葉山文庫に収蔵した。
折り畳んだ表面の中央に「備後国/福山城絵圖」、左下隅に「水野美作守」の墨書があり、左上隅に朱筆で「百二十四」と記されている(総数は157鋪-幕末には131鋪残存-であったと言われている)。
図の大きさは、東西二米四十糎・南北二米八糎で、南西隅に「備後國福山/水野美作守居城」と墨書されている。本図にみえる「水野美作守」は水野勝俊で、寛永16(1639)年に襲封、明暦元(1655)年に没している。(国立公文書館説明より)…
<目次>
- 正保城絵図と今日のルート
- 正保期城下町と現在の地図との重ね合わせ
- 内堤西部詳細
- 内堤中央部詳細
- 内堤東部詳細
- 外堤東部詳細
- 外堤中央部詳細
- 外堤西部詳細
- 水野期末城下町と現在の地図との重ね合わせ
https://bingo-history.net/archives/18211https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/08/4336b451e94efc62fe3ebdaf2a85ddfc.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/08/4336b451e94efc62fe3ebdaf2a85ddfc-150x100.jpg管理人デジタルライブラリー2015年5月23日発行 正保城絵図(備後国福山) 正保城絵図は、正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図で、城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれているほか、城下の町割・山川の位置・形が詳細に載されている。各藩は幕府の命を受けてから数年で絵図を提出し、幕府はこれを早くから紅葉山文庫に収蔵した。
折り畳んだ表面の中央に「備後国/福山城絵圖」、左下隅に「水野美作守」の墨書があり、左上隅に朱筆で「百二十四」と記されている(総数は157鋪-幕末には131鋪残存-であったと言われている)。
図の大きさは、東西二米四十糎・南北二米八糎で、南西隅に「備後國福山/水野美作守居城」と墨書されている。本図にみえる「水野美作守」は水野勝俊で、寛永16(1639)年に襲封、明暦元(1655)年に没している。(国立公文書館説明より)… <目次> 正保城絵図と今日のルート
正保期城下町と現在の地図との重ね合わせ
内堤西部詳細
内堤中央部詳細
内堤東部詳細
外堤東部詳細
外堤中央部詳細
外堤西部詳細
水野期末城下町と現在の地図との重ね合わせ 正保城絵図に描かれた城下町南を歩く管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会