2010年10月01日

古文書を読み解く楽しみ2(山手銀山城は高須氏が相続したか?)

備陽史探訪:156号」より

木下 和司

杉原総領家の所領に関する史料から

 一年くらい前から気になっている古文書が一通ある。『萩藩閥閲録遺漏』「巻4の2 高須直衛書出」に残る「木梨陸恒書状」である。五年くらい前から永正~天文年間(十六世紀前半)の備後に関する史料整理を行ってきた。この史料整理の結果をまとめて次回の『山城志』に、備後を代表する戦国武将・山名理興の出自に関する見解を発表した。この過程で非常に気になりながら、前記の論文に組み込めなかったのが左記に示す史料である。

「木梨陸恒書状」

杉原本郷方之事、子細候て我等申付候へ共、御めいわく承候間進之候、可有御知行儀、旨儀ハ以面申承候間不能子細候、恐々謹言、
三月十六日     陸恒 判
高須中務大夫殿

何が気になっているかというと、杉原本郷、即ち、杉原総領家の所領に関する史料だからである。著者は、十五年ほど前から杉原氏の研究をしている。杉原氏の出自について備後地域の通説では国衙在庁官人とされていたが、伊勢平氏である平頼盛(平清盛の異母弟)の家人であり、鎌倉幕府奉行人の家系であったことを論証した(①)。また、南北朝期に活躍した杉原光房が室町幕府奉行人であり、足利直義(尊氏の弟)・直冬(尊氏の長子)の側近であったことを示した(②)。杉原総領家は光房以降、幕府奉公衆に転じて直光・満平と続いて、享徳元(一四五二)年の左京亮親宗を最後に備後での活動を確認できなくなる。次に総領家と考えられる人物が備後で登場するのは、天文十五(一五四六)年の杉原豊後守となり、約百年間、杉原総領家の備後での足跡が認められず、親宗と豊後守の関係は全く不明なのである。豊後守の跡は、弘治三(一五五七)年に杉原盛重が継承したと考えられる。盛重が毛利氏の中枢で活躍したために、盛重以降の杉原氏に関しては豊富に史料が存在しており、天正十二年八月の杉原景盛の討滅までその足跡を辿ることができる。現時点で、著者が考える杉原氏に関する最大の謎は、盛重と総領家の拘わりである。それを解く鍵が、前述の「木梨陸恒書状」にあると考えているのであるが、単発の史料であるためどんな形で総領家と木梨・高須両庶子家との関係を考えたらよいのか明確な方向性を掴めないでいる。

杉原総領家の備後での活動は、享徳元年の左京亮親宗以後、認められないが、京都では確認が取れる。

・明応元(一四九二)年ごろの奉公 衆の番帳に五番として「杉原伯耆守」が認められる(③)。

・永正十二(一五一五)年、足利義 植の三条御所御移次第に「杉原四郎」と見える(④)。

永正十二年以降は、京都でも杉原総領家の確認はとれなくなる。前述の「木梨陸恒書状」の内容を確認してみると、「杉原本郷について、子細があって木梨氏に知行するように申付けられたが、迷惑なので高須中務大夫に知行してもらいたい」と申し入れている。杉原本郷は深津郡内にあり、現在の備後本庄付近を指す(⑤)。では、この書状の発給年次はいつなのであろうか。可能性が高いのは大永七(一五二七)年である。木梨氏と高須氏は杉原信平を家祖とする非常に近い同族であるため、所領関係が錯綜していたようで戦国期には敵対する陣営にいることが多かった。山名氏が尼子氏との同盟関係を解消して大内氏と同盟を結んだことを契機として(⑥)、木梨氏と高須氏は共に山名氏旗下となる。その時期は大永六年末から大永七年までである。大永六年十一月、木梨氏が高須氏に尾道・三原の所領を給与することで一味となっている。しかし、大永八年二月、山名誠豊が病没する以前に木梨氏は山名氏を裏切り尼子方に転じている(⑦)。「木梨陸恒書状」の発給日付は三月十六日であるため、発給年次は大永七年に比定される。この時、木梨氏は山名氏の旗下にいたことになるから、杉原本郷を闕所扱いとし木梨に給与したのは山名氏と考えられる。しかし、木梨氏は杉原本郷を所領とすることに大きな懸念を抱いたようで、高須氏に知行するように伝えている。しかし、高須氏にも杉原本郷を知行した形跡はない。

現時点では、なぜ杉原本郷は闕所とされたのか(1)、木梨・高須両氏はなぜ杉原本郷を知行としなかったのか(2)、というのが大きな謎である。(1)については、大永七年二月、管領細川高国が細川晴元に敗れて将軍足利義晴、評定衆・奉行人を連れて京都から没落している。この京都での大きな政変により杉原総領家が断絶した可能性がある。但し、これに関しては細川高国の没落と山名氏の関係を精査してみる必要がある。(2)についても、杉原本郷を知行することは総領職を手に入れることを意味するのに、なぜ木梨・高須両氏が所領化をいやがったのか分からない。杉原本郷の領有には何らかの大きな障害があったと考えられる。単発の史料である「木梨陸恒書状」だけから「杉原本郷」に迫る手法は限界のようである。

長享元(一四八七)年に将軍足利義尚が近江守護六角高頼を攻めた時、義尚に従った奉公衆の名簿が残されている(⑧)。この名簿の四番衆に興味を引く実名が残されている。

「常徳院殿御動座當時在陣衆着到」

四番  (前略)、
杉原太郎左衛門尉盛平。 同中務丞盛恒。 同左京亮和助。 同三郎左衛門尉盛重。 同彦六。 (後略)。

杉原氏、木梨氏、高須氏は奉公衆に属しているが、京都系杉原氏が三番衆、木梨・高須氏が四番衆、杉原総領家が五番衆に属していた。右記の着到は四番衆から抜粋しているので、木梨・高須氏に属する武士のものである。一瞬度ドッキリする名前が「杉原三郎左衛門尉盛重」である。盛重は木梨氏か高須氏の庶子だったのかと考えたが、盛重は永禄年間に「左近允」の官途を名乗っているから別人であろう。

杉原盛平は木梨氏である。盛平は延徳二(一四九二)年には没したようで、杉原苧原に関する訴訟に太郎法師(盛平嫡子)が現れている。一方、大永六(一五二六)年、高須氏に尾道・三原の屋敷を給与した木梨陸恒は中務丞盛恒と同一人物の可能性が高い。永正年間(一五○四~二一)に木梨氏は一時的に渋川義陸の支配下に入っており、盛恒が義陸の偏諱を受けて「陸恒」に改名した可能性がある。このため盛平の後継者である太郎法師は病没したか、若しくは家督相続争いによって廃嫡されたと思われる。

十五世紀後半から十六世紀前半の高須氏については、駿河守元忠から中務丞盛忠、盛忠から右馬助元盛へと家督が相続される。何れもこの時期の奉公衆の番帳には現れないため、高須氏は戦国期の騒乱を受けて奉公衆から離脱していたと考えられる。高須氏は元忠の時代から守護山名氏と強く結びついている。大永七年に闕所扱いとなった杉原本郷は、山名氏から木梨氏へ給与されようとするが、奉公衆としての側面が強く、山名氏との関係が希薄な木梨氏は山名氏の申出を受けず、山名氏との関係が強い高須氏に譲ろうとした可能性が強いと思う。前述したように大永七年末には木梨氏は山名氏を裏切り、尼子方となっている。しかし、高須氏にも杉原本郷を知行した形跡は認められない。

大永八(一五二八)年五月、備後守護山名祐豊の命を受けた山名理興(彦次郎)が備後に下向してくる(⑨)。天文十五(一五四六)年には理興の重臣として杉原豊後守が確認される。大永八年の理興の備後下向に伴い闕所扱いとされていた杉原本郷を、山名祐豊・理興の強い推挙を受けた誰かが相続したと思われる。木梨氏は大永七年末には山名氏を裏切っているから除外される。結論としては、文明年間から山名氏と結びつきの強かった高須一族の誰かと推測される。弘治年間以降の山手杉原氏の実名である盛重、元盛、景盛から推測すれば、高須盛忠の子息で元盛の弟の可能性が高いと思う。杉原本郷が備後本庄地区にあったことから、山手銀山城が杉原総領家の本城と考えられ、総領家(光房流)の断絶を受けて、高須氏の庶子が杉原本郷を領有し、山手銀山城主になったのではないかと推測される。

本稿は、現時点の思いつきをまとめた感があるため、今後、大永~天文年間の史料を精査して、正確な論述ができるようにしたいと思う。

【補注】
①『山城志』第16集
②『山城志』第15集
③ 今谷 明「『東山殿時代大名外様 附』について」(『史林』63―6)
④『益田家文書之一 』ニ六四号
⑤ 退蔵寺釈迦如来胎内文書
⑥『山内首藤家文書』221号
⑦『萩藩閥閲録』巻67 高須惣左 衛門書出
⑧『群書類従』巻第五百十一
⑨『山口県史』史料編中世3 所収 「湯浅家文書」

銀山城跡

銀山城跡