広島県の中世山城(1)(吉野健志氏講演まとめ)
「備陽史探訪:156号」より
吉野健志氏講演
戦国期の居城を中心に
これは平成22年1月23日(土)備後遺族会館において吉野健志氏が講演された内容をまとめたものです。
1、「場」としての山城
「場」として現れたものに連歌会所がある。
①連歌会所としての山城
永正十三年(一五一六)六世紀初頭頃に月村斎宗硯が九州下向の折に、備後・安芸に立ち寄って、抜句(全部ではなく、一部の句)を詠んだもの中に、
◎「芸州野間掃部頭の山城にして」
五月雨や浦風はこふ峯の雲
芸州野間掃部頭の山城は、保木城、矢野城と言われる城だと思われるが、そこで詠んだ句と言える。
十九世紀初頭の絵図ですが矢野城は、広島の海田湾に面したところから標高四七〇mある、海から立ち上がっている城と言える。本丸からそのような風景が思い浮かぶような句である。
矢野城は、広島県史跡になっている。指定しているのは、お馬屋敷の場所。本丸部分は何の指定もされていない。本丸を保木城、馬屋敷の所を矢野城の名前として指定している。古い絵図面には、お馬屋敷としか書いていない。
恐らくは、この山の上のどこかで詠んだのではないか。と想定できる。
◎「芸州阿曽沼近江守山家にて」
鹿の音のそはぬや若葉下紅葉
阿曽沼近江守山家は、阿曽沼氏の本拠は、城とは書いてないが、鳥籠山城と言われている。そこが、山家に相応しい標高七〇m程の山である。
以上の二句が掲載されている。ただ城のどこで詠んだとは書いていない。
連歌もそうであるが、接客・接待をする場として城を使っている例として、信州伊那の地に神之峰城がある。麓からの比高が一四〇m程ある。
ここに、天文二年(一五三二)醍醐寺理性院巌助と言う人が、信州下向記の中、輿で登り、城主知久頼元(ちくよりもと)に宿所で接待を受けている。この山の上には、知久頼元の宿所があり、そこで京都の偉いお坊さんを接客出来る程の空間があった、といえる。
先ほどの、保木城、阿曽沼氏の山家にしても、連歌をする場所があった。普通は、会所(連歌会所)の機能を持った建物・場所が想定出来る。
②接客の場としての山城
更に、広島の例で言うと、広島市祇園の金山城(安芸武田氏の居城)がある。そこで、天文十(一五四一)年、大内義隆が安芸武田氏を滅ぼし、戦後処理をしていた時期に、遣明使策彦周良を大内義隆が安芸金山城に迎え、宴会を行い見送りに坂の下まで来たとある。恐らく山の麓まで見送りに来たのであろうと思われる。
それが金山城のどこかは、解らない。たとえば、ここは、千畳敷と言われる郭だが、城内に宴会の出来る施設があった。このような事を少し覚えておいて欲しい。
③家督相続の式典会場としての山城
儀式の空間として、「家督相続の式典会場としての山城」
大永三(一五二三)年毛利元就家督相続に当っての郡山入城に、吉日を選んで入っている。
元亀元(一五七〇)年、毛利元政、元就の七男が天野家へ養子に入る時に、米山入城を吉日にする。という話がでている。
[資料1]
246 毛利元就郡山入城日記
大永三年 日記
八月十日郡山入城候各被來候而禮儀相調候
これは、家督の相続のことが書いてある訳ではない。現象としては、郡山に入城したことが書いてある。そこに家臣団重臣が来て、禮を尽くした。
[資料2]
247 満願寺榮秀平佐元賢連署状
元就郡山御登城吉日之事さるとりの時大吉にて御座候
(大永三年)文月廿五日
入る日、入る時間が大吉であることを重視している、ことが言える。
ここで何をするという事ではなく、城に入る事を記している。これが家督を相続することを現象的に表現している。
天野元政の米山入城「イエ」そのものを象徴する存在
[資料3]
85 小早川隆景書状(折紙)
天野家に関する文書
の仍米山入城之儀 来月二日被仰調之由肝要候
(元亀元年)三月十七日
四月二日に城に入る日を決めた。これも入城と言う事が重要になってくる。
これらから、入城・登城することが、家督を相続することになる。この二つが資料としてあった。他に城に入る事が家督の相続なる事を、探してみたが見つけることが出来なかった。
何故ここで出てくるかと言うと、この二人は、順調に家を継いだ訳ではなく、他所から入って来る。出所と入る所と色々調整することが生じているのでたまたま文書に出て来た。
通常は、家督を相続する場合には、城に入る或いは城を明け渡す事が城内で行われていた事が、容易に想像出来る。
この様な儀式をする事がどういった事かと言うと、城に入ると言うことは、毛利家や天野家の家に入り家督を相続する事になる。城そのものが家そのものを象徴する、存在になっている。
2、山城に住む
お城に住んでいる事が解る例。
①山城に住む女性
女性に宛てた手紙の中でお城に住んでいるものとして、少ないが家族が住んでいればそこに城主も住んでいる可能性が高くなるであろうと考えられる。
[資料4]
元就からこめ山大かた殿御つほね
隆元からこめ山かミ御つほね
こめ山の奥方様の意であろうと思われるが、こめ山は、天野氏の居城の米山城を指しているものと思われる。
福原貞俊から、「さくらを御つめまいる」と、元春の手紙で「さくらを御つほね」宛のものがある。また、「櫻をつめより こ」から元清(能美氏‥元就の側室)毛利元清と天野元政の母になる。これが、「櫻を」にいた事を示すものである。
「櫻を」は、廿日市にある桜尾城のことで、櫻尾傘と書いてあるのもある。「傘」は、お城の一番高い場所を示す事を意味する。「御つめ」或いは「つめ」は、「詰ノ丸」の事でこれが宛所となっていることは、この「小少将」(乃美氏‥元就の側室)と言うのは桜尾城の詰ノ丸に住んでいた事になる。自身も「つめ」と書いているので、「小少将」(乃美氏)が詰の丸住んでいた事が判る。
何故、この桜尾城に住んでいたのかと言うと、毛利元清がこの当時桜尾城を居城としており、その実母が引き取られて住んでいた。と言う事は、毛利元清が山の麓に住んでいて、その母が山の城に住んでいるとは考えにくく、毛利元清も本丸、詰の丸に住んでいたであろう事はほぼ間違いないであろうと考えている。
山城に住む女性、天野興定夫人が米山大方と呼ばれていた。毛利元就の側室乃美氏が「桜尾おつめ」或いは「かさ」と呼ばれていたことでここに住んでいた事が判る。
米山城の見取り図で「本丸」と「二の丸」は長細く三〇mぐらいと考えても間違いない。掘り切りがあり、低い山である。比高が三〇m前後、小さな山で米山城と呼ばれるだけあって米粒のような山で小さなお城である。この上に住んでいたであろう。回りにそれらしき地形、地名も無いのでここの事であろう。
毛利元政が米山入城と言うことがあったが、ここに入った。天野氏が安芸国でも有力な国人だが、その居城がこの様な小さな城であった。桜尾城の本丸の部分は、公園になっていて地元から桂太郎の先祖が一時期ここの城主をしていて、その子孫の方に寄付し、それを不動産屋に売り払ってしまい上を平らにしてしまい城跡は全て残っていない。昭和四〇年頃の図が唯一のもの。
非常にもったいないが、厳島神主家の居城でもある。恐らくこの本丸と呼ばれる一番高い所に住んでいたと思われる。
②小倉山城「三重の上様」
もう一つ、お城に人が住んでいた例として、吉川氏が北広島町の「小倉山城」と言う城跡がある。広島県が中世城館遺跡の調査で発掘調査を行い、その時に明らかにされた事実が多くあり、ここで、「三重の上様」が吉川家の文書に出てくる。
吉川興経、当時の当主が自分のお祖父さんの国経を呼んだ言葉です。意味的には、三之丸のご隠居さんぐらいの言葉です。興経が上様と呼ぶ人この時点では、亡くなっているので、その所領をどうするかと言う文書で、興経が自分の後見人である国経を呼ぶ場合の言葉として出てくる。それには、「三重の」が付いている。恐らく「三重の丸」「二重の丸」と古文書に出てくることから、今では、「何重の丸」とかは出てこないが、この頃の文書には、結構出てくる。
「小倉山城」の本丸は、三角形の小さな部分です。「一之丸」の部分は、掘り切りを持ったピークの部分で、恐らく国経はここに居たのであろう。興経は恐らく本丸に居たであろうことが想定出来る。
ここでも、城の麓ではなく、山の上の城に住んでいた事が窺われる。そこに居住空間が有ったと言う事が出来る。
(以下続く)
https://bingo-history.net/archives/12429https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/09/mark.pnghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/09/mark-150x100.png中世史「備陽史探訪:156号」より 吉野健志氏講演 戦国期の居城を中心に これは平成22年1月23日(土)備後遺族会館において吉野健志氏が講演された内容をまとめたものです。 1、「場」としての山城 「場」として現れたものに連歌会所がある。 ①連歌会所としての山城 永正十三年(一五一六)六世紀初頭頃に月村斎宗硯が九州下向の折に、備後・安芸に立ち寄って、抜句(全部ではなく、一部の句)を詠んだもの中に、 ◎「芸州野間掃部頭の山城にして」 五月雨や浦風はこふ峯の雲 芸州野間掃部頭の山城は、保木城、矢野城と言われる城だと思われるが、そこで詠んだ句と言える。 十九世紀初頭の絵図ですが矢野城は、広島の海田湾に面したところから標高四七〇mある、海から立ち上がっている城と言える。本丸からそのような風景が思い浮かぶような句である。 矢野城は、広島県史跡になっている。指定しているのは、お馬屋敷の場所。本丸部分は何の指定もされていない。本丸を保木城、馬屋敷の所を矢野城の名前として指定している。古い絵図面には、お馬屋敷としか書いていない。 恐らくは、この山の上のどこかで詠んだのではないか。と想定できる。 ◎「芸州阿曽沼近江守山家にて」 鹿の音のそはぬや若葉下紅葉 阿曽沼近江守山家は、阿曽沼氏の本拠は、城とは書いてないが、鳥籠山城と言われている。そこが、山家に相応しい標高七〇m程の山である。 以上の二句が掲載されている。ただ城のどこで詠んだとは書いていない。 連歌もそうであるが、接客・接待をする場として城を使っている例として、信州伊那の地に神之峰城がある。麓からの比高が一四〇m程ある。 ここに、天文二年(一五三二)醍醐寺理性院巌助と言う人が、信州下向記の中、輿で登り、城主知久頼元(ちくよりもと)に宿所で接待を受けている。この山の上には、知久頼元の宿所があり、そこで京都の偉いお坊さんを接客出来る程の空間があった、といえる。 先ほどの、保木城、阿曽沼氏の山家にしても、連歌をする場所があった。普通は、会所(連歌会所)の機能を持った建物・場所が想定出来る。 ②接客の場としての山城 更に、広島の例で言うと、広島市祇園の金山城(安芸武田氏の居城)がある。そこで、天文十(一五四一)年、大内義隆が安芸武田氏を滅ぼし、戦後処理をしていた時期に、遣明使策彦周良を大内義隆が安芸金山城に迎え、宴会を行い見送りに坂の下まで来たとある。恐らく山の麓まで見送りに来たのであろうと思われる。 それが金山城のどこかは、解らない。たとえば、ここは、千畳敷と言われる郭だが、城内に宴会の出来る施設があった。このような事を少し覚えておいて欲しい。 ③家督相続の式典会場としての山城 儀式の空間として、「家督相続の式典会場としての山城」 大永三(一五二三)年毛利元就家督相続に当っての郡山入城に、吉日を選んで入っている。 元亀元(一五七〇)年、毛利元政、元就の七男が天野家へ養子に入る時に、米山入城を吉日にする。という話がでている。 [資料1] 246 毛利元就郡山入城日記 大永三年 日記 八月十日郡山入城候各被來候而禮儀相調候 これは、家督の相続のことが書いてある訳ではない。現象としては、郡山に入城したことが書いてある。そこに家臣団重臣が来て、禮を尽くした。 [資料2] 247 満願寺榮秀平佐元賢連署状 元就郡山御登城吉日之事さるとりの時大吉にて御座候 (大永三年)文月廿五日 入る日、入る時間が大吉であることを重視している、ことが言える。 ここで何をするという事ではなく、城に入る事を記している。これが家督を相続することを現象的に表現している。 天野元政の米山入城「イエ」そのものを象徴する存在 [資料3] 85 小早川隆景書状(折紙) 天野家に関する文書 の仍米山入城之儀 来月二日被仰調之由肝要候 (元亀元年)三月十七日 四月二日に城に入る日を決めた。これも入城と言う事が重要になってくる。 これらから、入城・登城することが、家督を相続することになる。この二つが資料としてあった。他に城に入る事が家督の相続なる事を、探してみたが見つけることが出来なかった。 何故ここで出てくるかと言うと、この二人は、順調に家を継いだ訳ではなく、他所から入って来る。出所と入る所と色々調整することが生じているのでたまたま文書に出て来た。 通常は、家督を相続する場合には、城に入る或いは城を明け渡す事が城内で行われていた事が、容易に想像出来る。 この様な儀式をする事がどういった事かと言うと、城に入ると言うことは、毛利家や天野家の家に入り家督を相続する事になる。城そのものが家そのものを象徴する、存在になっている。 2、山城に住む お城に住んでいる事が解る例。 ①山城に住む女性 女性に宛てた手紙の中でお城に住んでいるものとして、少ないが家族が住んでいればそこに城主も住んでいる可能性が高くなるであろうと考えられる。 [資料4] 元就からこめ山大かた殿御つほね 隆元からこめ山かミ御つほね こめ山の奥方様の意であろうと思われるが、こめ山は、天野氏の居城の米山城を指しているものと思われる。 福原貞俊から、「さくらを御つめまいる」と、元春の手紙で「さくらを御つほね」宛のものがある。また、「櫻をつめより こ」から元清(能美氏‥元就の側室)毛利元清と天野元政の母になる。これが、「櫻を」にいた事を示すものである。 「櫻を」は、廿日市にある桜尾城のことで、櫻尾傘と書いてあるのもある。「傘」は、お城の一番高い場所を示す事を意味する。「御つめ」或いは「つめ」は、「詰ノ丸」の事でこれが宛所となっていることは、この「小少将」(乃美氏‥元就の側室)と言うのは桜尾城の詰ノ丸に住んでいた事になる。自身も「つめ」と書いているので、「小少将」(乃美氏)が詰の丸住んでいた事が判る。 何故、この桜尾城に住んでいたのかと言うと、毛利元清がこの当時桜尾城を居城としており、その実母が引き取られて住んでいた。と言う事は、毛利元清が山の麓に住んでいて、その母が山の城に住んでいるとは考えにくく、毛利元清も本丸、詰の丸に住んでいたであろう事はほぼ間違いないであろうと考えている。 山城に住む女性、天野興定夫人が米山大方と呼ばれていた。毛利元就の側室乃美氏が「桜尾おつめ」或いは「かさ」と呼ばれていたことでここに住んでいた事が判る。 米山城の見取り図で「本丸」と「二の丸」は長細く三〇mぐらいと考えても間違いない。掘り切りがあり、低い山である。比高が三〇m前後、小さな山で米山城と呼ばれるだけあって米粒のような山で小さなお城である。この上に住んでいたであろう。回りにそれらしき地形、地名も無いのでここの事であろう。 毛利元政が米山入城と言うことがあったが、ここに入った。天野氏が安芸国でも有力な国人だが、その居城がこの様な小さな城であった。桜尾城の本丸の部分は、公園になっていて地元から桂太郎の先祖が一時期ここの城主をしていて、その子孫の方に寄付し、それを不動産屋に売り払ってしまい上を平らにしてしまい城跡は全て残っていない。昭和四〇年頃の図が唯一のもの。 非常にもったいないが、厳島神主家の居城でもある。恐らくこの本丸と呼ばれる一番高い所に住んでいたと思われる。 ②小倉山城「三重の上様」 もう一つ、お城に人が住んでいた例として、吉川氏が北広島町の「小倉山城」と言う城跡がある。広島県が中世城館遺跡の調査で発掘調査を行い、その時に明らかにされた事実が多くあり、ここで、「三重の上様」が吉川家の文書に出てくる。 吉川興経、当時の当主が自分のお祖父さんの国経を呼んだ言葉です。意味的には、三之丸のご隠居さんぐらいの言葉です。興経が上様と呼ぶ人この時点では、亡くなっているので、その所領をどうするかと言う文書で、興経が自分の後見人である国経を呼ぶ場合の言葉として出てくる。それには、「三重の」が付いている。恐らく「三重の丸」「二重の丸」と古文書に出てくることから、今では、「何重の丸」とかは出てこないが、この頃の文書には、結構出てくる。 「小倉山城」の本丸は、三角形の小さな部分です。「一之丸」の部分は、掘り切りを持ったピークの部分で、恐らく国経はここに居たのであろう。興経は恐らく本丸に居たであろうことが想定出来る。 ここでも、城の麓ではなく、山の上の城に住んでいた事が窺われる。そこに居住空間が有ったと言う事が出来る。 (以下続く)管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会備陽史探訪の会中世史部会では「中世を読む」と題した定期的な勉強会を行っています。
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