「備陽史探訪:154号」より
末森 清司
綣鈎史跡探訪記7
城跡探訪は、戦国大名、大豪族が築城居城した有名城跡を探訪するのも楽しいが、一地方の山村にひっそりと隠された伝承とそれを裏付ける遺跡が残った史跡や城跡を探訪するのも嬉しいものである。
早春の一日、懇意にしている米原在住の中世城郭研究家、長谷川博美先生(滋賀県民俗学会理事・近江中世城郭調査会会長)、泉良之城歩会会長(郷土史・中世城郭研究家)のお二人が発見、調査発表した「滋賀県犬上郡多賀町左目」に伝わる伝説と、それを裏付ける山城の探訪に参加した。
長谷川先生の資料内容の地元の伝承も面白く興味深い。(なんじゃって、明智一族が多賀に居住していた?!)
地誌『近江與地志略』(一七二三~一七三三)
佐目村畑地、明智十左衛門、生国美濃を立ち退き、土岐氏を背き此地に来たり居住す。佐々木六角高頼扶助しおけり、十左衛門子十兵衛光秀越前へ立ち越え朝倉に随従し後、信長に仕え立身し、後に逆意を企て、主君信長を試し、秀吉に殺さる
※畑とは畑作を生業にする江戸時代の湖東の山間集落の呼称。(長谷川先生資料より)
今でも明智一族が居住した地所があり地元では「十兵衛屋敷」と言われ、当時使用された井戸が残る。
光秀が此所を出立する時祈願した井戸とも伝えられている。
屋敷跡の近く十二相神社の境内には、宝篋印塔、一石五輪塔、石仏がひっそりと祀られてある。
これらの石造物、近くの犬上川に捨てられていたものを近年引き上げて此所に祀ったとの事。ワシは石造物の知識はないが一見して優れたものと見受けられる。これと同じものが今でも犬上川に残っていると地元の人の証言あり。(?なんじゃってこぎゃあな優れた石造物が川に捨てられたんじゃ。明智一族又は縁の人達の供養塔や墓なんか。宝篋印塔、一石五輪塔は故意に破損され捨てられたように思うんじゃ。それにしても立派な石造物じウーン調査すると面白いじゃろうのう・・・・・・・・・)
伝十兵衛屋敷の裏山に城跡がある。この地の一土豪が築城したのか、明智一族や村人が築いたのか伝承は残っていない。
見上げると鈴鹿山系に連なる一山稜の険しい山(標高四二五m、比高一七〇m位)。
ワシは高所恐怖症で急坂、長い階段の登り下り、立橋、馬背尾根を歩くのが大の苦手で肝が縮み足が足が竦み、歩行困難状態の有様だったが、仲間十余人が居るので一安心、へっぴり腰で登山する。
北伊勢と近江湖東の国境に近い村落の一土豪が築いたと思われる小さな山城。縄張遺構は期待してなかったが、狭小な尾根上の見張曲輪に立つとそこから連なる土塁、曲輪群、犬走り、帯曲輪の構造に目を見張った。冷汗をたらして登った甲斐は充分あった。
(以下次号へ)
(補記)
光秀伝承について文献を県立図書館で調べた。『淡海温故録』(一六八四~一六八七)『近江與地志略』(一七二三~一七三三)『木近江木間攫』(一七九二)の三地誌に記載あり。(長谷川先生資料に記載されておりました通りでした)
伝十兵衛屋敷
https://bingo-history.net/archives/23813https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/1321366470.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/1321366470-150x150.jpg管理人紀行・随筆「備陽史探訪:154号」より
末森 清司 綣鈎史跡探訪記7
城跡探訪は、戦国大名、大豪族が築城居城した有名城跡を探訪するのも楽しいが、一地方の山村にひっそりと隠された伝承とそれを裏付ける遺跡が残った史跡や城跡を探訪するのも嬉しいものである。 早春の一日、懇意にしている米原在住の中世城郭研究家、長谷川博美先生(滋賀県民俗学会理事・近江中世城郭調査会会長)、泉良之城歩会会長(郷土史・中世城郭研究家)のお二人が発見、調査発表した「滋賀県犬上郡多賀町左目」に伝わる伝説と、それを裏付ける山城の探訪に参加した。 長谷川先生の資料内容の地元の伝承も面白く興味深い。(なんじゃって、明智一族が多賀に居住していた?!) 地誌『近江與地志略』(一七二三~一七三三)
佐目村畑地、明智十左衛門、生国美濃を立ち退き、土岐氏を背き此地に来たり居住す。佐々木六角高頼扶助しおけり、十左衛門子十兵衛光秀越前へ立ち越え朝倉に随従し後、信長に仕え立身し、後に逆意を企て、主君信長を試し、秀吉に殺さる
※畑とは畑作を生業にする江戸時代の湖東の山間集落の呼称。(長谷川先生資料より) 今でも明智一族が居住した地所があり地元では「十兵衛屋敷」と言われ、当時使用された井戸が残る。 光秀が此所を出立する時祈願した井戸とも伝えられている。 屋敷跡の近く十二相神社の境内には、宝篋印塔、一石五輪塔、石仏がひっそりと祀られてある。 これらの石造物、近くの犬上川に捨てられていたものを近年引き上げて此所に祀ったとの事。ワシは石造物の知識はないが一見して優れたものと見受けられる。これと同じものが今でも犬上川に残っていると地元の人の証言あり。(?なんじゃってこぎゃあな優れた石造物が川に捨てられたんじゃ。明智一族又は縁の人達の供養塔や墓なんか。宝篋印塔、一石五輪塔は故意に破損され捨てられたように思うんじゃ。それにしても立派な石造物じウーン調査すると面白いじゃろうのう・・・・・・・・・) 伝十兵衛屋敷の裏山に城跡がある。この地の一土豪が築城したのか、明智一族や村人が築いたのか伝承は残っていない。 見上げると鈴鹿山系に連なる一山稜の険しい山(標高四二五m、比高一七〇m位)。 ワシは高所恐怖症で急坂、長い階段の登り下り、立橋、馬背尾根を歩くのが大の苦手で肝が縮み足が足が竦み、歩行困難状態の有様だったが、仲間十余人が居るので一安心、へっぴり腰で登山する。 北伊勢と近江湖東の国境に近い村落の一土豪が築いたと思われる小さな山城。縄張遺構は期待してなかったが、狭小な尾根上の見張曲輪に立つとそこから連なる土塁、曲輪群、犬走り、帯曲輪の構造に目を見張った。冷汗をたらして登った甲斐は充分あった。 (以下次号へ) (補記)
光秀伝承について文献を県立図書館で調べた。『淡海温故録』(一六八四~一六八七)『近江與地志略』(一七二三~一七三三)『木近江木間攫』(一七九二)の三地誌に記載あり。(長谷川先生資料に記載されておりました通りでした) 伝十兵衛屋敷管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会