正戸山城跡(福山市御幸町)

山城探訪」より

園尾 裕

正戸山城跡(南より)
正戸山城跡(南より)

福山市駅家町から深安郡神辺町にかけて広がる平野のほぼ中央部に位置する独立丘陵がある。西・北・東は福山市加茂町と境界を接するこの小山を正戸山と呼んでいる。丘陵のすぐ南側は古代の山陽道に沿っており、西側には加茂川が流れている。近年、丘陵南の平野は、広大な敷地を持つ福山平成大学が開校され、大きく発展を遂げようとしている。

標高約五〇メートル・比高三〇メートルの平野に孤立した感を呈するこの小山が城跡である。頂部からは、神辺平野のほぼ全域や神辺城跡・相方城跡なども眺望できる要衝の地である。しかし、この城がいつ築城されたかは明らかでない。江戸時代後期に編纂された【西備名区』『備陽六郡志』『福山志料』といった地誌によると、「小藤備前守が初めて築城したので小藤と云」ったとほぼ同様な記述がある。

正戸山城は、南北朝時代になって史料に散見する。一三三六(延元元)年、江良與太郎忠実が、足利尊氏に従って筑前国多々良浜の戦いにおいて武功をたてた恩賞として石(岩)成庄を賜っている。岩成庄は、現在の福山市御幸町下岩成を中心に深安郡神辺町から芦品郡新市町戸手あたりまでの広範な地であった。そして、下村(後の下岩成)に宗岡館を築き、この時点では正戸山城は、まだ築城されていなかったものと思われる。

一三四九(貞和五)年八月、「観応の擾乱」勃発を機に足利尊氏・高師直と足利直義・直冬、それに南朝方が加わっての争乱が備後地方にも展開された。一三五一(観応二)年六月頃には直義方の上杉顕能が備後の守護になっており、また、尊氏も備後国確保のために同年八月一日岩松頼宥を備後国守護として下向させている。頼宥は、三吉覚弁や長井貞頼らの協力を得て石崎城の上杉一族を破り、八月十三日正戸山城に本拠を構えている。三吉鼓家文書『岩松頼宥感状』によれば、

備後国石成上下城退治事、去十三日致軍忠之条、尤神妙、京都殊可注申之状如件 観応二年八月十五日 頼宥 (花押)三吉少納言御坊

とある。石成上下城とは、正戸山城の北東の丘陵(現在深安個地のある一帯)にあった石(岩)崎城を一緒にして言っているのである。

正戸山城跡略側図 1/2500 原図 尾賀多・トレース 山口
正戸山城跡略側図 1/2500 原図 尾賀多・トレース 山口

十月九日には、上杉顕能や新市の亀寿山城に本拠を置く宮盛重らに攻められている。こうして暫くの間両守護の対立が続いた。頼宥は、その後生国の上野国新田庄に帰り、細川頼元が備後国守護に入っている。

戦国時代になると正戸山城は、再び歴史上に登場してくる。宮三郎入道正信(正渡)が志川瀧山城の出城として正戸山城を整備し、一五四八(天文十七)年大内・毛利の神辺城攻撃では、宮次郎左衛門が、一五五二(天文二十一)年の志川瀧山城攻めで、正戸山城主の宮刑部少輔信政(入道正味)が滅ぼされている。その後、栗原左衛門尉信教(元政)が入り城の大改修をしたという。城主は、更に幾人も替わったことだろうが、一六〇〇(慶長五)年の関ヶ原の戦で亡くなった高橋権右衛門種義が、最後の城主としてその名が遺っている。

城の遺構は、北東から延びた低丘陵の先端部を空堀で区切り独立丘陵とし、頂部を削平して本丸郭を作っている。北方の下段には、馬場と呼ばれる広い郭が、また、西に一、南に一、東に大小併せて七つの郭が確認されている。頂上の一段高い所に石鎚神社が祀られ、その南西の平地には、一九三〇(昭和五)年に行なわれた陸軍大演習の記念碑である「御統監之跡」と彫られた大きな石碑が建てられている。

《参考文献》

  • 蒲生敬信『備後国古城記』(高田雄信の筆写本 一九〇六)
  • 福山市史編纂会『福山市史』上巻 一九六三
  • 広島県史編纂室『広島県史』古代中世資料編Ⅳ 一九七八
  • 広島県史編纂室『広島県史』中世 一九八四
  • 新人物往来社「日本城郭大系』13巻広島・岡山版 一九八〇
  • 園尾 裕「正戸山城跡」(『福山城博物館友の会だより』10号) 一九八〇
  • 藤井 定市『備南の懐古』 一九八六
  • 田口義之『備後の武将と山城』(芦田川文庫3) 一九八六
  • 舘上 昇『御幸郷土史』 一九九〇
  • 下津間康夫「正戸山城跡」(『備後の主要遺跡I』芦田川文庫17) 一九九四

【正戸山城跡】

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/04/4ae04a5f637a13d14c918bccbf60778b.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/04/4ae04a5f637a13d14c918bccbf60778b-150x100.jpg管理人中世史「山城探訪」より 園尾 裕 福山市駅家町から深安郡神辺町にかけて広がる平野のほぼ中央部に位置する独立丘陵がある。西・北・東は福山市加茂町と境界を接するこの小山を正戸山と呼んでいる。丘陵のすぐ南側は古代の山陽道に沿っており、西側には加茂川が流れている。近年、丘陵南の平野は、広大な敷地を持つ福山平成大学が開校され、大きく発展を遂げようとしている。 標高約五〇メートル・比高三〇メートルの平野に孤立した感を呈するこの小山が城跡である。頂部からは、神辺平野のほぼ全域や神辺城跡・相方城跡なども眺望できる要衝の地である。しかし、この城がいつ築城されたかは明らかでない。江戸時代後期に編纂された【西備名区』『備陽六郡志』『福山志料』といった地誌によると、「小藤備前守が初めて築城したので小藤と云」ったとほぼ同様な記述がある。 正戸山城は、南北朝時代になって史料に散見する。一三三六(延元元)年、江良與太郎忠実が、足利尊氏に従って筑前国多々良浜の戦いにおいて武功をたてた恩賞として石(岩)成庄を賜っている。岩成庄は、現在の福山市御幸町下岩成を中心に深安郡神辺町から芦品郡新市町戸手あたりまでの広範な地であった。そして、下村(後の下岩成)に宗岡館を築き、この時点では正戸山城は、まだ築城されていなかったものと思われる。 一三四九(貞和五)年八月、「観応の擾乱」勃発を機に足利尊氏・高師直と足利直義・直冬、それに南朝方が加わっての争乱が備後地方にも展開された。一三五一(観応二)年六月頃には直義方の上杉顕能が備後の守護になっており、また、尊氏も備後国確保のために同年八月一日岩松頼宥を備後国守護として下向させている。頼宥は、三吉覚弁や長井貞頼らの協力を得て石崎城の上杉一族を破り、八月十三日正戸山城に本拠を構えている。三吉鼓家文書『岩松頼宥感状』によれば、 備後国石成上下城退治事、去十三日致軍忠之条、尤神妙、京都殊可注申之状如件 観応二年八月十五日 頼宥 (花押)三吉少納言御坊 とある。石成上下城とは、正戸山城の北東の丘陵(現在深安個地のある一帯)にあった石(岩)崎城を一緒にして言っているのである。 十月九日には、上杉顕能や新市の亀寿山城に本拠を置く宮盛重らに攻められている。こうして暫くの間両守護の対立が続いた。頼宥は、その後生国の上野国新田庄に帰り、細川頼元が備後国守護に入っている。 戦国時代になると正戸山城は、再び歴史上に登場してくる。宮三郎入道正信(正渡)が志川瀧山城の出城として正戸山城を整備し、一五四八(天文十七)年大内・毛利の神辺城攻撃では、宮次郎左衛門が、一五五二(天文二十一)年の志川瀧山城攻めで、正戸山城主の宮刑部少輔信政(入道正味)が滅ぼされている。その後、栗原左衛門尉信教(元政)が入り城の大改修をしたという。城主は、更に幾人も替わったことだろうが、一六〇〇(慶長五)年の関ヶ原の戦で亡くなった高橋権右衛門種義が、最後の城主としてその名が遺っている。 城の遺構は、北東から延びた低丘陵の先端部を空堀で区切り独立丘陵とし、頂部を削平して本丸郭を作っている。北方の下段には、馬場と呼ばれる広い郭が、また、西に一、南に一、東に大小併せて七つの郭が確認されている。頂上の一段高い所に石鎚神社が祀られ、その南西の平地には、一九三〇(昭和五)年に行なわれた陸軍大演習の記念碑である「御統監之跡」と彫られた大きな石碑が建てられている。 《参考文献》 蒲生敬信『備後国古城記』(高田雄信の筆写本 一九〇六) 福山市史編纂会『福山市史』上巻 一九六三 広島県史編纂室『広島県史』古代中世資料編Ⅳ 一九七八 広島県史編纂室『広島県史』中世 一九八四 新人物往来社「日本城郭大系』13巻広島・岡山版 一九八〇 園尾 裕「正戸山城跡」(『福山城博物館友の会だより』10号) 一九八〇 藤井 定市『備南の懐古』 一九八六 田口義之『備後の武将と山城』(芦田川文庫3) 一九八六 舘上 昇『御幸郷土史』 一九九〇 下津間康夫「正戸山城跡」(『備後の主要遺跡I』芦田川文庫17) 一九九四 【正戸山城跡】備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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