「備陽史探訪:16号」より
種本 実
はじめに
福山市勢のここ20年間の拡大は例えば下図に示すように、著しいものがあるが、その主な要因として日本鋼管福山製鉄所(以下「鋼管」と略)の進出によるところが非常に大きいことは市民の誰もが認めるところであろう。
鋼管の進出は、元和5年(1619)に新領主となった水野勝成公以来の干拓工事と新しい町づくりが行なわれ、市民生活に大きな影響を及した。本稿では鋼管の進出により、新しく生れた町や大きく変った町の歴史、そして変りゆく町と共に生きた人々の生活の推移に焦点を当て、「歴史の中に人生を見る」という持論を展開したい。
その1、鋼管町・引野町①
「鋼管町」という地名が登録されたのは、昭和41年8月26日である。鋼管町は名の通り鋼管の敷地そのものであり、今回は鋼管の誘地から今日に至るまでの歴史を述べてみる。
福山市勢推移
| 昭和36年 | 昭和56年 |
---|
人口 | 14万6000人 | 34万8000人 |
---|
世帯数 | 3万2100戸 | 10万6200戸 |
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当初予算 | 18億9800万円 | 1149億2800万円 |
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福山市では昭和32年できた工場設置奨励条例により工業都市への脱皮を図り、日本エクスラン、大昭和製紙などの企業誘致の夢を追い続け、結局鋼管との誘致協定を結んだのが昭和36年10月である。
この協定は当時の池田首相の仲介で結ばれ、内容は、県が730万平方メートル(約220万坪)の埋立て地を造成し、鋼管に坪5000円で渡す(実際は5500円となる)、他航路や工業用水の整備等条件となり県や市にとって多額の支出となった。
それまでのあらゆる工事の日本記録、1契約80億円を越える約140億円の埋立て工事は、水野組(現・五洋建設)により昭和37年3月から昭和40年にかけて行なわれた。
まず、引野沖600mと手城町天当山を結ぶ、深さ5m、幅20m延長2.2kmの海底の泥土を掘り起しジャリと置換え、松材で仮護岸を作る作業が始まった。海底はシルト(ヘドロ)で掘り易い反面、後の工場建設にはまるで”おしるこ“の上に建設する様な状態で、軟弱な地盤は大きな障害となった。
この障害も後に土木学会賞に輝いた技術力で克服し、工場の建設が進み、昭和40年5月には製品第1号の鋼材を満載した30台のトラックが東洋工業へ向った。
高炉の火入れは第一高炉が昭和41年8月、以後43・44・46・48年に第五高炉へと続いた。そして昭和50年3月には年間粗鋼生産1350万トンを達成する大製鉄所となった。現在は第二・三・四高炉が稼働中であり、年間粗鋼生産量は650~700万トンである。
昭和40年までに行った埋立て工事は、1日5000立方メートルでの土砂をくみ出すポンプ船11隻、1隻で1日1000立方メートルのドロを掘り起すプリストマン式しゅんせつ船19船団76隻、島や海浜からの石船延べ2万隻、砂船3万隻、ダンプ述べ36万台、海底の土砂5500万立方メートル、グリ石100万立方メートル、砂400万立方メートルが、山土200万立方メートルが使われている。
鋼管の建設により漁場を失った地元の人々の生活の変化や、工事に携わった人々については次回から述べることにする。
引用資料
- 朝日新聞 昭和57年4月~9月(備後きょう・あす日本鋼管)
- 中国新聞 昭和37年~40年(鋼管関係の記事)
- NKK福山 昭和55年3月~6月(一五年の流れをたどって)
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わが町 日本鋼管とともに(3)
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種本 実 はじめに
福山市勢のここ20年間の拡大は例えば下図に示すように、著しいものがあるが、その主な要因として日本鋼管福山製鉄所(以下「鋼管」と略)の進出によるところが非常に大きいことは市民の誰もが認めるところであろう。 鋼管の進出は、元和5年(1619)に新領主となった水野勝成公以来の干拓工事と新しい町づくりが行なわれ、市民生活に大きな影響を及した。本稿では鋼管の進出により、新しく生れた町や大きく変った町の歴史、そして変りゆく町と共に生きた人々の生活の推移に焦点を当て、「歴史の中に人生を見る」という持論を展開したい。 その1、鋼管町・引野町①
「鋼管町」という地名が登録されたのは、昭和41年8月26日である。鋼管町は名の通り鋼管の敷地そのものであり、今回は鋼管の誘地から今日に至るまでの歴史を述べてみる。 福山市勢推移
昭和36年
昭和56年 人口
14万6000人
34万8000人 世帯数
3万2100戸
10万6200戸 当初予算
18億9800万円
1149億2800万円 福山市では昭和32年できた工場設置奨励条例により工業都市への脱皮を図り、日本エクスラン、大昭和製紙などの企業誘致の夢を追い続け、結局鋼管との誘致協定を結んだのが昭和36年10月である。 この協定は当時の池田首相の仲介で結ばれ、内容は、県が730万平方メートル(約220万坪)の埋立て地を造成し、鋼管に坪5000円で渡す(実際は5500円となる)、他航路や工業用水の整備等条件となり県や市にとって多額の支出となった。 それまでのあらゆる工事の日本記録、1契約80億円を越える約140億円の埋立て工事は、水野組(現・五洋建設)により昭和37年3月から昭和40年にかけて行なわれた。 まず、引野沖600mと手城町天当山を結ぶ、深さ5m、幅20m延長2.2kmの海底の泥土を掘り起しジャリと置換え、松材で仮護岸を作る作業が始まった。海底はシルト(ヘドロ)で掘り易い反面、後の工場建設にはまるで”おしるこ“の上に建設する様な状態で、軟弱な地盤は大きな障害となった。 この障害も後に土木学会賞に輝いた技術力で克服し、工場の建設が進み、昭和40年5月には製品第1号の鋼材を満載した30台のトラックが東洋工業へ向った。 高炉の火入れは第一高炉が昭和41年8月、以後43・44・46・48年に第五高炉へと続いた。そして昭和50年3月には年間粗鋼生産1350万トンを達成する大製鉄所となった。現在は第二・三・四高炉が稼働中であり、年間粗鋼生産量は650~700万トンである。 昭和40年までに行った埋立て工事は、1日5000立方メートルでの土砂をくみ出すポンプ船11隻、1隻で1日1000立方メートルのドロを掘り起すプリストマン式しゅんせつ船19船団76隻、島や海浜からの石船延べ2万隻、砂船3万隻、ダンプ述べ36万台、海底の土砂5500万立方メートル、グリ石100万立方メートル、砂400万立方メートルが、山土200万立方メートルが使われている。 鋼管の建設により漁場を失った地元の人々の生活の変化や、工事に携わった人々については次回から述べることにする。 引用資料 朝日新聞 昭和57年4月~9月(備後きょう・あす日本鋼管)
中国新聞 昭和37年~40年(鋼管関係の記事)
NKK福山 昭和55年3月~6月(一五年の流れをたどって) <関連記事>
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わが町 日本鋼管とともに(4)管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会
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