2013年08月01日

手城川流域を歩く(新田開発の痕跡と天当神社)

備陽史探訪:173号」より

種本 実

「川筋を訪ねて」【その四】

毎日の通勤に、入江大橋を利用している。橋から手城町や曙町の住宅密集地を眺めつつ、いまさらながらかつての農村からの大きな変貌を感じる。

天当さん

天当さん

手城川の河口のこんもりとした丘は、子供のころから「天当さん」と呼ばれていた。傍には「天当さんの渡し」があって、入江の両岸である手城町と現在の新浜町を伝馬舟が結んでいた。渡しは数ヵ所あって、昭和三十九年頃に、舟が転覆した惨事を契機に廃止となった渡しもあったと聞いたが、昭和四十八年の入江大橋の開通で全廃になったようだ。

現在の曙町に生まれた祖母は、大正時代の初めに渡しに乗って、手城の酒屋に使いに行った

とか

両親について、大門の墓参りに行くのに自転車も積んでもらって渡った」

などと、在りし日の渡し舟にまつわる話をいくつか聞いた。以下古老の回顧談を続けてみよう。

小学校の六年生になると、「手城から入り江を泳いで横断できないようでは男じゃない」と言われたが、内港に出入する潮の流れがきつくて思うように泳げなかった。渡しには父と箕島の親戚に行く時に乗った記憶がある。天当さんの傍には「舟隠し」があって、帆船が係留していた。かつて内港の奥にあった工場に石炭を運搬するのに、「舟隠し」まで航行してきた大型船から小舟に積み替えて工場に運んだ。近くの農家の人々は、現金収入を得るために、臨時の作業員に雇われて積み替えの作業に就いていた。また近くからは、四国の金毘羅詣でに行くチャーター便の船が出ていた頃もあった。

手城橋の西に、旧手城村には一カ所しかない四ッ堂がある。「堂の脇」の地名の由来となるお堂であり、福山志料には「中道ニアリ」と記されている。お堂の中には調査記録があり、かつて福山市が調査をして、宝珠や瓦などは三百年以上の古いもので、文化財の価値があると認定された旨が記されているが、地元の有識者の一人の方に確認すると一笑に付された。

毎年八月二十四日には祭りが、地域の人たちがお菓子などを子どもたちにふるまう前日の「お接待」と共に、伝統行事として行われている。

「一ツ橋」は昭和五十九年に開校した「一ツ橋中学校」の校名の由来となった。「城浜」という案もあったが、有名な大学の名と同じであることも、学区の人たちの同意を得ることにつながったとか。

終戦後数年までは手城川はもっと狭く、橋は現在のコンクリート製になるまでは木造だったので修復することが多かった。当時は橋を通る道は県道で、狭い道ながら手城からのバスが橋を越えて蔵王町方面に走っていた。かつては秋の収穫期には、大勢の小作人が次々と大八車に米俵を積んで、この橋を渡って庄屋の蔵へ納めていたという。庄屋には番頭格の「検見」がいて、小作人の田畑を検分してその年の出来具合を測っていた。手城村の庄屋は城下の「くろがねや」に匹敵するほどの大地主で、城下の入り回までは他人の土地を踏むことはなかったほどだった、と伝わっている。

昭和23年頃の引野・長浜

昭和23年頃の引野・長浜

①石樋畷 ②百間土手③千間土手 ④一ッ橋 ⑤三ッ橋

手城川は「三ッ橋」の上流付近で門樋川と合流している。手城川は上井手川など久松用水をはじめ、流域の春日池や谷地池等の池からの水を集めているが、元々は海の水脈(みお・海中の深い溝)だった名残である。干拓地では、塩分を含んだ悪水を千潮の時に海へ排水するための水路が必要であった。水路には悪水を排水するべく、潮の干満によって開閉出来る樋が不可欠である。手城川には幅が五間の「五間樋」が、門樋川にも樋門があったが今では見ることはできない。

「五間樋」は手城川と現在の国道二号線が交差する少し下流付近にあって、梶島山から深津の王子端まで続いた「千間土手」の東に設えてあった。梶島山と長浜の丘陵間には「百間土手」が築かれ、更に梶島山と東福山駅北側の丘陵まで築かれた「石樋畷(いしびなわて)」と共に海を囲って、正保二(一六四五)年に引野佃(つくだ)沖新田を生んだ。

「百間土手」の面影はないものだろうかと、地域の人たちに尋ねたが「千間土手なら知っているけれど」という言葉がよく聞かれた。やっと見つけたのは梶島山の麓の、旧家の広大な敷地に接する場所に残っている一角である。その延長線上は住宅や道路となっているが、堤の跡付近は緩やかな傾斜となっている個所が見られる。

百間土手の跡

百間土手の跡

当家の御主人の御好意でいろんな昔話を拝聴した。干拓前の海だったころには暗礁であった岩が、広い庭園の山となっていて「潮馴の松」は、その岩石に根を張って高く聳えていたという。在りし日の松の写真を見せていただいたが、枝は広く周囲に伸びて、あたかも「天蓋の松」を髣髴させる大木であった。手城新開が完成したのは寛文六(一六六六)年というから、当地が海だったころからの寿命であったとすれば、およそ三百五十年の樹齢であり、「潮馴の松」とは言い得て妙である。

在りし日の潮馴の松

在りし日の潮馴の松

また、庭園を改装した際に重機で岩を動かしたときに、貝殻が付着したままの岩が地中から出てきたそうだ。案内されて貝殻を凝視して、「潮馴の松」とともに海であった時代の証であると、しみじみ思った。

「天当さん」に鎮座する「天当神社」は、本来の名称である「天道神社」がなまったといわれている。かつて「天道神社」は、現在の引野小学校の正門の少し上に鎮座していたが、大正時代に神社の合祀が行われて、今では石灯籠と地神石だけが在りし日の跡を残している。傍の朽ちかけた火の見櫓には、往時の村人の営みを感じた。境内は失われたが、付近の人々は今でも春にお供え物をして、お祀りを欠かさないそうである。

この神社は引野沼田村の氏神として、当時庄屋を務めた藤井惣兵衛久政が承応元(一六五四)年に、大己貴命、素盞鳴尊、奇稲田媛命の三神を祀り創建した。引野町誌によれば、藤井氏は、永禄十二(一五六九)年に一時神辺城を占拠した藤井皓玄の一族の家系であるが、水野勝成の跡をついだ勝俊の生母に繋がることから、藩に招かれたようである。藤井氏はまた、新田の溜池として引野公民館の傍の天道池を築造するなど、地域の開発に尽力した。

寛文年間に舟隠湾の干拓が完成すると、天道神社から大己貴命が分祀されて新田の宮之谷に祀られた。その後、天道神社は四代藩主水野勝種の時代・元禄七(一六九四)年に、新田が完成した手城の農業の守護神として、宮之谷から現在の地に移されて今日に至っている。

久しぶりに天当さんに登ってみる。中世には「手城島城」という名の、海上に浮かぶ砦であり、郭の跡を見ることができる。うっそうと社叢が茂った境内には、JFEの工場群や産業道路からの喧騒も届いていなかった。静寂な神域に佇んでいると、三百年間手城町の氏神として崇拝されてきた当社に長敬の念を感じた。

天当神社の祭礼は毎年十月の第一日曜日に、手城の全町内を挙げて盛大に執り行われる。当番組は十二組あり、当屋を勤める町内ではいまでも神輿を担いて巡行するという。できれば今年の例祭をぜひ見学したいものである。

◎長浜や手城の人たちから貴重なお話を聞かせていただいて、郷土福山の新田開発の歴史の一端を学ぶことができました。ご協力いただきました皆様に誌面を借りて篤く御礼申し上げます。

《参考資料》
①『福山市引野町誌』(昭和六十一年三月二十一日 編集・福山市引野町誌編纂委員会 発行・福山市引野町連絡協議会)
②『引野・長浜の歴史と文化財』(平成二十一年十二月一日 引野学区まちづくり推進委員会及び長浜学区まちづくり推進委員会編集・発行)

◎文中の「昭和二十三年頃の引野・長浜」は、参考資料の②より一部分を複写し、加筆した。

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