密書(壱)(毛利元康宛毛利輝元書状)

備陽史探訪:155号」より

小林 定市

毛利輝元からの密書について

慶長三年(一五九八)八月、豊臣秀吉が薨去した後、豊臣政権から徳川政権への権力移行を決定付けた関が原の合戦があった。秀吉の死後僅か二年の間に何が起こっていたのか、日本史の裏側を知る手掛かりとなる重要な数通の書状が福山に送り届けられていた。

慶長四年間三月三日、秀吉から秀頼の守役に任じられていた前田利家(文治派)が薨去すると、翌四日武断派の加藤清正・黒田長政・細川忠興・脇坂安治・加藤嘉明・福嶋正則・浅野長政の七将が、大坂で石田三成を襲撃しようとした計画が発覚した。

日本史の通説では此の時三成は一時の恥を偲んで、伏見の向島城にいた徳川家康に救いを求めたところ、家康は「三成を生かしていた方が得策である」として庇護した。と後年に至り家康の行為を過大に評価した伝承が生まれ正史として認定されてきた。差出者の毛利輝元(一五五三~一六二五)は、広島城の城主であり、五大老の一人として前田利家・徳川家康に続く位置にあり、騒動の発端を元康に書送り相談を持ちかけた。輝元は当時大坂城にいた可能性が高いが、大坂に在った毛利家の木津屋敷にいた可能性も否定できない。

受取人の毛利元康(一五六〇~一六〇一)は、輝元より七歳も年下なのに輝元の叔父に当たる武将で、毛利元就の八男として誕生。天正十九年(一五九一)福山市神辺町の神辺城主に任命され、武人としては朝鮮の役や関ヶ原の合戦に毛利家のために大活躍した。また、連歌に関する典籍を多く伝えており、文武を兼ね備えた割には知名度の低い大名である。

毛利元康宛毛利輝元自筆書状

〔読み下し文〕

(端裏書)「則火中 元康 右馬」たそ(誰某)これを進め候て申し度候らへとも、左様の者ニハ用申し付ける寸暇無く候。先ず書中にて申し候。

一、冶少(石田三成)小西(行長)寺沢(広高)より越され候ハ、ねかいたて仕り候者一こう珍事なく、結句手おきたる、今に於いては仕合せに候条、此の方より仕置きされるべく候。左候らハゝ、輝元天馬のことく罷り下り、陣取りあまさきへ持ちつゝけ候様ニと申され候事。

一、面むきハさ様申し候か、彼の衆申し候所ハ、御城ハ彼方衆持ち候と聞へ候。此方衆一切出入りとまり、立ち入らぎるの由ニ候。

一、増右(増田長盛)申される事ニ、とかく冶少か身を引き候ハてハすミ候ましく候と申されたる由ニ候。

一、右分け候時ハ、はや彼方ヘミな成り候と聞へ候。此の時ハかち(舵)の取りさま肝心ニ候間。禅高(山名豊國)兌長老(西笑承兌)を以って内々調略申すべくと安國(安國寺恵瓊)申され候。何も爰元へやかて越され候て相談すべきにて候。禅高折ふし昨日越され候。種々引成たかり申され候間、此方より申し候へば、成べく候。いかゝ思召され候哉、承べく候。

一、上様(豊臣秀吉)仰せ置かれるの由ニ候而、昨日内府(徳川家康)景勝(上杉)縁辺の使互いニ増右案内者にて調へ候。内心ハそれニハすミ候ハす候。公儀ハ上様御意のまゝと景勝ハ申さる由ニ候へとも、是もしれぬ物にて候く。とかくはやよいめに成行き候間、爰ハ分別のある所ニ候。

一、御城つめニハこいて(小出秀政)かたきり(片桐且元)なと居候。是は内府かたにて候。此の如く候時ハ、何もかもいらさる趣ニ候。

一、大刑少(大谷吉継)より申さる事ニ、下やしき(伏見城内の冶部少輔曲輪近くにあった三成の下屋敷)罷り下るの由、然るべからず候。内府(家康の屋敷)むかいつら(向い面)に成候様ニ候との事ニ候。冶少へも此の中秀元(毛利)に人数三千副遣したるとさた(沙汰)申し候。大刑よく存じ候間。一円左様にてハなく候と答候。たゝ引取りてかたんむやくにて候。辻合はかり然るべくとの内意ニ候。

一、下やしき普請のことハ申し付け候するや。いかゝ候ハんや。申し付け候て然べく候すると存じ候く。思召さる所承るべく候。先あらまし申し候。透候ハゝ何にても申すべく候。

一、御気分いかゝ候や。是非此の節候。又いわう(以往)にてよく候や。具ニ承るべく候く。恐々かしく内々たんきも此の時ニ候く。かしく、

慶長四年間三月四・五日頃(『山口県史』中世三、厚狭毛利家文書四十六、平成十六年出版)

第一条は、三成が使者を通して挙兵を求めたと書いている。

第三条は、五奉行の一人増田長盛が、三成が身を引かねば騒動は治まらないとの見通しを語る。

第四条は、安國寺恵瓊が、秀吉の御伽衆であった山名豊國(禅高)と西笑承兌(兌長老)を仲立ちとして解決を模索。

第五条は、事件を契機に徳川家康と上杉景勝が縁組を約束。

第六条は、大坂城内にいる小出秀政と片桐且元は、家康方であると目されていた。

第七条は、三成が伏見城の冶部少輔曲輪に近い三成の下屋敷に逃れることは、隣にある家康の三河上屋敷との関係を危惧し、紛争を未然に排除する目的から毛利秀元に軍勢の派遣を命じている。

伏見高校の東側に、家康の三河屋敷があったと伝えられている。また、三成の伏見下屋敷は、伏見城の冶部少輔曲輪の西方にあったらしく、家康の三河屋敷と隣接して屋敷が並んでいた。

家康が伏見の向島城に移った日は、慶長三年三月二十六日で、向島城から木幡伏見城に移るのは、三成が近江の佐和山城に去った三日後の間三月十三日であった。

第八条は、上方の問題ではなく神辺での治世を問う内容で、「下屋敷普請の事」とは広島城や神辺城の下屋敷ではなく、元康が新城の築城に着手していたと推定される。福山湾内の深津王子山城の下屋敷であった可能性が高い。

元康の子孫が伝えた、長門國厚狭(山陽小野田市)毛利家系図によると、元康の嫡子元宣は慶長三年備後深津城で誕生したと書かれている。当時の深津は福山湾内の半島であったことから、元康は瀬戸内海の海運の将来性に着目し、深津水軍城の近くに下屋敷の普請を進めていたようである。

此の輝元の密書が送られてきた一年半後、関ヶ原の合戦に輝元は家康の二枚舌に翻弄された挙句改易となり、毛利元宣主従も深津から長門厚狭に移住の身となった。

第九条は、元康の健康を案じたもので、元来病弱であったのかそれとも朝鮮外征で体調を悪化させたものか不明である。元康は関ヶ原合戦後、深津や厚狭を一度も見ることなく、一年十ヶ月後に大坂の毛利家木津屋敷に於いて四十二歳の生涯を終えた。

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