2010年04月09日

神辺、古城山の謎(黄葉山城との関係を考える)

備陽史探訪:153号」より

田口 義之

 神辺宿の散策は楽しいものだ。古い町並の散策は電車かバスを利用するのがいい。車で行ったのでは味わえない趣がある。

JR福塩線に乗って10分、電車は神辺駅に着く。駅前通りは50メートルほどで車両の往来激しい国道313号線に出る。ここで国道と交差したもう一本の道が左手に出てくるのに気づく、旧西国往還、所謂「旧山陽道」だ。

旧山陽道は、神辺宿に入ると屈曲して進む。神辺駅前から左に旧街道に入ると、先ず右折して本陣のあるメインストリートに入り、突き当たり(ここでは東に)で左折、さらに右折して菅茶山の廉塾のある通りにでる。この辺りを「七日市」という。因みに本陣のある辺りは「三日市」だ 。

江戸時代の宿場町にも関わらず、街道が屈曲しているのは、この地が神辺城の「城下町」として誕生したためだ。各地の城下町を訪ねると、大抵通りは見通せなくなっている。敵が攻め寄せてきた時の防禦のためだ。

神辺の城は、町並の南に聳える「黄葉山」にあった。最後の城主が福山城を築いた水野勝成で、櫓や城門などの建物や石垣まで福山城に持って行ったため、現地に残る城の遺構はほとんどない。

このように、福山城が築かれてからは、黄葉山にあった神辺城は、江戸時代の初め以来「古城」だったはずだが、神辺には黄葉山以外にもう一つ「古城」がある、それが地名にもなっている古城山だ。

「もう一つ」の「古城」は、神辺宿の東のはずれ、大字「平野」との境い目辺りに存在する。神辺から東に旧山陽道は、この古城山の南を通り、高屋川を渡って国分寺から岡山県井原市高屋町の「高屋宿」に通じる。

さて、問題はこの「古城山」と神辺黄葉山城の関係だ。

古城山と黄葉山の城を本城と出城の関係と理解することも可能だろう。事実、『西備名区』安那郡河北村のところには、「古城山、この山の半ばより平野村にかかれり」として、城主として上利右近、長田左京亮の名前を挙げている。

上利氏のことは判然としないが、長田左京亮は『陰徳太平記』にも登場する神辺城主山名理興、同杉原盛重の家臣である。
だが、現地に立ってみると、ここに神辺城の出城が築かれた理由が判然としない。麓からの高さ20mほどの小山に過ぎず、しかも神辺城の本丸からは眼下に見下ろすことが出来る。ここに守兵を置いても無意味にしか思えない。

それよりも注目したいのは、古城山の北方に「古市」の地名があることだ。「古市」は神辺宿の「三日市」「七日市」に対応し、より古く開かれた「市」を意味しよう。そうすると、三日市・七日市が神辺黄葉山城の築城と共に開かれた市とすれば、古市はその前の古城山に城があった頃の市ではなかったか、と言う仮説が誕生する。つまり、古城山は神辺黄葉山城の出城などではなく、黄葉山に城が築かれる前の「神辺城」であった可能性が浮かび上がって来るのだ。

『神辺町史』前編によると、古城山は大きな前方後円墳だという。以前この山から石棺が発見され、中から人骨と共に勾玉などが出土したからだが、町史の言う二百メートルの大前方後円墳というのはちょっと信じがたい。古城山の東の山塊に、足長古墳群や平野の江草古墳群が存在するから、かつて発見された石棺は、その一部と見たほうが良いだろう。

現在、山頂の南に西面して八幡神社が祀られている。傍らに残丘があり、土師器のかけらが散らばっている。古墳とすればこの丘が怪しい。直径10mの小円墳とするのが正しいようだ。

神辺城は、通説では、浅山備前守が建武二年(1335)十一月、今の黄葉山に築城したことになっている。浅山備前守は、正しくは朝山次郎左衛門尉景連といい、建武の中興でいち早く後醍醐天皇に味方し、その勲功によって備後守護職を拝領、この地にやって来た。元々は出雲国の豪族で、子孫に信長に重用された朝山日乗がいる。

通説では、朝山氏の築城以後、神辺黄葉山城には歴代の備後守護職が居城し、城下の神辺は備後の中心として栄えたとされる。
この説は、戦国時代、山名理興が城主となった天文年間(1532~55)以後は正しい。

だが理興以前は大いに問題がある。先ず、備後守護を世襲した山名氏の守護所は、最近の研究では尾道に置かれていたことが明らかになった。歴代守護は京都、或いは山名氏の本拠但馬国に居て、備後には守護代を派遣した。守護代を勤めたのは太田垣氏で、同氏が本拠としたのが尾道の赤城であったことは以前に紹介した。

山城の歴史で、黄葉山の山頂のような高峻な場所に城が築かれるようになるのは、室町中期以降である。

山城は鎌倉末期に「悪党」の根城として歴史の表舞台に登場し、南北朝時代には「楠本城」或いは赤松氏の「苔縄城」、備後でも府中市上下町の「有福城」など、文献上で多数の「城」が見られる。しかし、それらの城の多くは、現在ほとんど遺構がないか、あっても戦国期に手が加えられている。南北朝期の城は自然地形を最大限利用し、人手はほとんど加えられていないのが一般的だ。

山城が本格的に築城されるようになったのは、室町中期以降のことだ。義満、義持、義教の「花栄三代」全盛を極めた室町幕府も嘉吉元年(1441)の「嘉吉の乱」で将軍義教が赤松満祐の反逆で暗殺されて以後、幕府は義勝・義政と幼少の将軍が続き、幕府権力は秋の夕陽のようにつるべ落としに衰退していった。幕府は守護大名の党争の場となり、遂に「応仁の乱」の勃発によって、世は戦国乱世に突入する。

山城は、こうした社会不安の中で各地に築かれていった。南北朝期の城と違い、居住性と恒久性を持つようになった山城は、やがて大名・国人の居城として整備され、高石垣の上に白亜の天守閣が聳える、近世の城に連なっていく。
こうした「城の歴史」を振り返って見ると、南北朝期の神辺城は「古城山」の城こそふさわしい。では、黄葉山の山頂に城を築いたのは誰か、次の課題である。