密書(参)(毛利元康宛毛利輝元書状)

備陽史探訪:157号」より

小林 定市

前号百五十六号の続き

毛利輝元からの密書について

前々号百五十五号と前号の百五十六号に続き、今回も毛利輝元が神辺城主毛利元康に宛て送った自筆書状を紹介する。秀吉の死後半年余りにして、豊臣秀頼を補佐する五大老・五奉行制は瓦解し、権力闘争から大老と奉行による政治は行詰まり、更に一年半後には関ケ原の合戦へと突入して行った。

輝元が騒動の鎮静化と仲裁に向けて、水面下で苦心したことは殆ど知られていない。何故輝元は前田利家没後数日の間に集中して、上方から備後の元康の許に返事を期待する数通の書状を送らなければならなかったのであろうか。

それは小早川隆景が存命中は、何事に依らず隆景に安心して相談を持ち掛けることができた。しかし、隆景没後の家中では安心して相談できる人物が払底していたのである。毛利秀元では若く経験不足で分封問題がからみ、肝心な吉川広家(駄々っ子で虚栄心の強い)は武断派に心を寄せ、秀元との所領問題の確執があり反三成の姿勢を鮮明にしていた。

前記の事情を内包していた毛利家では、御家大事と毛利家中心に配慮する元康派と、毛利家に不満を内包していた広家は家康・武断派に好意を寄せていたため、一枚岩とは行かず二大派閥が何時しか家中に形成されていた。

擧族一致の行動に乱れがあることを危惧した輝元は、慶長四年七月、元康と広家との和解(吉川家文書九〇一~九〇七、毛利家文書一二五二)をさせる事に成功した。その時には一時的に引締めの効果があったように見えたが、関ケ原の合戦では両川(吉川・小早川)が裏切りの双璧となった。

毛利元就が三子宛に出した教訓状(三本の矢)は、弘治三年(一五五七)十一月の教訓であるが、五十年も経過すると色あせて、遠くの彼方へ忘れ去られ顧みられなくなっていた。しかし、三本の矢の教えを最も必要としたのは慶長四・五年であった。

下記最初の書状は、石田三成の身の振り方について家康と話し合った結果、三成は中央政界から退き佐和山へ引退することを知らせたもの。次の書状は、三成が失脚して佐和山に退き、代わりに子息の石田重家が豊臣秀頼に奉公することになった。騒動が解決した事で、家康は子息(氏名不詳)を輝元の許に派遣してきた。最後の書状は、家康が懇意にしている武将に、騒動が有利に解決した喜ばしい内容を知らせた書状。

毛利元康宛毛利輝元自筆書状

〔読み下し文〕(年月無記載)

(端裏捻封ウワ書)
「(墨引)元康まいる申給へ 右馬」昨日彼方と問此の如く相調へ候。

一、冶少(石田三成)身上面むきのあつかい(調停)三人衆(五奉行の長東正家・浅野長政・前田玄以ヵ)へ申し渡し候。是も此の中あつかいかけ之有り候由ニ候、冶少一人さほ山(近江國佐和山)へいんきよ(隠居)候て天下の事存知無く候様との儀ニ候。是ニ相澄むべく候、増右(増田長盛)をもミなゝゝ種々申し候へとも、冶少一人にて澄むべくと内意ニ候、さ候とも増右は其のまゝにてハ居られ候ましく候条、同前たるべく候、是ほとニ澄み候へは然るべく候。(以下袖書)冶少ことのほかおれたる申される事ニ候、長老(安國寺恵瓊)へふしを(か・脱ヵ)ミなミた(涙)なかし候、此の一通(譲歩)の事、家康(徳川)よりも一段ミつゝゝ(極めて秘密)候へとも事に候、一人にも御さた(右上横書)候ましく候、よくゝゝその御心へ候へく候、梅りん(林就長)・渡飛(渡辺長)・児若(児玉元兼)其の元へ召し寄せられ候而、ミつゝゝにて仰せ聞かされ給うべく候。召し上せ申し候へば事ゝゝしく候、少しも日外候ましく候由、かたく仰せられるべく候ゝゝ。

かしく。

慶長四年閏三月八日頃と推定

(『山口県史』中世三、厚狭毛利家文書四十四)

毛利元康宛毛利輝元自筆書状

〔読み下し文〕(年月無記載)

「(墨引)元康まいる申給へ 右馬」あつかい調い、冶少(石田三成)ハ佐ほ山(佐和山)へ罷り越され、息(石田重家)ハ大坂へ罷り居られ、秀頼(豊臣)さまへ御奉公候へとの事ニ候。一礼(挨拶)として夕部内府(家康)の息(ニ男結城秀康ヵ)罷り越され候。右の趣存ぜず候てやらん、夜前も所ニより大さわき候つる。(以下袖書)安國寺(恵瓊)やかて冶少へ罷り越され候。弥様子聞くべく候、内府(家康)へも参られ候らいて万ず申し談ぜられ候へかしと申し候、気分悪くせうし(笑止)千万ニ候、御気分形の如く候ハゝ、後刻御出有るべく候ゝゝ。かしく。

慶長四年間三月十日頃

(『山口県史』中世三、厚狭毛利家文書四十七)

慶長四年閏三月、福嶋正則・蜂須賀家政・浅野長政宛徳川家康書状

〔読み下し文〕

石田冶部少輔(三成)佐和山へ閉口(五奉行を失脚)ニ相定め、明日参るべく候、子息(石田重家)昨晩我ら所へ越され候、猶井伊兵部少輔(直政)申すべく候。
       恐々謹言
(慶長四年)後三月九日 家康(花押)
     清須侍従(福嶋正則)殿
     蜂須賀阿波守(家政)殿
     浅野弾正(長政)殿

(『浅野家文書』一一〇)

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