備後の神嶋村伝説1(万葉の神嶋は備後にあったか?)

備陽史探訪:158号」より

小林定市氏 遺稿

1、はじめに

神嶋村(福山市神島町)は、草戸村明王院の地先に繁栄した草戸千軒の西北約千mに位置した村で、現在までの通説では、(『万葉集』巻十三)の「備後國の神嶋の浜にして調使首屍を見て作る歌」があり、巻十五の遣新羅使一行の歌の中に

月読の 光を清み 神島の 磯間の浦ゆ 船出する我は

を拠り所として、備後神嶋は奈良時代からの有力な海上交通の湊であるとされてきた。

他方神嶋に関しては、備後だけでなく備中の神嶋(笠岡市南方)説もある。備中神嶋は備後神嶋より約十四km東方に立地した島で、二つの神嶋は何れが正統なのか決め手が見出されないまま現在に至っている。

古くは備中神嶋説が盛んとされてきたが、最近に至って備後神嶋説も有力視されるようになった。しかし、福山市側の神嶋村関係史料の調査は停滞したままで、問題解決が進展しない要因は、備後の史料考証不足と横車が濃厚となってきた。

備中・備後の神島問題の解決に向けて、次の史料(『延喜式』巻十・神祗)『備後國福山領高辻村々帳』(『水野記』十四)『小場家文書』『結城水野家文書』等、従来注目されなかった史料を新に加え、新視点から検討を進めたい。次に備後の古神嶋村説を最初に記載した『西備名区』も併せて検証材料に加えたい。

延長五年(九二七)に撰進された(『延喜式』巻十・神祗)には、当時の繁栄地に祀られていた全国の有力な神社が記録され、問題の神嶋も神嶋神社として記載されている。調査対象地域を備後の沼隈郡と備中の小田郡に絞り検討を進める。

沼隈郡には式内社が三座あり、高諸神社(福山市今津町)、沼名前神社(福山市鞆町)、比古佐須伎神社(福山市瀬戸町志田原)が記載されている。しかし、肝心な神嶋は沼隈には記載が無く、平安時代の初期には備後神嶋は存在しなかった。

次に備中國小田郡三座の中に神嶋神社(笠岡市神嶋)の記載があり、『延喜式』は古代の備中神嶋説を裏付ける恰好の史料であった。

平安時代前期頃の長和庄内(瀬戸町近辺)では、比古佐須伎神社が鎮座しており、長和庄では比古佐須伎神社が祭られている南部(瀬戸町志田原)が繁栄し、北部に当る神嶋地区の動向は明らかでない。

2、備後鹿嶋村の誕生

通説と異なり沼隈郡では、神嶋村に先行して鹿嶋の地名が記録されている。その後鹿嶋村から神嶋村に正式地名が変るのであるが、何の理由で鹿嶋村が消滅し、新に神嶋村に誕生したのか歴史の経緯は何も明らかにされていない。

先ず鹿嶋の初見史料は龍野の領主木下勝俊(一五六九~一六四九)が、天正二十年(一五九二)に書いた『九州の道の記』(『続紀行文集・続帝国文庫』発行元博文館)に、

其のかへさに知る人ありければ、鹿島と云ふ所に立寄りけり

と、備後を通った際鹿嶋に立寄ったと記載している。

『九州の道の記』は勝俊が文禄の役に肥前名護屋に下向する際、鹿嶋で装束を取寄せ鞠蹴りをして日暮れまで遊んだ時の紀行文である。

また異系統の写本(『九州のみちの記』「鶯宿雑記」)に、

其かへさ尓 志る人有介れハ、かしまといふ所尓立寄介り

と平仮名で「かしま」と書いた別系統の写本もある。

桃山時代になると、芦田川の中洲の小島(南北に細長く全長約二百m余りの山)に鹿嶋という地名が突如出現したのである。地名を必要とした事由は鹿嶋の城山の地に、真木嶋玄蕃頭昭光が在城したため地名の必要性が生まれたものと考えられる。

関ケ原の合戦後毛利氏が備後を去り、福嶋氏が領主になると領国の総検地が実施され、沼隈郡内の鹿嶋は鹿嶋村と村名が付けられた。重要な初見史料である鹿嶋村を記載した慶長検地帳は未だ発見されていない。

十八年後の元和五年(一六一九)八月、水野勝成が備後に入部した時幕府の使者から、「備後國福山領高辻村々帳」(『備陽六郡志』内篇巻二)を渡された。村々帳の中に「備後國沼隈郡鹿嶋村」と記載されており、備後には通説の神嶋村の存在を裏付ける史料は見当たらない。江戸時代最初の村名が鹿嶋村で、備後神嶋村の実在を証明できなかった。

備後神嶋村は万葉時代から存在したとする通説を、「備後國福山領高辻村々帳」は完全に否定した史料で、近世初頭に鹿嶋村が実在していたことを裏付ける一級史料でもある。

3、備中神之嶋村

元和五年の「備後國福山領高辻村々帳」は、備後の村々だけでなく水野領であった、備中國の所領「備中國小田郡神之嶋村」迄も記載していた。このように江戸時代初期の水野領には、備後の鹿嶋村と備中の神之嶋の両村が併記され、備後には神嶋村は存在せず備中にだけ実在していた。

前記の「福山領高辻村々帳」を注意して読むと、笠岡諸島の村は神之嶋村五百九十七石と眞鍋村五十六石の二カ村だけで、北木嶋村や白石嶋村の村名は見当たらず神之嶋村に含まれていた様である。

神之嶋村と鹿嶋村の村名の相違を注意して読むと、神之嶋村だけは村名の中に「之」の字が挿入された読みとなっている。神嶋村と村名の中に「之」の字を入れての読みは、明らかに古代からの地名を継承した読みで、備中神之嶋村が古代からの地名であったことの確証である。

4、福山城下鹿嶋町の町名変更

水野勝成は深津郡野上村の諸山常興寺山に福山城を築城した。城下町の繁栄を願って福山城より西方約二km先にある、沼隈郡の鹿嶋村より町人を招き福山城大手門前に土地を与えて商売をさせた。町人達は出身地鹿嶋村の村名に因んで鹿嶋町と云う町名を付け商売に励んでいた。

築城と城下町を完成させ一段落した水野勝成は、寛永十六年(一六三九)閏十一月に隠居し、二代目城主を嫡男の水野勝重に譲った。

江戸時代の初頭鹿嶋村から城下に分町した際の町名が、神嶋町でなく鹿嶋町であったと『小場家文書』は記録していた。

寛永十八年七月、江戸に居た水野勝重は福山總奉行の小場兵左衛門利之と神谷治部長次に宛て、次の書状「其の地鹿嶋町跡」(『小場家文書』水野勝重書状十三)と鹿嶋町跡の町名を記している。大手門前の町名は最初から神嶋町であったと伝えているが、実際には最初の町名は鹿嶋町が正解であった。

翌十七年、鹿嶋町から出火した火災は大火となり鹿嶋町全体を焼失してしまった。火災により福山城の意外な弱点が露呈、大手門前に商人町が存在していては城の防禦に瑕瑾となる可能性が出てきた。そこで水野勝重は大手門前の商売優遇策方針を見直し、鹿嶋町の町人を新開に移住させ跡地を武家屋敷とした。

勝重は翌年八月、小場利之に宛て次の書状「神嶋町の作業半分程家を建て」(『小場家文書』水野勝重書状十)を送っている。此の書状に依り火災を契機に商人町が移動したことと、鹿嶋町から神嶋町に町名変更が行われたことが判明した。猶此の書状が備後神嶋町の初見文書である。

被災した鹿嶋町の町人連は勝重の方針に従い、大手門前鹿嶋町の東方約三百m先に完成した、新開の神嶋町(現在の船町。上市・中市・下市)に移住させられ商人町を再興した。

新町名変更の事由は今以って何も伝えられていない。考えられることは火災を起こした鹿嶋町名が忌み嫌われたらしく、住所変更に伴う新町名と旧町名を区別する政治的判断の何れかに依るものであろう。

寛文四年(一六六四)、幕府奉行が四代水野民部(勝種)宛てに出した(『結城水野家文書』「領地之目録」)には、沼隈郡に「鹿嶋村」小田郡に「神嶋村」の村名が記載され、元和五年以降備後鹿嶋村名に変化の痕跡は認められなかった。

元禄十一年(一六九八)水野家が断絶すると、水野領は備前岡山藩の検地総奉行池田靫負とその配下によって検地が実施された。二年後の検地帳「備後國沼隈郡神嶋村御検地水帳」(広島大学所蔵)に、変更になった神嶋村の村名が記録されている。

前記の史料から鹿嶋村の村名が変更された時期は、寛文四年以降から元禄十三年以前の三十四年の間の出来事であった。以上、前記の史料の推移から、神嶋村の正式な村名が付けられてから現在まで、最大に見積もっても三百五十年程度しか経過していないのである。

水野氏は十七世紀の終りまで備後と備中の両神嶋村を支配しており、備中神嶋村の来歴に関して水野家の旧臣吉田彦兵衛秀元(一六五三~一七三三)は、享保初年(一七一六)の頃、神嶋村の伝来に付いて

神嶋ハ備中小田郡笠岡の向、横嶋と白石嶋との間にあり、今こうのしまといふ。右、建久九年、大嘗会主基方御屏風備中國神嶋神祠所有

(『水野記』十四・備中小田郡)

と記しており、建久九年の神嶋は備中の神嶋村であるとする見解を表明していた。

ところが驚いたことに百年を経ずして、備後鹿嶋の歴史を百八十度も変化させた学者が出現し「万葉に載せられた神嶋は備後」と、吉田秀元とは全く正反対の虚構捏造の備後神嶋説を突如主張するのである。その捏造主張は正史であるとして高く評価され現在に至っている。

(以降、5と6及び年表・地図は次号159号に掲載します)

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備後の神嶋村伝説2

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