路傍の石仏に思う(福山市千田町八十八ヶ所を中心に)
「備陽史探訪:72号」より
出内 博都
弘法大師の開かれた「四国八十八ヶ所の霊場巡り」、所謂「お遍路さん」の信仰が広まり、各地にミニ八十八ヶ所ができるのは近世中期以降から明治期にかけてのようである。千田地区においても南西部の薮路・坂田・それに奈良津の一部を加えて明治期には成立していたようである、その大部分のお地蔵さんは、位置は、動いているが現存して、庶民信仰の深さを物語っている(地図1)。
更に、北部の峠山の北麓にある「一松院」を中心に山麓一帯に一つの信仰圏がある。この方は地蔵さんの数の確認はむずかしいが、現存・伝承によれば大部分確認できる。しかし千田地区で、かつて千田沼と言われた中央低地の東南部には遺跡が見当たらない、この地区は以前に三角縁神獣鏡の出た「蔵王原遺跡」や「千塚古墳群」などあり、開発の古い地区で南にこの地方の最高峰「蔵王山」をひかえ、更に村の鎮守「宇山八幡宮」が最初に勧進された由緒ある地区である。
しかし時の流行とでも言うこの「新四国八十八ヶ所」が成立した形跡が伺えない、こうした信仰圏ができるには色々な条件があるのだろう。しかしこの地区にすばらしいお地蔵さんがあることはあまり知られていないようである。それは蔵王山の北麓にある鍋屋集落から山陽自動車道の隧道をくぐって、蔵王山の北の沢を約四百m上った所に少し広い段原がある、その一角にこの地蔵さんはまつられている(地図2)。
先ず目につくことはそのすばらしい石造のお須屋である、軒幅七十cm角の寄棟造りの石殿で、正面は唐破風の御殿造り、屋根の中心に高さ八cmに二十cm角の露盤に二段の宝殊をのす完全な御殿形式である。仏殿は高さ六十三cm・幅三十八cm・奥行き四十七cmの広さで、舟型光背の石像は幅三十cm、高さ五十cm、表に三十cmの阿弥陀如来像をきざみ、右方に”讃刕”中央に”十八はん”左方に”ことひき”と刻まれている。これが三十五cmの積み石と幅六十五cm・高さ十七翻の台座の上に置かれている様は実に立派である(写真1)。
なおこのお地蔵さんの場合山の岩肌を堀とって高さ二mの石垣を築き、五mに三mの敷地を作っている。その敷地の北西の隅に祀られていることからみて、簡単なお籠堂の施設があったものと思える。このお地蔵さんに関連してこの沢の入口(約二百m下手)に”さぬき・六十九番・観音寺”と刻まれた同じく舟形光背の像がある。この方は三方と屋根を平石で囲んだ簡単なお須屋である。屋根石は九十cmに五十七cmの大きさで、石の厚みはいずれも十cm余りある、仏殿は六十cmに五十五cm・高さが八十cmあるが、石像の台座に鉄道の側溝の角型U字管(高さ三十cm)を使用しているので、仏像の頭がつかえ先を少し欠でいる、そのため六の字の上半分がとんでおり、他の二体の石仏を合祀しているのでいかにも窮屈である(写真2)。
この他にこの地区では、この沢の一つ西の谷(旧神辺街道の道端)に表の仏像の上に”八番”だけ刻んだものがある、仏像も小さく形式も簡単であり、刻字が石全体の風化度からみて少し新しい感じである。番号の連続性からみても、前二者とは関連ないようである。こうしてみると、大師信仰は必ずしも遍路形式をとらず、特定の仏を単独に祀る場合もあったことが知られる。何のために・誰が・何時と言うことになると分からない場合が多い。この地蔵さんの場合も四~五十年前は地区のお年寄りがお参りしていたことを知っている人はあるが、どんないきさつでこんな立派なものが作られたかは分からない。
六十八番札所は、香川県観音寺市にある「七宝山神恵院」で真言宗大覚寺派である。この寺と千田の結び付きも特には考えられない、山号の七宝山が”ことひき”になっているのは、琴弾山に琴弾八幡宮があり、この神恵院は八幡宮の別当寺であったものが慶応四年の神仏分離で分けられたので、昔ながらの”琴弾”を称したものであろう。また麓にある六十九番は同じく「七宝山観音寺」で神恵院と同じく大覚寺派である。この二寺は二つの寺とはいっても境内が隣接し、ほとんど一つの寺のような雰囲気である。八十八ヶ所のうち二寺が同じ山号をもち、隣接しているのはここだけである、この二寺のみが単独にこの地に祀られたのはなぜだろうか、今となっては知るよしもないが、あのすばらしい石のお須屋の謎はふかまるばかりだ。
謎といえば、このお大師様への道が単なる山道とは思えないすばらしい道である。幅員といい、勾配といい参道というにふさわしいものであったと思われる。更に平時は水がないが、降雨時にはかなりの出水も予想される沢には、三百mにわたって九ヶ所の砂防堤が築かれている、高いものは数mをこえる高さである。岩を砕いた大石を丹念に積んだ見事な石垣である。単に一篤志家や一集落の思いつきではできない工事である。藩営工事か郡(村)などの公的工事であろう。
謎といえば更に両地蔵の中間に現在も満々と水をたたえた井戸があり、その上手に東南と北西に三十数mの土塁を巡らした屋敷跡がある、後年、畠としてつくられたので、やや、傾斜がついているが、畠の水よけとはおもえない土盛りである。天文年間の神辺合戦に関連して、蔵王山城が云々されるが、そんな大袈裟なものではないにしても、一考をようすることがらであろう。
何の関運もない事柄を羅列した訳ですが、この狭い地域によくも謎が集中したものである。現在の地形・交通・生業では考えられない何かがあるようにおもえる、上のお地蔵さんから数十mで蔵王山頂の西の鞍部である、山の南斜面には比較的容易にでられたのではなかろうか、更に枝につるした福山山岳会の案内表示によれば山頂への最短距離であることが示されている。数々の謎と伝説を秘める蔵王霊山への最短距離であるこの沢は、今の我々には計りしれない何かを秘めているのではなかろうか、それをじっと見つめてきたのがこのお地蔵さんであるような気がする。
https://bingo-history.net/archives/13591https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/09bbc67ecb3712daf0966a96c43dfd95.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/09bbc67ecb3712daf0966a96c43dfd95-150x100.jpg近世近代史「備陽史探訪:72号」より 出内 博都 弘法大師の開かれた「四国八十八ヶ所の霊場巡り」、所謂「お遍路さん」の信仰が広まり、各地にミニ八十八ヶ所ができるのは近世中期以降から明治期にかけてのようである。千田地区においても南西部の薮路・坂田・それに奈良津の一部を加えて明治期には成立していたようである、その大部分のお地蔵さんは、位置は、動いているが現存して、庶民信仰の深さを物語っている(地図1)。 更に、北部の峠山の北麓にある「一松院」を中心に山麓一帯に一つの信仰圏がある。この方は地蔵さんの数の確認はむずかしいが、現存・伝承によれば大部分確認できる。しかし千田地区で、かつて千田沼と言われた中央低地の東南部には遺跡が見当たらない、この地区は以前に三角縁神獣鏡の出た「蔵王原遺跡」や「千塚古墳群」などあり、開発の古い地区で南にこの地方の最高峰「蔵王山」をひかえ、更に村の鎮守「宇山八幡宮」が最初に勧進された由緒ある地区である。 しかし時の流行とでも言うこの「新四国八十八ヶ所」が成立した形跡が伺えない、こうした信仰圏ができるには色々な条件があるのだろう。しかしこの地区にすばらしいお地蔵さんがあることはあまり知られていないようである。それは蔵王山の北麓にある鍋屋集落から山陽自動車道の隧道をくぐって、蔵王山の北の沢を約四百m上った所に少し広い段原がある、その一角にこの地蔵さんはまつられている(地図2)。 先ず目につくことはそのすばらしい石造のお須屋である、軒幅七十cm角の寄棟造りの石殿で、正面は唐破風の御殿造り、屋根の中心に高さ八cmに二十cm角の露盤に二段の宝殊をのす完全な御殿形式である。仏殿は高さ六十三cm・幅三十八cm・奥行き四十七cmの広さで、舟型光背の石像は幅三十cm、高さ五十cm、表に三十cmの阿弥陀如来像をきざみ、右方に”讃刕”中央に”十八はん”左方に”ことひき”と刻まれている。これが三十五cmの積み石と幅六十五cm・高さ十七翻の台座の上に置かれている様は実に立派である(写真1)。 なおこのお地蔵さんの場合山の岩肌を堀とって高さ二mの石垣を築き、五mに三mの敷地を作っている。その敷地の北西の隅に祀られていることからみて、簡単なお籠堂の施設があったものと思える。このお地蔵さんに関連してこの沢の入口(約二百m下手)に”さぬき・六十九番・観音寺”と刻まれた同じく舟形光背の像がある。この方は三方と屋根を平石で囲んだ簡単なお須屋である。屋根石は九十cmに五十七cmの大きさで、石の厚みはいずれも十cm余りある、仏殿は六十cmに五十五cm・高さが八十cmあるが、石像の台座に鉄道の側溝の角型U字管(高さ三十cm)を使用しているので、仏像の頭がつかえ先を少し欠でいる、そのため六の字の上半分がとんでおり、他の二体の石仏を合祀しているのでいかにも窮屈である(写真2)。 この他にこの地区では、この沢の一つ西の谷(旧神辺街道の道端)に表の仏像の上に”八番”だけ刻んだものがある、仏像も小さく形式も簡単であり、刻字が石全体の風化度からみて少し新しい感じである。番号の連続性からみても、前二者とは関連ないようである。こうしてみると、大師信仰は必ずしも遍路形式をとらず、特定の仏を単独に祀る場合もあったことが知られる。何のために・誰が・何時と言うことになると分からない場合が多い。この地蔵さんの場合も四~五十年前は地区のお年寄りがお参りしていたことを知っている人はあるが、どんないきさつでこんな立派なものが作られたかは分からない。 六十八番札所は、香川県観音寺市にある「七宝山神恵院」で真言宗大覚寺派である。この寺と千田の結び付きも特には考えられない、山号の七宝山が”ことひき”になっているのは、琴弾山に琴弾八幡宮があり、この神恵院は八幡宮の別当寺であったものが慶応四年の神仏分離で分けられたので、昔ながらの”琴弾”を称したものであろう。また麓にある六十九番は同じく「七宝山観音寺」で神恵院と同じく大覚寺派である。この二寺は二つの寺とはいっても境内が隣接し、ほとんど一つの寺のような雰囲気である。八十八ヶ所のうち二寺が同じ山号をもち、隣接しているのはここだけである、この二寺のみが単独にこの地に祀られたのはなぜだろうか、今となっては知るよしもないが、あのすばらしい石のお須屋の謎はふかまるばかりだ。 謎といえば、このお大師様への道が単なる山道とは思えないすばらしい道である。幅員といい、勾配といい参道というにふさわしいものであったと思われる。更に平時は水がないが、降雨時にはかなりの出水も予想される沢には、三百mにわたって九ヶ所の砂防堤が築かれている、高いものは数mをこえる高さである。岩を砕いた大石を丹念に積んだ見事な石垣である。単に一篤志家や一集落の思いつきではできない工事である。藩営工事か郡(村)などの公的工事であろう。 謎といえば更に両地蔵の中間に現在も満々と水をたたえた井戸があり、その上手に東南と北西に三十数mの土塁を巡らした屋敷跡がある、後年、畠としてつくられたので、やや、傾斜がついているが、畠の水よけとはおもえない土盛りである。天文年間の神辺合戦に関連して、蔵王山城が云々されるが、そんな大袈裟なものではないにしても、一考をようすることがらであろう。 何の関運もない事柄を羅列した訳ですが、この狭い地域によくも謎が集中したものである。現在の地形・交通・生業では考えられない何かがあるようにおもえる、上のお地蔵さんから数十mで蔵王山頂の西の鞍部である、山の南斜面には比較的容易にでられたのではなかろうか、更に枝につるした福山山岳会の案内表示によれば山頂への最短距離であることが示されている。数々の謎と伝説を秘める蔵王霊山への最短距離であるこの沢は、今の我々には計りしれない何かを秘めているのではなかろうか、それをじっと見つめてきたのがこのお地蔵さんであるような気がする。管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
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