高田河内守と太閤蔵入地

備陽史探訪:180号」より

会長 田口義之

蔵王山
各地の古城を研究していると、記録は残っていても城跡がはっきりしない場合も少なくない。かつての「市村」、現蔵王町にあったという「蔵王山下城」もその一つだ。

この城跡に関する近世の記録は一貫している、刊本の「備後古城記」をはじめ、各種の古城記の写本にはどれも深津郡市村のところに「小川大膳亮」が書上げられ「蔵王山下城」として「備中大下村高田河内守正重」の家臣であったと記している。

高田河内守は実在の人物で、豊臣秀吉に仕え知行一万石、堂々たる大名であった。実際、秀吉の遺品を拝領した武将の中に、内大臣家康から数えて193番目に高田河内守の名があり、「盛光」の太刀を拝領している(甫庵太閤記「秀吉公御遺物於加賀大納言利家卿館被下覚」)。

高田河内守に関係する城郭としては、他に蔵王山から東南約3キロのところにあった「沖之城」があった。「あった」というのは、今は開発されて城跡の形を見ることが出来ないからだ。
 
『西備名区』は、この城跡について、次のように記している。

沖之城 能島三郎正信
備中大下村城主、高田正重家老。大橋山城没落の時、倶に落去すと云う

 
高田正重は、蔵王山下城のところにも出てきた高田河内守のことだ。

高田河内守が、市村(現蔵王町)から能島(現春日町)にかけてを勢力範囲としていた国人、或いは土豪とすれば、この配置は妥当なものだろう。蔵王山下城を旧市村の丘陵南端とすれば、その東方に沖之城を配することで、一帯の海上と沿岸部を支配することが出来る。

だが、国人、或いは土豪としての高田氏の存在は、これら江戸時代後期の地誌以外では確認出来ない。実在の高田河内守は豊臣秀吉の直臣であって、毛利氏の領国であった備後国深津郡に領主として君臨する余地はなかった。

なかなか正体の突き止められない高田河内守の伝承だが、一つだけ解決の糸口になりそうな史料が残っている。『大日本租税志』に収録された「伏見蔵納目録」だ。これは秀吉の亡くなった慶長三年(一五九八)八月に作成された豊臣氏直轄領の目録で、この中に備後国の蔵入地として千五百石の記載がある。

備後に豊臣政権の直轄地が置かれていたとは驚きだが、この史料は以前から知られていたもので、これを基にした日本史の図表など、少し詳しい概説書などには、地図の濃淡で備後に蔵入地が存在したことを示していた。

この事実、知ってはいたが、豊臣政権の蔵入地、特に大名の領内に設定されたものは「その大名が管理し、豊臣氏は収益を得るのみで、その支配には関知しない」という通説(1)を信じ、それは毛利氏領内に形式的に置かれた直轄地、と考えていた。

ところが、市村や能島など深津郡に属する古城の来歴に、こうもしばしば秀吉の旗本高田河内守の伝承が出てくるとなると、話は変わってくる。逆に高田河内守に関する伝承の存在が、備後に設定された「太閤蔵入地」の位置を示すことになりはしないか。つまり、それは備後国深津郡に存在し、実際に豊臣氏によって支配されていた可能性が浮上する。

その場合、代官は高田河内守。実際に在地にあって土地を支配していたのは小川大膳亮や能島三郎など、「備後古城記」に古城主として書上げれれた人物と見ていいだろう。

果たして、これが事実かどうか、同時代史料で検討してみよう。

まず、この時期の深津郡の石高を示すものとして「毛利氏八箇国時代分限帳」(2)がある、これは天正十九年(一五九一)に実施された毛利氏領国の検地(惣国検地)の結果を示す「御配置絵図」を江戸時代になって集計した記録で、時代は降るが同時代史料として扱っていいものである。

この分限帳の備後深津郡の公領(毛利氏直轄領)給人領を集計すると、「三千九十八石四斗八升六合」の数値が得られる。次にその十年後、慶長六年(一六〇一)の福島検地の結果を示す、水野氏が幕府の上使から引渡しを受けた深津郡の石高(3)を見ると、「七六九三石五斗七合」となる。後者から前者を引くと、「四五九五石二升一合」の数値が得られる。

では、この四五九五石余が「太閤蔵入地」に当たるかというと、ことはそう簡単ではない。毛利氏の石高は、慶長六年のそれが「生産高」であるのに対し、「年貢高」と考えられているからだ。

ここで、毛利氏の惣国検地高は「二倍」すると、生産高に換算できるという説を採ると、三千九十八石余の二倍「六一九六石」が天正十九年の深津郡の石高となる。元和五年のそれとの差は「一四九七石」。これは慶長三年の「伏見蔵納目録」の「千五百石」にほぼ等しい。

十年間の石高の増加をどれくらい見るか、という未確定要素はあるが、備後国深津郡に豊臣氏の直轄領が存在したことは、これで証明されたと思う。

  • (1)有精堂刊論集日本歴史6「豊臣政権」など
  • (2)岸浩「資料毛利氏八箇国御時代分限帳」マツノ書店刊
  • (3)備後叢書所収「備陽六郡志」

沖之城跡

高田河内守と太閤蔵入地(蔵王山下城と深津郡の豊臣氏直轄領)https://bingo-history.net/wp-content/uploads/1998/04/69886a0a0e5e4fe62671f98ada3f286b.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/1998/04/69886a0a0e5e4fe62671f98ada3f286b-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:180号」より 会長 田口義之 各地の古城を研究していると、記録は残っていても城跡がはっきりしない場合も少なくない。かつての「市村」、現蔵王町にあったという「蔵王山下城」もその一つだ。 この城跡に関する近世の記録は一貫している、刊本の「備後古城記」をはじめ、各種の古城記の写本にはどれも深津郡市村のところに「小川大膳亮」が書上げられ「蔵王山下城」として「備中大下村高田河内守正重」の家臣であったと記している。 高田河内守は実在の人物で、豊臣秀吉に仕え知行一万石、堂々たる大名であった。実際、秀吉の遺品を拝領した武将の中に、内大臣家康から数えて193番目に高田河内守の名があり、「盛光」の太刀を拝領している(甫庵太閤記「秀吉公御遺物於加賀大納言利家卿館被下覚」)。 高田河内守に関係する城郭としては、他に蔵王山から東南約3キロのところにあった「沖之城」があった。「あった」というのは、今は開発されて城跡の形を見ることが出来ないからだ。   『西備名区』は、この城跡について、次のように記している。 沖之城 能島三郎正信 備中大下村城主、高田正重家老。大橋山城没落の時、倶に落去すと云う  高田正重は、蔵王山下城のところにも出てきた高田河内守のことだ。 高田河内守が、市村(現蔵王町)から能島(現春日町)にかけてを勢力範囲としていた国人、或いは土豪とすれば、この配置は妥当なものだろう。蔵王山下城を旧市村の丘陵南端とすれば、その東方に沖之城を配することで、一帯の海上と沿岸部を支配することが出来る。 だが、国人、或いは土豪としての高田氏の存在は、これら江戸時代後期の地誌以外では確認出来ない。実在の高田河内守は豊臣秀吉の直臣であって、毛利氏の領国であった備後国深津郡に領主として君臨する余地はなかった。 なかなか正体の突き止められない高田河内守の伝承だが、一つだけ解決の糸口になりそうな史料が残っている。『大日本租税志』に収録された「伏見蔵納目録」だ。これは秀吉の亡くなった慶長三年(一五九八)八月に作成された豊臣氏直轄領の目録で、この中に備後国の蔵入地として千五百石の記載がある。 備後に豊臣政権の直轄地が置かれていたとは驚きだが、この史料は以前から知られていたもので、これを基にした日本史の図表など、少し詳しい概説書などには、地図の濃淡で備後に蔵入地が存在したことを示していた。 この事実、知ってはいたが、豊臣政権の蔵入地、特に大名の領内に設定されたものは「その大名が管理し、豊臣氏は収益を得るのみで、その支配には関知しない」という通説(1)を信じ、それは毛利氏領内に形式的に置かれた直轄地、と考えていた。 ところが、市村や能島など深津郡に属する古城の来歴に、こうもしばしば秀吉の旗本高田河内守の伝承が出てくるとなると、話は変わってくる。逆に高田河内守に関する伝承の存在が、備後に設定された「太閤蔵入地」の位置を示すことになりはしないか。つまり、それは備後国深津郡に存在し、実際に豊臣氏によって支配されていた可能性が浮上する。 その場合、代官は高田河内守。実際に在地にあって土地を支配していたのは小川大膳亮や能島三郎など、「備後古城記」に古城主として書上げれれた人物と見ていいだろう。 果たして、これが事実かどうか、同時代史料で検討してみよう。 まず、この時期の深津郡の石高を示すものとして「毛利氏八箇国時代分限帳」(2)がある、これは天正十九年(一五九一)に実施された毛利氏領国の検地(惣国検地)の結果を示す「御配置絵図」を江戸時代になって集計した記録で、時代は降るが同時代史料として扱っていいものである。 この分限帳の備後深津郡の公領(毛利氏直轄領)給人領を集計すると、「三千九十八石四斗八升六合」の数値が得られる。次にその十年後、慶長六年(一六〇一)の福島検地の結果を示す、水野氏が幕府の上使から引渡しを受けた深津郡の石高(3)を見ると、「七六九三石五斗七合」となる。後者から前者を引くと、「四五九五石二升一合」の数値が得られる。 では、この四五九五石余が「太閤蔵入地」に当たるかというと、ことはそう簡単ではない。毛利氏の石高は、慶長六年のそれが「生産高」であるのに対し、「年貢高」と考えられているからだ。 ここで、毛利氏の惣国検地高は「二倍」すると、生産高に換算できるという説を採ると、三千九十八石余の二倍「六一九六石」が天正十九年の深津郡の石高となる。元和五年のそれとの差は「一四九七石」。これは慶長三年の「伏見蔵納目録」の「千五百石」にほぼ等しい。 十年間の石高の増加をどれくらい見るか、という未確定要素はあるが、備後国深津郡に豊臣氏の直轄領が存在したことは、これで証明されたと思う。 (1)有精堂刊論集日本歴史6「豊臣政権」など (2)岸浩「資料毛利氏八箇国御時代分限帳」マツノ書店刊 (3)備後叢書所収「備陽六郡志」 沖之城跡備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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