「備陽史探訪:155号」より
末森 清司
綣鈎史跡探訪記8
(前号から続く)
一土豪と里人が築いた小さな山城だが尾根上に連なる遺構を見て、ワシは嬉しくなった。
高所恐怖症も忘れ、尾根上、斜面を駆け巡り観察する。少人数でも防備と攻撃が出来る強固な構造が随所に見られる。
〇長土塁が馬背尾根に築かれ(ここを通る時はへっぴり腰でなく四足でひたすら前へ前へ前進のみ、左右は絶壁、ワシー人だったら通る勇気無し)。その先は雛段状に削平された小曲輪が連なり主郭へと続く。
各小曲輪の切岸はナント横矢遺構!
〇斜面には犬走り、帯曲輪が複雑微妙に連結、登り易いと思える斜面は自然形状を利用して竪堀が有り要所に「塹壕」の様な造りがある。
〇山頂部分の主郭(本丸)は竪堀と堀切で尾根を切断。平坦地には虎口、土塁が残り櫓が建てられたと思える台地もある。主郭の一方は絶壁端に立って覗き込んで見ていたが肝が縮み足が震えてきたので程々で下がる。
〇主郭から二の郭への十数mは険しい岩場。狭く急傾斜で命綱が必要。
友人の田畑氏の「末森さん、手と足と尻を使って下りてヨ」との激励の声に冷汗垂らしおっかなびっくりへっぴり腰で何とか辿り着く。
目前の曲輪は、狼煙台(遺構が残る)と二の郭群。堀切で尾根を切断。土塁で囲った曲輪が数段連なり防備の跡が残る。
二の郭群の数十m下は見張曲輪と思われ、すぐ下に尾根を交叉した古道が横切っている。
関ケ原から佐目集落を通り多賀へ抜ける裏道の峠。(小字地名腰越)いつの時代か不明だが関所も設けられ、関ケ原合戦の折は諸大名の軍勢が通ったと伝えられる。
この古道を監視遮断する事が出来るこの城の重要性が納得できた。
尾根上の城域は長さ二百六十m。主郭部分三十六m。各曲輪の幅は広い主郭部分で十八m余りと狭小。
小さな名も無い山城だが縄張りは見事だった。明智一族の士が縄張をしたのか・・・・・?築城、廃城にどの様に携わったのか記録伝承が無く不明。この城の名称は発見者の長谷川先生、泉会長が地元の佐目小字名から「腰越の城」と仮称。
明智伝説の遺構終了後、地元の人より「佐目の明智伝説信用されますか?」との問いにワシは「信じますヨ。地元の大切な伝説です。文献も有りますし後世に伝えて欲しいものですね」と即答。その時の地元の人々の喜びに満ちた笑顔が心に残った。
次回は丸山竜平先生(元名古屋女子大学教授、考古学文学博士)を交えて再度佐目地区に残る明智伝説関連の山城探訪をした様子を記します。
補記
仮称佐目小字「腰越の城」城跡は佐目集落を囲む様に東北背後に位置し、前面南に犬上川沿「鞍掛越え」(現国道三〇六号、湖東多賀と北伊勢藤原への往還道)街道が通り、北側の裏古道関ケ原から多賀への道の間の山陵にある。登山道は国道側より登り見張台、馬背、小曲輪、主郭二ノ郭、見張曲輪(関所跡?)から裏古道峠へと探訪道がある。途中危険な場所あり。単独行では無理。
(次号に続く)
仮称「腰越の城」
https://bingo-history.net/archives/23818https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/1321366470.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/1321366470-150x150.jpg管理人紀行・随筆「備陽史探訪:155号」より
末森 清司 綣鈎史跡探訪記8
(前号から続く)
一土豪と里人が築いた小さな山城だが尾根上に連なる遺構を見て、ワシは嬉しくなった。 高所恐怖症も忘れ、尾根上、斜面を駆け巡り観察する。少人数でも防備と攻撃が出来る強固な構造が随所に見られる。 〇長土塁が馬背尾根に築かれ(ここを通る時はへっぴり腰でなく四足でひたすら前へ前へ前進のみ、左右は絶壁、ワシー人だったら通る勇気無し)。その先は雛段状に削平された小曲輪が連なり主郭へと続く。 各小曲輪の切岸はナント横矢遺構! 〇斜面には犬走り、帯曲輪が複雑微妙に連結、登り易いと思える斜面は自然形状を利用して竪堀が有り要所に「塹壕」の様な造りがある。 〇山頂部分の主郭(本丸)は竪堀と堀切で尾根を切断。平坦地には虎口、土塁が残り櫓が建てられたと思える台地もある。主郭の一方は絶壁端に立って覗き込んで見ていたが肝が縮み足が震えてきたので程々で下がる。 〇主郭から二の郭への十数mは険しい岩場。狭く急傾斜で命綱が必要。 友人の田畑氏の「末森さん、手と足と尻を使って下りてヨ」との激励の声に冷汗垂らしおっかなびっくりへっぴり腰で何とか辿り着く。 目前の曲輪は、狼煙台(遺構が残る)と二の郭群。堀切で尾根を切断。土塁で囲った曲輪が数段連なり防備の跡が残る。 二の郭群の数十m下は見張曲輪と思われ、すぐ下に尾根を交叉した古道が横切っている。 関ケ原から佐目集落を通り多賀へ抜ける裏道の峠。(小字地名腰越)いつの時代か不明だが関所も設けられ、関ケ原合戦の折は諸大名の軍勢が通ったと伝えられる。 この古道を監視遮断する事が出来るこの城の重要性が納得できた。 尾根上の城域は長さ二百六十m。主郭部分三十六m。各曲輪の幅は広い主郭部分で十八m余りと狭小。 小さな名も無い山城だが縄張りは見事だった。明智一族の士が縄張をしたのか・・・・・?築城、廃城にどの様に携わったのか記録伝承が無く不明。この城の名称は発見者の長谷川先生、泉会長が地元の佐目小字名から「腰越の城」と仮称。 明智伝説の遺構終了後、地元の人より「佐目の明智伝説信用されますか?」との問いにワシは「信じますヨ。地元の大切な伝説です。文献も有りますし後世に伝えて欲しいものですね」と即答。その時の地元の人々の喜びに満ちた笑顔が心に残った。 次回は丸山竜平先生(元名古屋女子大学教授、考古学文学博士)を交えて再度佐目地区に残る明智伝説関連の山城探訪をした様子を記します。 補記
仮称佐目小字「腰越の城」城跡は佐目集落を囲む様に東北背後に位置し、前面南に犬上川沿「鞍掛越え」(現国道三〇六号、湖東多賀と北伊勢藤原への往還道)街道が通り、北側の裏古道関ケ原から多賀への道の間の山陵にある。登山道は国道側より登り見張台、馬背、小曲輪、主郭二ノ郭、見張曲輪(関所跡?)から裏古道峠へと探訪道がある。途中危険な場所あり。単独行では無理。 (次号に続く) 仮称「腰越の城」管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会