大田庄の歴史と石造物を訪ねる旅
県史跡「神田第二号古墳」と「万福寺跡」の標示のところを入って行く。
入り道のそばに五輪塔の残欠があった。
廃万福寺に進む。
神田2号古墳は右に、廃万福寺跡は真っ直ぐ進む。
廃光明寺の宝篋印塔。調べている田ロ会長の姿。
説明しているところ。宝篋印塔の高さが感じられる。
五輪塔の残欠がある。下の石はなんだろうか?
遠くから眺めた宝篋印塔。その大きさが分かる。
もうー度眺めたが、美しい宝篋印塔だと思った。
田口会長と郷土史家の「蔵橋純海」先生が今回の案内者であり講師である。
宝篋印塔は総高2.44mで、世羅郡を代表する宝篋印塔である。
廃万福寺跡をめざして坂を上がって行く。
名前は調べなかったが神社に寄る。
狛犬が鎮座している。玉乗り型(尾道型)の狛犬である。
右側の阿型の狛犬。台座に「御大典紀念 献主児玉教全」とある。
常夜灯には「文久三発亥六月」まで読めた。
「大乗妙典塔」についての説明板。花崩岩製で126cm、万福寺跡の西の山すそにある。「五千部口道永禅定門宝智妙口禅定尼」「奉読誦大乗妙典年五千部為預修善根」 「天文ニ十 (四)年□月吉日」の銘文がある。これは中世のもので珍しい。小寺氏に関わる石塔と思われる。
これが銘文が刻まれている「大乗妙典塔」 である。
銘文を拓本に採ってみたところ。文字が部分的に読める。
舟形の後背にある石仏を見る。
万福寺跡と思われる一帯の風景。
倒れそうになっているお堂を見た。
内部はこのようで仏像はなかった。
苔むしている五輪塔群と宝篋印塔。
小さな社が五輪塔の横にある。
これに「南朝年号の「正平十三年」の紀年銘がある。
「県史跡 万福寺跡」の説明板。書かれているのは「太田庄京丸地頭大田氏(三善)、ついで堀越を中心とした興った堀越城主小寺氏らの護持を受けて栄えた中世の寺院である。現在は木造薬師如来を本尊とする小さい堂が残っている。」西の岡には「北朝年号 応安三年(1370)」紀念銘の宝篋印塔がある。東の岡には「南朝年号正平十三年(1357)」紀念銘の宝篋印塔がある。
五基の五輪塔群。右に行くと日南の宝篋印塔がある。
五輪塔の拓本を見る。
地輪だけが残っている。上に乗っていたものはどこにあるのか?
五輪塔群。地輪に仏像が彫られている。
藪の中には五輪塔群ろ宝篋印塔がある。みんな興味深くながめている。
蔵橋先生が五輪塔群について説明されている。
先生の話を真剣に聞いている。苔むした五輪塔に歴史を感じた。
「廃万福寺塔婆」の説明板。 万福寺は康徳寺の末寺で中世大田氏、小寺氏の護持をうけて中世に栄えた寺院である。 この塔婆は花崩岩製の七重の層塔で現高419cm、 相輪の請花・宝珠が欠損している。基礎の前面に「右石塔造立之」「志意趣者」「為四恩法界」「無遮平等」「大工藤原行口」「鷹安第三庚戊」(1370 北朝年号)」「八月時廿正七日大願主敬白」の銘文が刻まれている。
塔婆の銘文を拓本にしたもの。
これが「七重の層塔」である。(県指定重文) これはすごい。
ここが廃寺跡なのか?
上の斜面にある五輪塔。
小さな五輪塔の残欠を見る。
日南の宝篋印塔を見る。両側の五輪塔には「南無阿弥陀佛」と刻まれている。
「町指定重文 日南の宝篋印塔」説銘板。高さ180.5cm、万福寺の東に位置していた。基壇はしたニ段が切石造りで、上段は反花式である。四面に輪郭を巻き、格狭間が設けられている。脇に「奉書写阿弥陀経」 「正平十二年十一月(1357)](南朝年号) 「大願主僧契阿弥陀佛」の銘文が陰刻されている。
相輪は欠損しており別の小型のものが乗せられている。
横に長足五輪塔もある。
来た道を戻って行く。長閑な田舎の風景である。
世羅町の京丸の集落を見る。
神田第二号古墳を見るために急な石段を上がって行く。
神田第二号古墳の石室。終末期の畿内形古墳で「軸式片袖開きの石扉」を付けている。
石室の中を覗く。
説明板には「石扉」がある古墳は、全国的にも二例しかなく扉石が完存するのは他に例がなく、珍しく有名である。ただ石室の東側の石材が欠けている。
下から見ると「神田第ニ号古墳の石室」 がよく見える。
甲山の真言宗今高野山の仁王門に入って行く。仁王門は室町時代の建築である。
この場所に「明治九年から明治二十一年」まで甲山小学校・太田小学校があった。
大田荘域図。上が桑原方で下が大田方の領域であった。
宝篋印塔と五輪塔群が並んでいる。これは中世のものであろう。
粟島神社である。鳥居は低いが柱は太い。
「結界石」がある。今高野山の寺の区域を定めるために建てられた標柱。ー基に「大界外相西方、建武五年戊寅九月八日」(1330)とあり、他のー基には「大界外相北方」刻銘がある。現在、三基しかのこってないが寺域の東西南北に建てられていた。左手前の石柱には「明治四十四年四月吉日」とある。
カラマツ。これは県下では第ーの巨木で、根回り2.15m、樹高30mである。文化年間に作れた。西備名区にも「今高野山の落葉松」と書かれている。
立派な宝篋印塔だがこれは新しい。江戸期のものである。
甲山の町並みを見る。春欄漫の桜と町並みの風景を楽しみながら昼食をした。
昼食後、そばにあった「岡五輪塔」を見る。年代は分からなかった。
これは「日露戦役紀念碑」で砲弾型になっているのが珍しい。
御大典記念の常夜灯。
中原永安寺古石塔群。この石塔群がー帯に散在していたのを地元の住民が整備したもの。
多くは五輪塔群だが、正面に宝篋印塔があり。また九輪ではなく五輪塔の宝珠が乗せてあるのもあった。
石仏もあり、多くの石塔や石仏などが集められているかが分かる。
「石造庚申塔」の説明板。 この塔は地上120cmの自然石で、下端の幅70cm、上部に阿弥陀三尊の楚字と月輪、その下に「天正十一癸未年(1584)八月十ー日」 「這石塔者奉為庚卒供養者現世安全後世(以下地中)」 「重永在 片山三郎左衛門敬白」と銘文が陰刻されている。日本で庚申信仰が始められたのは平安時代からで室町時代からー般で行われるようになった。 世羅郡では中世・近世を通じて発見例がここしかない。庚申信仰は60日ごとにめぐつてくる庚申の日に関する信仰である。
これが「庚申塔」である。写真では銘文が読みにくい。
この石塔は何か分からなかった。
この神社について聞いたら、畑を耕していた人は「厳島神社」であると云われた。
久代城跡の説明板。それには「室町時代に久代氏が築いたものと思われるが、城跡に経塚(直径5m)が築かれ結晶石灰岩製の宝篋印塔が建っている。薬師堂の西側に宮地城跡があるが、ここは今高野山城の支城のーつで和智氏の家来が住んでいたと思われる」と書いてあった。
城の主郭跡にこごめ石の宝篋印塔が建っている。
こんもりと高くなったところにある宝篋印塔。大田庄の預所としてけん制を振るった久代氏の本拠であった。
近くで見たところ。立派なものである。
これは堀切で、よく残っていたのではっきりと分かる。
「久代谷五輪塔群」の説明板。この久代谷ー帯に、鎌倉時代の大田庄古文書に散見される久代ー族の屋敷跡があったと思われる。この五輪塔は鎌倉時代から室町時代にかけての墓石である。中のー基に「暦鷹ニ年三月五日勝口阿弥陀佛」(1339)の銘がある。
これが久代谷にある五輪塔群で、久代ー族の墓と考えられる。
近くで見るとよく五輪塔の形が分かる。
古さが感じられる五輪塔群で久代ー族のものであることに納得できる。
お堂の周りに五輪塔が集められている。興味深く調べているのが篠原副会長。
五輪塔があるところから見た久代谷の風景。
曹洞宗鳳林寺に向って行くところ。
鳳林寺を見る。本堂の屋根が印象的だった。
正面から見た鳳林寺の風景。
鳳林寺の五輪塔群。室町戦国時代、この地の山城城主であった下見氏の石塔群といわれている。
この自然石には「天正十三年 九月廿日」とあるが、中央の文字は読めなかった。
この宝篋印塔は湯浅氏の墓といわれ戦国時代の代表的なものである。
五輪塔群を眺める。
一石五輪塔もある。
辻堂から見た三川ダムの風景と五輪塔。
神社入ロの高台にある辻堂。建物は再建され新しい。
帰り道、「出雲神社」に立ち寄った。そこで見た石碑に「浩宮徳仁親王殿下参拝記念碑 昭和五十六年七月七日」とある。
出雲神社に上がって行く。後方に仁王門がある。
「下津屋仁王門のいわれ」が刻まれた石碑。昔から十余の坊名か伝わり「十二坊」とよばれていた。倉敷時代、大田庄桑原方橘氏の氏寺があったと高野山文書に記されている。ここから十二坊は氏寺跡と推定されている。今日、十二坊に関わる遺跡として仁王門・六柱権現(出雲神社)・安楽坊・古石塔などがある。仁王門は、十二坊入口を固める山門として氏寺建立当初からあったと推定される。現在の門及び仁王像は江戸時代の再興と推定される。と書かれていた。
仁王門と仁王像を覗いて観察している。
河佐駅から見た山城。頂上附近の桜が満開で美しかった。
福塩線の小さな「河佐駅」。ここで休憩した。
無人駅なのでホームに出て府中方向をながめた。
上下方向の鉄道線の風景。駅に入って来る手前で単線が二本に別れ上下ホームにつながる。この後、一路福山に帰る。天気もよく、多くの石造物を観察できた。
https://bingo-history.net/archives/21285https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2019/02/CCI_000121_31.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2019/02/CCI_000121_31-150x100.jpg活動報告県史跡「神田第二号古墳」と「万福寺跡」の標示のところを入って行く。 入り道のそばに五輪塔の残欠があった。 廃万福寺に進む。 神田2号古墳は右に、廃万福寺跡は真っ直ぐ進む。 廃光明寺の宝篋印塔。調べている田ロ会長の姿。 説明しているところ。宝篋印塔の高さが感じられる。 五輪塔の残欠がある。下の石はなんだろうか? 遠くから眺めた宝篋印塔。その大きさが分かる。 もうー度眺めたが、美しい宝篋印塔だと思った。 田口会長と郷土史家の「蔵橋純海」先生が今回の案内者であり講師である。 宝篋印塔は総高2.44mで、世羅郡を代表する宝篋印塔である。 廃万福寺跡をめざして坂を上がって行く。 名前は調べなかったが神社に寄る。 狛犬が鎮座している。玉乗り型(尾道型)の狛犬である。 右側の阿型の狛犬。台座に「御大典紀念 献主児玉教全」とある。 常夜灯には「文久三発亥六月」まで読めた。 「大乗妙典塔」についての説明板。花崩岩製で126cm、万福寺跡の西の山すそにある。「五千部口道永禅定門宝智妙口禅定尼」「奉読誦大乗妙典年五千部為預修善根」 「天文ニ十 (四)年□月吉日」の銘文がある。これは中世のもので珍しい。小寺氏に関わる石塔と思われる。 これが銘文が刻まれている「大乗妙典塔」 である。 銘文を拓本に採ってみたところ。文字が部分的に読める。 舟形の後背にある石仏を見る。 万福寺跡と思われる一帯の風景。 倒れそうになっているお堂を見た。 内部はこのようで仏像はなかった。 苔むしている五輪塔群と宝篋印塔。 小さな社が五輪塔の横にある。 これに「南朝年号の「正平十三年」の紀年銘がある。 「県史跡 万福寺跡」の説明板。書かれているのは「太田庄京丸地頭大田氏(三善)、ついで堀越を中心とした興った堀越城主小寺氏らの護持を受けて栄えた中世の寺院である。現在は木造薬師如来を本尊とする小さい堂が残っている。」西の岡には「北朝年号 応安三年(1370)」紀念銘の宝篋印塔がある。東の岡には「南朝年号正平十三年(1357)」紀念銘の宝篋印塔がある。 五基の五輪塔群。右に行くと日南の宝篋印塔がある。 五輪塔の拓本を見る。 地輪だけが残っている。上に乗っていたものはどこにあるのか? 五輪塔群。地輪に仏像が彫られている。 藪の中には五輪塔群ろ宝篋印塔がある。みんな興味深くながめている。 蔵橋先生が五輪塔群について説明されている。 先生の話を真剣に聞いている。苔むした五輪塔に歴史を感じた。 「廃万福寺塔婆」の説明板。 万福寺は康徳寺の末寺で中世大田氏、小寺氏の護持をうけて中世に栄えた寺院である。 この塔婆は花崩岩製の七重の層塔で現高419cm、 相輪の請花・宝珠が欠損している。基礎の前面に「右石塔造立之」「志意趣者」「為四恩法界」「無遮平等」「大工藤原行口」「鷹安第三庚戊」(1370 北朝年号)」「八月時廿正七日大願主敬白」の銘文が刻まれている。 塔婆の銘文を拓本にしたもの。 これが「七重の層塔」である。(県指定重文) これはすごい。 ここが廃寺跡なのか? 上の斜面にある五輪塔。 小さな五輪塔の残欠を見る。 日南の宝篋印塔を見る。両側の五輪塔には「南無阿弥陀佛」と刻まれている。 「町指定重文 日南の宝篋印塔」説銘板。高さ180.5cm、万福寺の東に位置していた。基壇はしたニ段が切石造りで、上段は反花式である。四面に輪郭を巻き、格狭間が設けられている。脇に「奉書写阿弥陀経」 「正平十二年十一月(1357)](南朝年号) 「大願主僧契阿弥陀佛」の銘文が陰刻されている。 相輪は欠損しており別の小型のものが乗せられている。 横に長足五輪塔もある。 来た道を戻って行く。長閑な田舎の風景である。 世羅町の京丸の集落を見る。 神田第二号古墳を見るために急な石段を上がって行く。 神田第二号古墳の石室。終末期の畿内形古墳で「軸式片袖開きの石扉」を付けている。 石室の中を覗く。 説明板には「石扉」がある古墳は、全国的にも二例しかなく扉石が完存するのは他に例がなく、珍しく有名である。ただ石室の東側の石材が欠けている。 下から見ると「神田第ニ号古墳の石室」 がよく見える。 甲山の真言宗今高野山の仁王門に入って行く。仁王門は室町時代の建築である。 この場所に「明治九年から明治二十一年」まで甲山小学校・太田小学校があった。 大田荘域図。上が桑原方で下が大田方の領域であった。 宝篋印塔と五輪塔群が並んでいる。これは中世のものであろう。 粟島神社である。鳥居は低いが柱は太い。 「結界石」がある。今高野山の寺の区域を定めるために建てられた標柱。ー基に「大界外相西方、建武五年戊寅九月八日」(1330)とあり、他のー基には「大界外相北方」刻銘がある。現在、三基しかのこってないが寺域の東西南北に建てられていた。左手前の石柱には「明治四十四年四月吉日」とある。 カラマツ。これは県下では第ーの巨木で、根回り2.15m、樹高30mである。文化年間に作れた。西備名区にも「今高野山の落葉松」と書かれている。 立派な宝篋印塔だがこれは新しい。江戸期のものである。 甲山の町並みを見る。春欄漫の桜と町並みの風景を楽しみながら昼食をした。 昼食後、そばにあった「岡五輪塔」を見る。年代は分からなかった。 これは「日露戦役紀念碑」で砲弾型になっているのが珍しい。 御大典記念の常夜灯。 中原永安寺古石塔群。この石塔群がー帯に散在していたのを地元の住民が整備したもの。 多くは五輪塔群だが、正面に宝篋印塔があり。また九輪ではなく五輪塔の宝珠が乗せてあるのもあった。 石仏もあり、多くの石塔や石仏などが集められているかが分かる。 「石造庚申塔」の説明板。 この塔は地上120cmの自然石で、下端の幅70cm、上部に阿弥陀三尊の楚字と月輪、その下に「天正十一癸未年(1584)八月十ー日」 「這石塔者奉為庚卒供養者現世安全後世(以下地中)」 「重永在 片山三郎左衛門敬白」と銘文が陰刻されている。日本で庚申信仰が始められたのは平安時代からで室町時代からー般で行われるようになった。 世羅郡では中世・近世を通じて発見例がここしかない。庚申信仰は60日ごとにめぐつてくる庚申の日に関する信仰である。 これが「庚申塔」である。写真では銘文が読みにくい。 この石塔は何か分からなかった。 この神社について聞いたら、畑を耕していた人は「厳島神社」であると云われた。 久代城跡の説明板。それには「室町時代に久代氏が築いたものと思われるが、城跡に経塚(直径5m)が築かれ結晶石灰岩製の宝篋印塔が建っている。薬師堂の西側に宮地城跡があるが、ここは今高野山城の支城のーつで和智氏の家来が住んでいたと思われる」と書いてあった。 城の主郭跡にこごめ石の宝篋印塔が建っている。 こんもりと高くなったところにある宝篋印塔。大田庄の預所としてけん制を振るった久代氏の本拠であった。 近くで見たところ。立派なものである。 これは堀切で、よく残っていたのではっきりと分かる。 「久代谷五輪塔群」の説明板。この久代谷ー帯に、鎌倉時代の大田庄古文書に散見される久代ー族の屋敷跡があったと思われる。この五輪塔は鎌倉時代から室町時代にかけての墓石である。中のー基に「暦鷹ニ年三月五日勝口阿弥陀佛」(1339)の銘がある。 これが久代谷にある五輪塔群で、久代ー族の墓と考えられる。 近くで見るとよく五輪塔の形が分かる。 古さが感じられる五輪塔群で久代ー族のものであることに納得できる。 お堂の周りに五輪塔が集められている。興味深く調べているのが篠原副会長。 五輪塔があるところから見た久代谷の風景。 曹洞宗鳳林寺に向って行くところ。 鳳林寺を見る。本堂の屋根が印象的だった。 正面から見た鳳林寺の風景。 鳳林寺の五輪塔群。室町戦国時代、この地の山城城主であった下見氏の石塔群といわれている。 この自然石には「天正十三年 九月廿日」とあるが、中央の文字は読めなかった。 この宝篋印塔は湯浅氏の墓といわれ戦国時代の代表的なものである。 五輪塔群を眺める。 一石五輪塔もある。 辻堂から見た三川ダムの風景と五輪塔。 神社入ロの高台にある辻堂。建物は再建され新しい。 帰り道、「出雲神社」に立ち寄った。そこで見た石碑に「浩宮徳仁親王殿下参拝記念碑 昭和五十六年七月七日」とある。 出雲神社に上がって行く。後方に仁王門がある。 「下津屋仁王門のいわれ」が刻まれた石碑。昔から十余の坊名か伝わり「十二坊」とよばれていた。倉敷時代、大田庄桑原方橘氏の氏寺があったと高野山文書に記されている。ここから十二坊は氏寺跡と推定されている。今日、十二坊に関わる遺跡として仁王門・六柱権現(出雲神社)・安楽坊・古石塔などがある。仁王門は、十二坊入口を固める山門として氏寺建立当初からあったと推定される。現在の門及び仁王像は江戸時代の再興と推定される。と書かれていた。 仁王門と仁王像を覗いて観察している。 河佐駅から見た山城。頂上附近の桜が満開で美しかった。 福塩線の小さな「河佐駅」。ここで休憩した。 無人駅なのでホームに出て府中方向をながめた。 上下方向の鉄道線の風景。駅に入って来る手前で単線が二本に別れ上下ホームにつながる。この後、一路福山に帰る。天気もよく、多くの石造物を観察できた。 管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会