中世山城の「城名」(矢不立城と旗返山城を例にして)
「備陽史探訪:169号」より
田口 義之
名勝「帝釈峡」は、庄原市東城町帝釈を中心とした「上帝釈」、神石高原町相度の大瀬を中心とした「神龍湖」、帝釈ダムの堰堤から下流の「下帝釈」に分かれる。神龍湖は大正十三年(1924)に完成した帝釈ダムのダム湖で、本来は上流の帝釈地区や下帝釈と同じような渓谷が続いていた。
この神龍湖の湖面に緑の影を落としているのが矢不立城山である。神龍湖の中心大瀬から帝釈に続く遊歩道の、「桜橋」を渡ったところに城跡への登り道があり、約十分で山頂の主曲輪へ到着する。山頂の主曲輪(本丸)は十メートル四方の平坦地で西北に一段高い櫓台状の土段があり、「矢不立神社」が祀られている。
本丸から南には尾根に沿って三段の曲輪が築かれ、その下にも半月形の小曲輪が四段ほど残っている。南北七〇メートル、東西四〇メートルばかりの小さな山城跡である。現在、一帯は「矢不立城址公園」として整備され、手軽に山城歩きを楽しめるが、公園化によって破壊された部分も多い。城主として宮氏の名が伝わっている。
「矢不立」と書いて、「やたたず」と読む。珍しい城名で、固有名詞とみて良いだろう。
中世山城の「城名」はそれのみで、興味深い研究テーマである。各地に残る山城の城名は、おおく土地の名を採って呼ばれるものだが、中には、この矢不立城のように、往時の城名を伝えたものと推定されるものもある。矢不立城のように、その城固有の城名と推定されるもので、同時代史料で裏付けの取れるものもには、左の例がある。
三次市三若町の旗返山城。広沢江田氏の本城として知られる同城は、応仁の乱と戦国時代の天文二十二年(1553) の合戦で激しい戦場となり、「毛利家文書」や「平賀家文書」「湯浅家文書」、更には毛利氏関係の信頼できる覚書である「老翁物語」「二宮佐渡覚書」などに登場し、城が機能した時代以来、「旗返」が城名であったことが分かっている。また、江田氏の北に勢力を持った三吉氏の居城「比叡尾山城」も、「坪内文書」の発見によって、当時からそう呼ばれていたことが判明した。その他、木梨氏の鷲尾城(閥閲録四十一)、山内首藤氏の甲山(毛利家文書など)、宮氏の今大山(閥閲録五十七) 。滝山城(毛利家文書他)などが同時代史料で確認できる。
これらの城名は、「旗返」「比叡尾」「鷲尾」など、それなりに由緒のありそうな城名と、滝山、甲山など山名を城名にしたものに大きく二分出来る。矢不立城の場合は、前者に分類できそうだ。城主や城の縄張りの研究も大事だが「城名」自体も大事な研究テーマである。
https://bingo-history.net/archives/12657https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/9bf102dfcaed872dcecd25cab5e6e55e.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/9bf102dfcaed872dcecd25cab5e6e55e-150x100.jpg中世史「備陽史探訪:169号」より 田口 義之 名勝「帝釈峡」は、庄原市東城町帝釈を中心とした「上帝釈」、神石高原町相度の大瀬を中心とした「神龍湖」、帝釈ダムの堰堤から下流の「下帝釈」に分かれる。神龍湖は大正十三年(1924)に完成した帝釈ダムのダム湖で、本来は上流の帝釈地区や下帝釈と同じような渓谷が続いていた。 この神龍湖の湖面に緑の影を落としているのが矢不立城山である。神龍湖の中心大瀬から帝釈に続く遊歩道の、「桜橋」を渡ったところに城跡への登り道があり、約十分で山頂の主曲輪へ到着する。山頂の主曲輪(本丸)は十メートル四方の平坦地で西北に一段高い櫓台状の土段があり、「矢不立神社」が祀られている。 本丸から南には尾根に沿って三段の曲輪が築かれ、その下にも半月形の小曲輪が四段ほど残っている。南北七〇メートル、東西四〇メートルばかりの小さな山城跡である。現在、一帯は「矢不立城址公園」として整備され、手軽に山城歩きを楽しめるが、公園化によって破壊された部分も多い。城主として宮氏の名が伝わっている。 「矢不立」と書いて、「やたたず」と読む。珍しい城名で、固有名詞とみて良いだろう。 中世山城の「城名」はそれのみで、興味深い研究テーマである。各地に残る山城の城名は、おおく土地の名を採って呼ばれるものだが、中には、この矢不立城のように、往時の城名を伝えたものと推定されるものもある。矢不立城のように、その城固有の城名と推定されるもので、同時代史料で裏付けの取れるものもには、左の例がある。 三次市三若町の旗返山城。広沢江田氏の本城として知られる同城は、応仁の乱と戦国時代の天文二十二年(1553) の合戦で激しい戦場となり、「毛利家文書」や「平賀家文書」「湯浅家文書」、更には毛利氏関係の信頼できる覚書である「老翁物語」「二宮佐渡覚書」などに登場し、城が機能した時代以来、「旗返」が城名であったことが分かっている。また、江田氏の北に勢力を持った三吉氏の居城「比叡尾山城」も、「坪内文書」の発見によって、当時からそう呼ばれていたことが判明した。その他、木梨氏の鷲尾城(閥閲録四十一)、山内首藤氏の甲山(毛利家文書など)、宮氏の今大山(閥閲録五十七) 。滝山城(毛利家文書他)などが同時代史料で確認できる。 これらの城名は、「旗返」「比叡尾」「鷲尾」など、それなりに由緒のありそうな城名と、滝山、甲山など山名を城名にしたものに大きく二分出来る。矢不立城の場合は、前者に分類できそうだ。城主や城の縄張りの研究も大事だが「城名」自体も大事な研究テーマである。管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会備陽史探訪の会中世史部会では「中世を読む」と題した定期的な勉強会を行っています。
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