2013年12月01日

遍照閣顛末記(倒壊した薮路街道のお堂)

備陽史探訪:175号」より

根岸 尚克

福山市千田町旧薮路街道に存在したお堂について

市内千田町の旧薮路街道の三軒屋に在った「遍照閣」の額が揚がっていたお堂が、平成二十年八月十三日早朝到々倒れてしまった。三十度以上傾いていつ倒れてもおかしくない状態であった。その折棟札が二枚見つかってこの堂の創建の時期が明らかになった。

倒壊する前の遍照閣

倒壊する前の遍照閣

一札は横書きで

奉献 本尊三佛文久元(一八六一)年春 施主角田弥兵衛

と三行に書かれていた。もう一札には縦書きで

明治参拾六年 大師堂新築大工羽原五平 五月拾弐日(以上 上部半分) 世話方(ここだけは横書き)佐藤要助 高垣徳助 中野岩吉(以上 下部半分)

遍照閣の札

遍照閣の札

その他にこの堂には横書きで「遍照閣」角田弥兵衛書(ここは縦書き)と書かれた木の額が掲げてあった。これ等の事から種々な事が分かって来た。

文久元年は万延二年に改元(年号を改める)したもので、辛酉の年に因む改元である。中国古代の予言思想である讖緯星気ではある辛酉の年に政体上の変事があると千三百六十年後(一部)にも政変があると言う。之を嫌い辛酉の年には必ずと言っていい位に改元した。角田弥兵衛はこの事を良く知っていて世の中の安寧を願って堂を建立し三佛を祀ったのである。この三佛は現在も現地に在り、真中に弘法大師、左に千手千眼観世音菩薩、右に地蔵菩薩である。角田家では、先祖がこの堂を建てたと伝えられていたが棟札が見つかった事でこの事が確認された。

次に明治参拾六年の棟札であるが、この年には第十八帝国議会が開かれている。そして翌年には日ロ戦争が勃発している。この事と何か関連しているに違い無い。棟札には新築とあるが、実際には大改修であったと思われる。そしてこの時に八十八カ所の一番「霊山寺」が祀られた。(現在は盈進中高等学校上り口の所に結番の八十八番と共に移転している)。所で平成五年に奈良津町東西老人クラブがこの当りの八十八カ所を調べた時の図や文章が残っているが

山陽自動車道の高架を過ぎた所で二番を発見した。その道を更に進んでいくと地蔵堂らしき堂字があったが、中央にお大師さん、右に地蔵、左に釈迦像が安置され、外に数体の像が置かれてあり、言々

と書かれている。この時には一番は盈進中高等学校上り口の所に移されていなくて遍照閣の中に安置されていた事が分かる。更に「遍照閣」の額であるが、讃岐の善通寺の堂の一つに同名の堂があり、それに擬(なぞら)えて名付けたのであろう。この当りの有志が八十八カ所を作り、一番をこの堂に安置した事が分かる。尚、八十八番は前述の如く現在は盈進中高等学校上り口にあるが当初は岩明神社下に在ったと伝えられている。堂の中には将棋の駒の形をした馬の供養碑が三基在った。一基は六頭の馬が彫られている。一基は一頭が彫られている。このタイプは薮路街道の奈良津町に至る峠頂上付近迄に六基程点在している。(この坂は「薮路天神坂(坂の途中の山中に天神社が在る)馬殺し」と言われ、城下町に荷物を運ぶ馬車馬の消耗が激しかつたのであろう。『福山志料」には、千田村馬十八とある。その他、「高垣氏」と刻まれた地蔵石佛があり、子孫の方に渡された。之は明治参拾六年棟札の世話方、高垣徳助が納めたものであろう。他に姓の刻まれていない石佛も二基程あり、同じく世話方の佐藤氏と中野氏のものであろう。
遍照閣

所で前述の平成五年の八十八カ所調査でこの当りの八十八カ所が、千田、奈良津、横尾、坂田、向陽、高美台、緑陽、緑ケ丘と広範囲に亘る事が改めて判明したが、何体かは道路拡張や新設で所在不明となっている。その中に四十四番もあるが、之は、少し事情が違うのではなかろうか。八十八カ所では、一番と八十八番が同じ所に置かれている。中間の四十四番や四十五番は大師堂を建て小高い所に設置されている。2番と八十八番も大師堂の場合が多い)場合が多い。当地区の四十四番も近くの高台に見つかるかも知れない。所で『福山志料』薮路村の所には、憩亭一とある。この堂が該当するのではないのかと思っていたのだが、そうではなさそうである。

▼平成5年調査(奈良津東西老人クラブ)千田町八十八カ所石仏所在位置図

千田町八十八ケ所