『平家伝説・古民家を訪ねて』バス例会無事終了(福山市沼隈町横倉)
かつての農村風景を良好に保っている貴重な集落、横倉地区、平家伝説を辿りつつ、再生された古民家を訪ねてまわりました。(NPO法人ぬまくま民家を大切にする会共催)
平家谷と昌ねれてい沼隈町中山南横倉に行く。下横倉バス停で車を降りる。
前が「的場」で、弓矢の鍛錬をした 場所。的はここから200m先。
池永邸前に集まる。
池永邸の古民家。住民が病気のため内部は見る事が出来なかった。間取りは表側に「オヒロマ、デ工」 裏側に「ダイドコロ、ナンド」を配置。入ロが「ニワ」となっている。江戸期の民家である。
軒が張り出し低くなっていてトタンをかぶせている。裏から見ると藁葺きの状態がわかる。
横倉地区の農村風景。元横倉分校の校舎が見える。
赤旗神社に行く。平家の「赤旗」を祀っている。右が拝殿で、左は「荒神社」である。
「横倉道路改修記念碑」 「平家谷縦貫スル村道、程ー里弱大半陸路アリ・・・昭和十四年十ー月三日」とある。
赤旗神社境内にある荒神社。
横倉(平家谷)についての説明。これによると平通盛(清盛の甥)が屋島の合戦に破れた後、局やー族が落ち延びた里と伝えられる。馬の鞍が横に傾いたために横倉という地名がついた。
赤旗神社で地元の案内者門田氏から話を聞く。
中横倉の農村風景。
車内から見た風景。古民家が見える。
通盛神社下でバスを降りる。向こうの建物が菖蒲園である。
通盛神社の石段。急な右段だが、ここを上がって行く。
校舎の下から見た風景。伝統的な里村の情景が素晴らしい。
校舎への入ロ。左の階段からニ階に上がって行く。通路の先が狭いグランドである。
教室の中を窓越しに見る。昔ながらの体重計が懐かしい。
グランド側から見た校舎。
草だらけのグランドの端に石柱がある。それには「大正己季四月退職記念」と刻まれていた。大正己李は大正八年だろう。
左側の柱には「元山南尋常高等小学校訓導高山六乗」とある。記念碑であった。
分校跡から見た横倉の民家群と里村の風景。
校舎下の道を行く。
脱穀をした跡の籾殻の山。秋らしい農作業跡の風景。
屋敷門だけが離れて残っている。
古民家の村川邸に向って歩く。
里の秋の風情を感じさせる景観。
村川邸が見えて来た。母屋は築150年~200年ぐらい経っているという。
長屋門を入って行く。築120年という。
20年間空き家になっていたが2007年3月に再生がスタートした。 「ぬまくま民家を大切にする会の協力で合力(こうろく)によって現在も再生工事中である。庭ではソバ打ちをしている。
再生した古民家「村川邸」の座敷で話を聞くために休んでいるところ。
古民家の再生事業について話を聞いているところ。プロジェクターによって映像を見ながら話を聞いた。
平家谷の古民家再生(村川邸)の再生工事を見る。
課題(悩み)について。
民家フオーラム2006のポスター。
村川邸で民家フオーラムの見学会の様子。
村川邸の母屋。
拡大すると家屋のようすがよくわかる。
再生中のようす。縁の下でニワトリを飼っていたことがわかる。右側が土間の入ロである。
左側にある離れのすがた。
施工中、大掃除のようす。
十畳間の畳。大正四年十月に新調した日付がある。
左が和釘頭部L形(100年前)、右は和釘頭部T形(約150年前)
台所の梁。雨漏りで腐食がひどい。
応急的補強をしている柱と筋交い。
合力(こうろく)によって母屋の瓦おろしをしている。
大壁、小舞のようす(2007年6月)
石垣積み。壁土廃却用。
10畳間の地表面掘り(2007.7)
井戸の清掃をしているところ。
小舞用の竹を伐採して積み上げている。
小舞用の竹割りをしているところ(2007年10月)
井戸用の長石を設置。
座敷に仮屋根を設置する。
長屋門の雪景色。
十畳間柱追掛接ぎ。これには高度な技術がいる。
中央廊下、風呂洗面、全柱を補強。
いろり間の大引き。床下はこのようになっている。
広縁と柱交換の工事風景。
合力(こうろく)によって北側屋根の瓦おろし。
北側の屋根の丸太を移動させているところ。
南側屋根の縁桁と出桁のようす。(2008年4月)
朝ごはんの竹の子。近くの竹林で取 れた新鮮な竹の子である。
合力による台所の梁にベンガラを塗っているところ。これでー段と柱が美しくなり、風格が出てくる。
合力によって荒壁塗りを行っている。
井戸枠の石。こうして井戸の枠も出来上がった。
座敷の柱を解体しているところ。(2009年2月)
座敷の梁を解体撤去する。太い梁がすばらしい。
座敷と屋根の瓦葺き。
合力で杉丸太の切り出し風景。
座敷の外壁を漆喰仕上げ壁にする。
木小屋を焼き板仕上げにする。(2010年6月)ここまで2007年3月から2010年1月~7月の間、照明器具・土間掃除まで3年以上もかかったが、合力によるすばらしい取り組みで立派に仕上がった。
外ではプロのソバ打ち職人が打ちたてのソバをゆでている。
打ち立てのソバが茹で上がり美味しくいただいた。
村川邸前の風景。向こうに横倉の道路が見える。この村川邸に再び命が吹き込まれ、100年・150年と行き続けていくだろう。
村川邸の木小屋。倉庫になっている。
上から見た村川邸。今も工事中である。
上の道を見る。古い土壁のある道の風景。
バス停そばに地名についての説明板がある。それには「弓場」とは、平家ー門が来るべき合戦にそなえて弓の鍛錬をした場所と言う。その弓場から西方の「的場」をめがけて弓を射たと伝わっている。「館」とは平氏にかかわりのある人が住んでいた場所を言う。
バス停から元横倉分校の校舎が見える。
福泉坊の説明板。ここには行かなかった。説明によると「平通盛の遺子季盛から十五代目にあたる秀裔は京都本派本願寺顕如上人のもとに仏門に入り、秀円と改めた。秀円は天正十年に月高山福泉坊を建てた。境内には通盛の妻小宰相の局の墓がある。」
バス停前の風景。ここからバスは菅田の倉田邸に向う。
菅田の重厚な蔵と民家。ここは見に行かなかった。
弘法の井戸。向こうに休み石がある。
弘法の井戸のいわれが書かれている。
井戸から100mほど進み、左に上がった家が倉田邸である。
再生なった倉田邸。左が母屋で、右は長屋である。
倉田邸の母屋。明治14年に建築。右の白壁の長屋は築年数は不詳。
太い柱と梁。松材は後山の持ち山から切り出された。
天井を見る。そのままの姿を生かしている。
この梁は太く古民家ならではのものである。
柿渋を塗った黒光りする太い柱が見事である。
当時のままの木組みと柱。
縁側に張り出し手いる軒。大工・左官は地元の職人にである。合力はボランテアによる作業。
倉田邸を出てバスを待っていると、菅田神社の祭りで軽トラツクに載せられた御輿を引っ張っている子どもたちがやって来た。
B班が乗ったバスが来る待ち時間の間、井戸のそばの荒神社の階段を上がっていった。
荒神社の社殿。
神社の上を上がって生垣、石垣と民家の風景。
井戸と荒神社の間の道にある道標。 「左 松永道」横に「右 大師堂道」とある。井戸の横にある「休み石」には「大正十年春営所倉田増次郎設置」と刻まれていた。
下山南草深の岡崎邸に向う。手前に南泉坊があった。
再生された岡崎邸。丸窓に特徴がある。
岡崎邸前の道を見る。草深の奥方向である。
岡崎邸には「民家再生奨励賞」の表示が取り付けられていた。
母屋の隣の納屋も蘇っていた。内部は音楽堂となっていた。
入ロには「雅亮庵」と名前がつけられていた。上の板には「有自方不楽朋遠来亦乎」と書かれていた。
母屋の内部。黒光りする梁と柱。
曲がった梁をうまく生かしている。
天井を見る。当時のままの柱と梁。うまく生かし美しく仕上げている。
岡崎邸から少し奥に進むと、古い民家が残っていた。郷愁を感じる風景。
最後の訪問地の枝広邸に行く。山南川にかかる鶴ケ橋を渡る。
鶴ケ橋の北側に雁木と常夜燈がある。
山南川の下流を見る。その先は河ロとなる。
枝広邸と奥の集落を見る。
枝広邸の入ロ。枝広邸は現在福山市ぬまくま文化館となっている。三代にわたる町医者の家であった。
門を入ると数奇屋造り主屋がある。ここに入って行く。
風雅な趣きのある庭を見る。
こちらは南側の庭である。
熊野焼きの陶器展が開催されていた。これはコーヒー茶碗。
様々な茶器を見た。 即売もしていた。
気に入った作品。
展示の熊野焼を見る。いけばなも素晴らしい。陶器の展示を生かす演出をしている。
新聞記事より、「沼隈町の枝広家旧宅「地域文化館」で復活。住民の交流や展示会などに開放」と書かれている。
常夜燈の横にある「地神」 福山地域には地神が多い。
常夜燈を見る。 「奉納 八幡宮 金毘羅社」とある。
常夜燈の横に「文政十丁亥 八月吉日」(1827)と刻まれている。
https://bingo-history.net/archives/1095https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/101017-2.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/101017-2.jpg活動報告古民家,史跡巡りかつての農村風景を良好に保っている貴重な集落、横倉地区、平家伝説を辿りつつ、再生された古民家を訪ねてまわりました。(NPO法人ぬまくま民家を大切にする会共催) 平家谷と昌ねれてい沼隈町中山南横倉に行く。下横倉バス停で車を降りる。 前が「的場」で、弓矢の鍛錬をした 場所。的はここから200m先。 池永邸前に集まる。 池永邸の古民家。住民が病気のため内部は見る事が出来なかった。間取りは表側に「オヒロマ、デ工」 裏側に「ダイドコロ、ナンド」を配置。入ロが「ニワ」となっている。江戸期の民家である。 軒が張り出し低くなっていてトタンをかぶせている。裏から見ると藁葺きの状態がわかる。 横倉地区の農村風景。元横倉分校の校舎が見える。 赤旗神社に行く。平家の「赤旗」を祀っている。右が拝殿で、左は「荒神社」である。 「横倉道路改修記念碑」 「平家谷縦貫スル村道、程ー里弱大半陸路アリ・・・昭和十四年十ー月三日」とある。 赤旗神社境内にある荒神社。 横倉(平家谷)についての説明。これによると平通盛(清盛の甥)が屋島の合戦に破れた後、局やー族が落ち延びた里と伝えられる。馬の鞍が横に傾いたために横倉という地名がついた。 赤旗神社で地元の案内者門田氏から話を聞く。 中横倉の農村風景。 車内から見た風景。古民家が見える。 通盛神社下でバスを降りる。向こうの建物が菖蒲園である。 通盛神社の石段。急な右段だが、ここを上がって行く。 校舎の下から見た風景。伝統的な里村の情景が素晴らしい。 校舎への入ロ。左の階段からニ階に上がって行く。通路の先が狭いグランドである。 教室の中を窓越しに見る。昔ながらの体重計が懐かしい。 グランド側から見た校舎。 草だらけのグランドの端に石柱がある。それには「大正己季四月退職記念」と刻まれていた。大正己李は大正八年だろう。 左側の柱には「元山南尋常高等小学校訓導高山六乗」とある。記念碑であった。 分校跡から見た横倉の民家群と里村の風景。 校舎下の道を行く。 脱穀をした跡の籾殻の山。秋らしい農作業跡の風景。 屋敷門だけが離れて残っている。 古民家の村川邸に向って歩く。 里の秋の風情を感じさせる景観。 村川邸が見えて来た。母屋は築150年~200年ぐらい経っているという。 長屋門を入って行く。築120年という。 20年間空き家になっていたが2007年3月に再生がスタートした。 「ぬまくま民家を大切にする会の協力で合力(こうろく)によって現在も再生工事中である。庭ではソバ打ちをしている。 再生した古民家「村川邸」の座敷で話を聞くために休んでいるところ。 古民家の再生事業について話を聞いているところ。プロジェクターによって映像を見ながら話を聞いた。 平家谷の古民家再生(村川邸)の再生工事を見る。 課題(悩み)について。 民家フオーラム2006のポスター。 村川邸で民家フオーラムの見学会の様子。 村川邸の母屋。 拡大すると家屋のようすがよくわかる。 再生中のようす。縁の下でニワトリを飼っていたことがわかる。右側が土間の入ロである。 左側にある離れのすがた。 施工中、大掃除のようす。 十畳間の畳。大正四年十月に新調した日付がある。 左が和釘頭部L形(100年前)、右は和釘頭部T形(約150年前) 台所の梁。雨漏りで腐食がひどい。 応急的補強をしている柱と筋交い。 合力(こうろく)によって母屋の瓦おろしをしている。 大壁、小舞のようす(2007年6月) 石垣積み。壁土廃却用。 10畳間の地表面掘り(2007.7) 井戸の清掃をしているところ。 小舞用の竹を伐採して積み上げている。 小舞用の竹割りをしているところ(2007年10月) 井戸用の長石を設置。 座敷に仮屋根を設置する。 長屋門の雪景色。 十畳間柱追掛接ぎ。これには高度な技術がいる。 中央廊下、風呂洗面、全柱を補強。 いろり間の大引き。床下はこのようになっている。 広縁と柱交換の工事風景。 合力(こうろく)によって北側屋根の瓦おろし。 北側の屋根の丸太を移動させているところ。 南側屋根の縁桁と出桁のようす。(2008年4月) 朝ごはんの竹の子。近くの竹林で取 れた新鮮な竹の子である。 合力による台所の梁にベンガラを塗っているところ。これでー段と柱が美しくなり、風格が出てくる。 合力によって荒壁塗りを行っている。 井戸枠の石。こうして井戸の枠も出来上がった。 座敷の柱を解体しているところ。(2009年2月) 座敷の梁を解体撤去する。太い梁がすばらしい。 座敷と屋根の瓦葺き。 合力で杉丸太の切り出し風景。 座敷の外壁を漆喰仕上げ壁にする。 木小屋を焼き板仕上げにする。(2010年6月)ここまで2007年3月から2010年1月~7月の間、照明器具・土間掃除まで3年以上もかかったが、合力によるすばらしい取り組みで立派に仕上がった。 外ではプロのソバ打ち職人が打ちたてのソバをゆでている。 打ち立てのソバが茹で上がり美味しくいただいた。 村川邸前の風景。向こうに横倉の道路が見える。この村川邸に再び命が吹き込まれ、100年・150年と行き続けていくだろう。 村川邸の木小屋。倉庫になっている。 上から見た村川邸。今も工事中である。 上の道を見る。古い土壁のある道の風景。 バス停そばに地名についての説明板がある。それには「弓場」とは、平家ー門が来るべき合戦にそなえて弓の鍛錬をした場所と言う。その弓場から西方の「的場」をめがけて弓を射たと伝わっている。「館」とは平氏にかかわりのある人が住んでいた場所を言う。 バス停から元横倉分校の校舎が見える。 福泉坊の説明板。ここには行かなかった。説明によると「平通盛の遺子季盛から十五代目にあたる秀裔は京都本派本願寺顕如上人のもとに仏門に入り、秀円と改めた。秀円は天正十年に月高山福泉坊を建てた。境内には通盛の妻小宰相の局の墓がある。」 バス停前の風景。ここからバスは菅田の倉田邸に向う。 菅田の重厚な蔵と民家。ここは見に行かなかった。 弘法の井戸。向こうに休み石がある。 弘法の井戸のいわれが書かれている。 井戸から100mほど進み、左に上がった家が倉田邸である。 再生なった倉田邸。左が母屋で、右は長屋である。 倉田邸の母屋。明治14年に建築。右の白壁の長屋は築年数は不詳。 太い柱と梁。松材は後山の持ち山から切り出された。 天井を見る。そのままの姿を生かしている。 この梁は太く古民家ならではのものである。 柿渋を塗った黒光りする太い柱が見事である。 当時のままの木組みと柱。 縁側に張り出し手いる軒。大工・左官は地元の職人にである。合力はボランテアによる作業。 倉田邸を出てバスを待っていると、菅田神社の祭りで軽トラツクに載せられた御輿を引っ張っている子どもたちがやって来た。 B班が乗ったバスが来る待ち時間の間、井戸のそばの荒神社の階段を上がっていった。 荒神社の社殿。 神社の上を上がって生垣、石垣と民家の風景。 井戸と荒神社の間の道にある道標。 「左 松永道」横に「右 大師堂道」とある。井戸の横にある「休み石」には「大正十年春営所倉田増次郎設置」と刻まれていた。 下山南草深の岡崎邸に向う。手前に南泉坊があった。 再生された岡崎邸。丸窓に特徴がある。 岡崎邸前の道を見る。草深の奥方向である。 岡崎邸には「民家再生奨励賞」の表示が取り付けられていた。 母屋の隣の納屋も蘇っていた。内部は音楽堂となっていた。 入ロには「雅亮庵」と名前がつけられていた。上の板には「有自方不楽朋遠来亦乎」と書かれていた。 母屋の内部。黒光りする梁と柱。 曲がった梁をうまく生かしている。 天井を見る。当時のままの柱と梁。うまく生かし美しく仕上げている。 岡崎邸から少し奥に進むと、古い民家が残っていた。郷愁を感じる風景。 最後の訪問地の枝広邸に行く。山南川にかかる鶴ケ橋を渡る。 鶴ケ橋の北側に雁木と常夜燈がある。 山南川の下流を見る。その先は河ロとなる。 枝広邸と奥の集落を見る。 枝広邸の入ロ。枝広邸は現在福山市ぬまくま文化館となっている。三代にわたる町医者の家であった。 門を入ると数奇屋造り主屋がある。ここに入って行く。 風雅な趣きのある庭を見る。 こちらは南側の庭である。 熊野焼きの陶器展が開催されていた。これはコーヒー茶碗。 様々な茶器を見た。 即売もしていた。 気に入った作品。 展示の熊野焼を見る。いけばなも素晴らしい。陶器の展示を生かす演出をしている。 新聞記事より、「沼隈町の枝広家旧宅「地域文化館」で復活。住民の交流や展示会などに開放」と書かれている。 常夜燈の横にある「地神」 福山地域には地神が多い。 常夜燈を見る。 「奉納 八幡宮 金毘羅社」とある。 常夜燈の横に「文政十丁亥 八月吉日」(1827)と刻まれている。 管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会