地頭について(沙汰未練書から地頭職・得分の実態を考察する)

備陽史探訪:81号」より

木下 和司

中世の武士達と切っても切れない関係を持つ言葉に「地頭」がある。鎌倉時代後期の成立と言われている『沙汰未練書(さたみれんしょ)』(沙汰とは鎌倉幕府の訴訟制度を指し、未練は未だ練れずだから、幕府訴訟手続きの入門書をのこと)には、

地頭トハ。右大将家以来代々将軍家に奉公し御恩を蒙りし人の事也

とある。これだけでは「地頭」が何なのかは解らない。鎌倉時代、地頭となった武士達は御家人とも呼ばれているから、同じく『沙汰未練書』で「御家人」を引いてみると

御家人家トハ、往昔以来の開発領主(かいほつりょうしゅ)為り。武家の御下文賜う人の事也」

とある。ここにいう御下文は、所謂「地頭」補任状を指しているから、鎌倉幕府から地頭に任命された武士(開発領主)=御家人ということになる。一例として源頼朝が島津忠久に充てた地頭補任状を見てみよう。

           頼朝
          (花押)
下 伊勢国波出御厨(はでもくりや)
 補任 地頭職事
   左兵衛尉惟宗忠久
右件所者故出羽守平信兼党類領也而信兼依発謀反令追討畢仍任先例為令勤仕公役所地頭職也早為彼職可致沙汰之状如件以下
  元暦二年六月十五日

【読み下し】

下す 伊勢国波出御厨
 補任す 地頭職の事
   左兵衛尉惟宗忠久
右、件の所は故出羽守平信兼党類の領也。しかるに信兼謀反をおこすに依り追討せしめ畢んぬ。仍て先例に任せて公役(くやく)を勤仕(ごんし)せしめんがために、地頭職に補する所也、早く彼の職として沙汰致すべきの状件の如し、以て下す
  元暦二年六月十五日

この補任状から中世の武士達は鎌倉幕府から「地頭職」(じとうしき)という職分に補任されることに依って初めて、荘園内で地頭として公役(くやく)を勤める資格を得ることになる。

では本稿の主題である地頭とは、どのような職分や権利を持つものなのであろうか。これを具体的に説明している文書は、見つけられていない。ただわずかに前述の『沙汰未練書』にこんな一節がある。

一、新補地頭トハ。承久兵乱の時、没収の地を以て所領等に宛賜(あてたま)う事也。地頭得分率法は事書き之在り
一、本新両様(りょうよう)所務事。両様兼帯(りょうようけんたい)の所務トハ。本補地頭として下地を一円管領(かんりょう)の上、又新補率法の得分を取る。これを両様兼帯と云う也。地頭に其の咎(とが)有り。

さてどうも「地頭」には、「本補地頭」と「新補地頭」という二つの区別があったらしい。そして「新補地頭」とは、承久の乱後にその時の没官領に補任された地頭を指しているようである。では、「本補地頭」とはどのような職分なのであろうか。右の文書から分かるように、「本補地頭」は「下地」の管理権を持っていたらしい。「下地」とは、中世文書では土地そのものを示す用語である。また、「新補地頭」は下地の管理権を持っておらず、「新補率法」という法に基づいて「得分(とくぶん)」が定められていたらしい。「得分」とは、荘園のいろいろな「職(しき)」に応じて取ることができる取り分を言う。つまり、荘園に於ける「新補地頭」の取り分は、新補率法に定められててたことになる。

また、二つ目の文書から鎌倉時代には、「本補地頭」が新補率法に基づいて得分をとる「両様兼帯」(その逆も)が、非法とされていたことが分かる。では、本補地頭の得分はどのように定められていたのだろうか。これについても、幕府の法令が残っている。宝治元年(一二四七)十二月八日の御教書によれば、

本(補)地頭は所務の先例有り、新(補)地頭は率法を狩るべきのよし、前々下知を加え畢(おわ)んぬ」

とあり、本補地頭の「所務」は先例を守って行うべしと書かれている。ここでいう「所務(しょむ)」とは本来は職務の事である。中世には荘園での所職や所領の管理を意味し、その所職に伴なう「得分」をも意味していた。では、「本補地頭」の先例とは、何を指しているのであろうか。関係する文書を更に探してみると、前の宝治元年の御教書に関連して建長五年(一二五三)十月に六波羅探題北条長時に宛てた御教書にその解説を見ることができる。その御教書には、

本地頭に補せられるの輩、本司(ほんし)の例に背き武威を募(つの)り巧みに無道を張行(はりゆき)致し云々。甚だ以て自由也。地頭職を賜うといえども、なんぞ旧古の由緒に背き領家国司の所務を押妨せしむべけんや

とある。簡単に要約すると「本補地頭」は、「本司」の先例に基づいてその職務を行うべきだとしている。前出の『沙汰未練書』によれば、「本司」とは「地頭補任以前の領主也」と書かれている。地頭以前の在地領主は、その土地を開発した領主という意味で開発(かいほつ)領主と呼ばれた。平安時代末期、地方の開発領主たちは武士団を形成していた。彼等は、国衙から所領に対して受ける圧力を嫌って、土地の管理権を留保してその所領を中央の貴族や社寺に寄進し、自分自身はその所領の「下司(げし)」となる道を選んだ。つまり開発領主たる武士団の棟梁達が前出の「本司」に当たるわけである。

また、「本司」の所務の先例として前の建長五年十月の御教書に更に詳しい記述がある。それは、

但し、本司の跡に於いては、郷保に随い荘園に依って、所務は各々別なり。一様にあらざれば、或いは開発領掌(かいほつりょうしょう)の地と為すに依って、本年貢を備進(びしん)せしむるの外、総領(そうりょう)の下地に於いては一向本司これを進退す。或いは自名知行の外、総領の地本(じほん)を相綺(あいいろ)わずの所これ多し云々。」

とある。つまり、この文書は地頭が所領とする郷・保・荘園によって地頭の所務(職務の内容・得分)は別々であると述べている。自身が開発領主である場合や、開発領主の跡に地頭として補任された場合は、その所領の土地に対して強力な支配権を持っている。しかし、それ以外の場合には、地頭は、地頭名以外の土地に対して支配権を持っていなかった事が多かったようである。

これで私が以前から「地頭職」に対して持っていた疑間の一つが解消された。以前から地頭制度に興味を持っていた私は、いろいろな地頭に対してその「地頭職」の中味を調べたことがある。でも「地頭職」の中味として統一的な共通点を見い出すことはできなかった。その原因は、地頭の所務が、所領の成立事情によって異なっていたためであった。

次に、「新補地頭」の得分である「新補率法」の内容はどのようなものなのだろうか。これについても鎌倉幕府の法令が残っている。貞応二年(一三二三)六月十五日の御教書に依れば、

田畠各拾一町の内、十町を領家国司分、一町を地頭分として広博狭小をいとわずこの率法以て免(田)モ給するの上、加徴を段別五升充行(あてが)われるべし

とされている。つまり「新補地頭」は、田畠十一町毎に対して一町の地頭給田と段別五升の加徴米を与えられている。しかし、この新補率法は承久の乱以後に補任された全ての地頭に適用された訳ではない。前の御教書の地頭得分条に於いて、以前いら将軍家の下知状を帯せる地頭の闕所(けっしょ)跡に補任された新地頭の得分は、旧例に従うべきとしている。また、本司跡の得分無き所に於いては「新補率法」に従って得分を定めるとしている。

以上の考察から「地頭職」の内容は、所領となる郷・保・荘園の事情によって異なっている事が分かる。また、地頭補任以前に下司等の所務の先例がある場合は、その先例に従って得分が定められていた。所務の先例が無い場合にのみ「新補率法」によってその得分が定められていたことになる。

【参考文献】

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/819b9faf8183cb30d689f92ecb194bfa.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/819b9faf8183cb30d689f92ecb194bfa-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:81号」より 木下 和司 中世の武士達と切っても切れない関係を持つ言葉に「地頭」がある。鎌倉時代後期の成立と言われている『沙汰未練書(さたみれんしょ)』(沙汰とは鎌倉幕府の訴訟制度を指し、未練は未だ練れずだから、幕府訴訟手続きの入門書をのこと)には、 地頭トハ。右大将家以来代々将軍家に奉公し御恩を蒙りし人の事也 とある。これだけでは「地頭」が何なのかは解らない。鎌倉時代、地頭となった武士達は御家人とも呼ばれているから、同じく『沙汰未練書』で「御家人」を引いてみると 御家人家トハ、往昔以来の開発領主(かいほつりょうしゅ)為り。武家の御下文賜う人の事也」 とある。ここにいう御下文は、所謂「地頭」補任状を指しているから、鎌倉幕府から地頭に任命された武士(開発領主)=御家人ということになる。一例として源頼朝が島津忠久に充てた地頭補任状を見てみよう。            頼朝           (花押) 下 伊勢国波出御厨(はでもくりや)  補任 地頭職事    左兵衛尉惟宗忠久 右件所者故出羽守平信兼党類領也而信兼依発謀反令追討畢仍任先例為令勤仕公役所地頭職也早為彼職可致沙汰之状如件以下   元暦二年六月十五日 【読み下し】 下す 伊勢国波出御厨  補任す 地頭職の事    左兵衛尉惟宗忠久 右、件の所は故出羽守平信兼党類の領也。しかるに信兼謀反をおこすに依り追討せしめ畢んぬ。仍て先例に任せて公役(くやく)を勤仕(ごんし)せしめんがために、地頭職に補する所也、早く彼の職として沙汰致すべきの状件の如し、以て下す   元暦二年六月十五日 この補任状から中世の武士達は鎌倉幕府から「地頭職」(じとうしき)という職分に補任されることに依って初めて、荘園内で地頭として公役(くやく)を勤める資格を得ることになる。 では本稿の主題である地頭とは、どのような職分や権利を持つものなのであろうか。これを具体的に説明している文書は、見つけられていない。ただわずかに前述の『沙汰未練書』にこんな一節がある。 一、新補地頭トハ。承久兵乱の時、没収の地を以て所領等に宛賜(あてたま)う事也。地頭得分率法は事書き之在り 一、本新両様(りょうよう)所務事。両様兼帯(りょうようけんたい)の所務トハ。本補地頭として下地を一円管領(かんりょう)の上、又新補率法の得分を取る。これを両様兼帯と云う也。地頭に其の咎(とが)有り。 さてどうも「地頭」には、「本補地頭」と「新補地頭」という二つの区別があったらしい。そして「新補地頭」とは、承久の乱後にその時の没官領に補任された地頭を指しているようである。では、「本補地頭」とはどのような職分なのであろうか。右の文書から分かるように、「本補地頭」は「下地」の管理権を持っていたらしい。「下地」とは、中世文書では土地そのものを示す用語である。また、「新補地頭」は下地の管理権を持っておらず、「新補率法」という法に基づいて「得分(とくぶん)」が定められていたらしい。「得分」とは、荘園のいろいろな「職(しき)」に応じて取ることができる取り分を言う。つまり、荘園に於ける「新補地頭」の取り分は、新補率法に定められててたことになる。 また、二つ目の文書から鎌倉時代には、「本補地頭」が新補率法に基づいて得分をとる「両様兼帯」(その逆も)が、非法とされていたことが分かる。では、本補地頭の得分はどのように定められていたのだろうか。これについても、幕府の法令が残っている。宝治元年(一二四七)十二月八日の御教書によれば、 本(補)地頭は所務の先例有り、新(補)地頭は率法を狩るべきのよし、前々下知を加え畢(おわ)んぬ」 とあり、本補地頭の「所務」は先例を守って行うべしと書かれている。ここでいう「所務(しょむ)」とは本来は職務の事である。中世には荘園での所職や所領の管理を意味し、その所職に伴なう「得分」をも意味していた。では、「本補地頭」の先例とは、何を指しているのであろうか。関係する文書を更に探してみると、前の宝治元年の御教書に関連して建長五年(一二五三)十月に六波羅探題北条長時に宛てた御教書にその解説を見ることができる。その御教書には、 本地頭に補せられるの輩、本司(ほんし)の例に背き武威を募(つの)り巧みに無道を張行(はりゆき)致し云々。甚だ以て自由也。地頭職を賜うといえども、なんぞ旧古の由緒に背き領家国司の所務を押妨せしむべけんや とある。簡単に要約すると「本補地頭」は、「本司」の先例に基づいてその職務を行うべきだとしている。前出の『沙汰未練書』によれば、「本司」とは「地頭補任以前の領主也」と書かれている。地頭以前の在地領主は、その土地を開発した領主という意味で開発(かいほつ)領主と呼ばれた。平安時代末期、地方の開発領主たちは武士団を形成していた。彼等は、国衙から所領に対して受ける圧力を嫌って、土地の管理権を留保してその所領を中央の貴族や社寺に寄進し、自分自身はその所領の「下司(げし)」となる道を選んだ。つまり開発領主たる武士団の棟梁達が前出の「本司」に当たるわけである。 また、「本司」の所務の先例として前の建長五年十月の御教書に更に詳しい記述がある。それは、 但し、本司の跡に於いては、郷保に随い荘園に依って、所務は各々別なり。一様にあらざれば、或いは開発領掌(かいほつりょうしょう)の地と為すに依って、本年貢を備進(びしん)せしむるの外、総領(そうりょう)の下地に於いては一向本司これを進退す。或いは自名知行の外、総領の地本(じほん)を相綺(あいいろ)わずの所これ多し云々。」 とある。つまり、この文書は地頭が所領とする郷・保・荘園によって地頭の所務(職務の内容・得分)は別々であると述べている。自身が開発領主である場合や、開発領主の跡に地頭として補任された場合は、その所領の土地に対して強力な支配権を持っている。しかし、それ以外の場合には、地頭は、地頭名以外の土地に対して支配権を持っていなかった事が多かったようである。 これで私が以前から「地頭職」に対して持っていた疑間の一つが解消された。以前から地頭制度に興味を持っていた私は、いろいろな地頭に対してその「地頭職」の中味を調べたことがある。でも「地頭職」の中味として統一的な共通点を見い出すことはできなかった。その原因は、地頭の所務が、所領の成立事情によって異なっていたためであった。 次に、「新補地頭」の得分である「新補率法」の内容はどのようなものなのだろうか。これについても鎌倉幕府の法令が残っている。貞応二年(一三二三)六月十五日の御教書に依れば、 田畠各拾一町の内、十町を領家国司分、一町を地頭分として広博狭小をいとわずこの率法以て免(田)モ給するの上、加徴を段別五升充行(あてが)われるべし とされている。つまり「新補地頭」は、田畠十一町毎に対して一町の地頭給田と段別五升の加徴米を与えられている。しかし、この新補率法は承久の乱以後に補任された全ての地頭に適用された訳ではない。前の御教書の地頭得分条に於いて、以前いら将軍家の下知状を帯せる地頭の闕所(けっしょ)跡に補任された新地頭の得分は、旧例に従うべきとしている。また、本司跡の得分無き所に於いては「新補率法」に従って得分を定めるとしている。 以上の考察から「地頭職」の内容は、所領となる郷・保・荘園の事情によって異なっている事が分かる。また、地頭補任以前に下司等の所務の先例がある場合は、その先例に従って得分が定められていた。所務の先例が無い場合にのみ「新補率法」によってその得分が定められていたことになる。 【参考文献】 「沙汰未練書」『続群書類従』巻第七百四所収 『地頭及び地頭領主制の研究』 安田元久著 『中世法制史料集 第一巻幕府鎌倉法』佐藤進一・池内義資編備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会中世史部会では「中世を読む」と題した定期的な勉強会を行っています。
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