福山地方の日蓮宗文化財

備陽史探訪:103号」より

小林 定市

一、秘蔵された文化財

熱烈な仏教信者を表現する言葉に、「備前法華に安芸門徒」という対象言葉があるが、その鎌倉新仏教の発祥地が沼隈半島であったという事実は今日まで殆ど知られていない。

浄土真宗光照寺系の研究は専門家によって解明が進められてきたが、日蓮宗の方は寺院創立と関係が深い曼佗羅本尊や創立時の史料が寺宝として秘蔵され、寺側もその寺宝類の重要性を充分把握していなかった事から、現在まで未公開寺宝として伝えられ、檀家の人達さえ知らない本尊や史料があった。

『福山市史』に依る中世仏教の日蓮宗に対する通説的な見解は、「日蓮宗はまず東国に広まったが、日蓮の末弟日像が嘉暦元年(一三二六)京都に妙顕寺を創設したのがきっかけとなって西国へも広まってきた。(途中略)備後地方には南北朝時代の初頭に日蓮宗が相当盛んになっていた」と記しているが、嘉暦元年以前に日蓮宗が京都から水呑に伝えられていた事を示す古文書が水呑の寺に秘蔵されていた。

水呑町の日蓮宗重顕寺は真言宗から日蓮宗に転宗した寺であった。同寺に伝えられた『諸宗問答口作集』に依ると、応長元年(一三一一)に日像の教化により真言宗から日蓮宗に改宗しており、その経緯に至る京都での事情を詳しく記している。

水呑の日蓮宗妙顕寺は、江戸時代初期頃の開創伝承に依ると、延文元年(一三五六)四月に創立された寺となっていた。しかし、先年初公開された寺宝の曼陀羅本尊の端書には「備後国西国妙顕寺建立本願、三原一乗妙性授与之、元亨三年(一三二三)三月十八日、日像(花押)」同四月八日、日像(花押)と、日像が三つ判を据えた本尊が公開された。元亨三年に妙顕寺が存在していたとすると、水呑妙顕寺の法華一乗妙性は、元亨三年以前に妙顕寺を開創していた事が確実となり、日像も同年以前に備後に下向して布教していた可能性が濃厚となった。

伝承と異なり、妙顕寺を創立した法華一乗妙性は、鎌倉時代末期の刀鍛治であった事が判明。水呑の刀鍛治の始原は、近辺の鞆や草戸千軒の刀鍛治の伝承記録より古くなり、以後水呑や草土から法華一乗を名乗る刀匠を輩出した。県内で確実に日像と関連があった寺院は広島の国前寺だけで、国前寺に日像が授与した曼陀羅本尊は暦応二年(一三三九)十二月である事から、国前寺の本尊より十九年も古い妙顕寺の本尊は県内最古の日蓮宗曼陀羅本尊であった。

備後地方の日蓮宗布教は通説では京都妙顕寺の二祖大覚妙実に依るとされてきたが、水呑の二寺院はいずれも大覚でなくて日像であった。

他に日像の曼陀羅本尊は、水呑妙顕寺に暦応五年(一三二九)三月、重顕寺にも暦応五年(一三四三)卯月八日と合わせ三幅を伝えている。

前記の本尊は日像の書体の特徴を示す「波振りの題目」で書かれており、県内の歴史専門家に全く知られていない文化財で、日像の備後弘通と同時に始まる水呑の法華信仰の歴史の古きを物語るものである。

二、石造髭題目(法界石)

日像は効果的な布教手段として、京都の七日に通じる街道に沿って七字の題日本尊「南無妙法蓮華経」を刻んだ石塔を建てたといわれ、京都からの西国街道に当る向日市の石塔寺には日像筆の角柱題目石塔(通称法界石)が現存する。以上が見ることの出来ない文化財である。

日蓮宗の髭題目は日蓮独特の書体で、文字の筆端を髭のように下方に伸ばしている。日蓮の弟子達は日蓮後続者として日蓮の髭題目に似せた髭題目を揮宅をして本尊として用いているが、日像の題目は筆の先端が揺れながら上方に伸びる珍しい書体で、その書体は「波振りの題目」と呼称されてきた。以後京都妙顕寺の歴代の住職に相伝継承された書体の波振りの題日は、五百余年経過して福山南部の鞆・田尻・水呑・多治米等で法界石に用いられた。

路傍や寺の近辺でよく見かけられる法界石は、誰でもが容易に見ることが出来る日蓮宗の文化財である。江戸時代中期以降に次第に多く建立され、江戸時代後期になると大法界石が各地に出現するのである。

福山地方で年代が判明する最古の法界石は、鐺冠日親の布教地として有名な熊野町の下組郷公民館前にあり、自然石の石塔には「南無妙法蓮華経 連弁 承応三午(一六五四)二月時正(彼岸)八日 山野敬白」と彫られ、高さ一二五cmある。

因みに承応三年の旧暦正月一日は、西暦に換算すると二月十七日に当たり、新暦の彼岸とほぼ一致する。

前記の法界石に関する通説は、日親上人が同地での辻説法を記念して建てたとの事であるが、中世に行われた辻説法の実態を知らない人の創作、通説と考えられる。日親は地方の農民には布教せず、布教の対象者は専ら有力な武士を中心に行った。辻説法が効果的に行われる場所は京都や鎌倉等で、人が多く居住した都市部を中心にして、経済力に恵まれた商工業者等に辻説法を行い信者を次第に増加させている。

福山旧市内にある大きさで主な法界石は、北吉津町実相寺の参道脇にある「安永五年(一七七六)五月」銘の角柱石塔で高さ約三三〇cm。南町妙法寺の境内にも同じ高さ約三三〇cm「亨和三大戴癸亥(一八〇三)七月二日」の角柱塔がある。北吉津町妙政寺(福山二代城主水野勝俊の菩提寺)の山門前には高さ約四六〇cm「文化丁丑夏(十四年・一八一七)四月」があり、建設当時は福山近辺では最大の角柱法界塔であった。

熊野町や水呑には各二十基余の法界石が見られる。江戸時代に福山と鞆を結んだ山道の往還、水呑の小水呑清水池北にある尖頭舟形法界石は水呑最古の塔で「南無妙法蓮華経法界 時延宝節二暦(一六七四)甲寅龍口五月初一日」銘があり、表には均整の取れた書体の「波揺りの題目」が見られる。

この尖頭舟形法界の造立には、この地に古くから祀られてきた自然石の題目石があったが、山の地すべりか何かの災害で題目石の下部が折損したために再建立した様で、再建の際には法華経三千部を唱え回向供養している。

三、法界石の大形化競争

水呑妙顕寺の仁王門下の参道脇にある角柱法界石(高さ約三八〇cm)は、妙顕寺が「維時寛政十己未(一七九八)三月十三日成」に建立した石塔で、建設当時は実相寺や妙法寺の法界石を抜き阿部領内最大であったが、十九年後に妙政寺が八〇cmも高い新塔を建立すると、トップは妙顕寺から妙政寺に移った。すると阿部領内日蓮宗三大寺院のひとつ、熊野町の常国寺も寺の面目を保つ為に一位の座奪回を企画し新塔を建立した。

常国寺「日親筆の文明十八年(一四八六)曼陀羅本尊が寺宝」仁王門前にある角柱法界石に「于時天保第二辛卯歳(一八三一)九月建立」と、妙政寺より十四年後に建立された法界石は、高さが約四七〇cmと妙政寺の法界石より約一〇cm高い法界石を建立。僅差であるが山田村三ケ村の檀家の総力を結集してトップの座奪取に成功した。

ところが財力があり大覚大僧正が西遊し、備後に最初の大法華堂(法宣寺)を建てゝ法華を弘法した事を誇る鞆町では四十余人が中心となり、五m弱の巨大な角柱法界石「天保三壬辰(一八三二)十一月中旬建立」を翌年建てゝトップを奪取した。場所は鞆町御幸の三叉路で南進すると大法華堂の法宣寺、北に進むと水呑の重顕寺と妙顕寺から福山の町に通じ、更に残りの道を登ると常国寺に達する要地であった。巨大な法界石の出現で巨大競争に終止符が打たれかと思われたが、翌年には不動と思われていた鞆も一位の座を追われ二位に転落する運命にあった。

水呑の村高は山田三ケ村の丁度半分程で、経済力を鞆と比較すると大人と子供以上の差があった。しかし、法華に対する信仰心は勝とも劣らなかった。山田と鞆の新造法界を凌駕する大法界の建設を企画した様で、妙顕寺の三四世慈翁院日灌が中心となって、水呑の中心地である浜の札場横に、水呑村民の総力を結集して高さ約六mの自然石の大法界石を建て、表に「南無妙法蓮華経日蓮大菩薩」横に「天保四癸巳年(一八三三)三月吉良辰」と刻んでいる。

鞆の法界より約一mも高い大法界を建立した事から、巨大法界石建立競争に終止符が打たれた。

法界石が大形化していく寺の順は、水呑妙顕寺から妙政寺となり、妙致寺から十数年後に常国寺に移ったが、常国寺も僅か一年で鞆町に抜かれ、不動と思われた鞆も一年で水呑村に抜かれてやっと沈静化した。

四、波瑶りの題目界石

安政三年(一八五六)の春は大早魃となった。水呑では重顕寺の三四世恵光院日迅が日像筆の曼陀羅本尊を用いて、雨乞いの折願をしたところ、降雨に恵まれ豊作となった。喜んだ村民は翌年高さ約四mの角柱法界石を建立、表の題日は数少ない「波振りの題目」が書かれており、雄渾な筆致の筆者は京都妙顕寺四七世の禎臻院日栖(一五二九~一六〇八)で、選定された建立場所は水呑小学校の南方の辻脇、同地は江戸時代の鞆と福山を結ぶ往還沿いにあった。

田尻の顕応寺は、寺伝に依ると元応二年(一三二〇)に創立された寺で開山は日像。安政七年T八六〇)四月に、寺の西方参道に高さ約二九〇cmの自然石の法界を建立、自然石の碑面一杯に書かれた「波振りの題目」は躍動しており、建立者は顕応寺の熱心な信者達で、建立場所は福山と鞆を結ぶ往還脇にあったが区画整理で場所が少し変わった。

枯死した天蓋松で有名な鞆の法宣寺の境内に「題目を三千万辺唱えた」事を契機に、高さ約二七五cmの角柱法界が建碑されている。文久元年(一八六一)十二月の建立で、題日は珍しい「波振りの題目」が書かれ、台座の下には法華経を一石に一字ずつ書写して埋納してある。

鞆の西方にある平漁港の波上場の先端に近い内港に、高さ約三mで中程が折損した角柱法界石がある。

海上を行き交う漁船は法界に安全を折りながら櫓を漕いだのであろうか、建立された年は元治元年(一八六四)十一月で、港と調和する「波振りの題目」石の下部は海水で色濃く変色しており、波上の上から揺れる波間に立つ「波振りの題目」を見ていると、青年僧日像が修行した酷寒の海での寒行が偲ばれる。

日蓮は入滅に臨んで日像に帝都開教を遺言した。その後日像は日蓮の遺命京都弘通を実現するため永仁元年(一二九三)末から、鎌倉の由比ヶ浜の海中で百日の寒行を行い、満願の日に東方海上の波が旭光に輝き「龍が踊る様な」光景をそのまま、題目に書き表したのが「波振りの題目」であった。日像が昇る朝日と共に得た海中での霊験題目が、五百七十年経過して備後の鞆の海中に建立されていたのである。

幕末になると、一般庶民の教養も次第に向上した様で、安政四年の水呑の「波振りの題目」雨迄い法界の側面に「君がよの 民を恵みて 久方の 雲より伝う 法の雨かな」と刻んでおり、七年後に建てられた鞆平港の「波振りの題目」の側面にも「汐みちて この磯近く ゆく舟は ここ路にとめる じるべなりけり」と二石塔に和歌が刻まれている。

多治米町の摩利支天の境内にある荒削りの角柱法界石にも「波振りの題目」が彫られている。慶応三年(一八六七)七月に建立され、建立者は猪原保平である。当初は多治米村西の「保平新涯」の外土手にあったとの事であるが、道路改修の際に摩利支天に移転したという。

以上幕末の約十ヶ年の間に五基の「波振りの題目」建立されており、題目の揮豪者を明らかにする事は出来ないが、京都妙顕寺の住職と推定して誤りないものと考えられる。

法界石を見ると何れも同じように見える法界石の題日であっても、建立に至る動機は夫々異なっており、多額の浄財をどのように集めたのか明らかにする史料は残されていない。

また、神社の一端を象微するのが石鳥居であるとすれば、寺の参道前にある法界石もまた神社の鳥居と同様に寺の外観を構成する重要な文化財で、参詣者は大きな題目の前を通ると仏との一体感や、成仏に至る大きな安心感を得ていたものと考えられる。

鞆 平港元治元年波振りの題目石
鞆 平港元治元年波振りの題目石
水呑小学校南 安政四年波振りの題目石
水呑小学校南 安政四年波振りの題目石
 
福山地方の日蓮宗文化財(法界石)https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/e4faba085ae73f2f82553ef80d82cbec.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/e4faba085ae73f2f82553ef80d82cbec-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:103号」より 小林 定市 一、秘蔵された文化財 熱烈な仏教信者を表現する言葉に、「備前法華に安芸門徒」という対象言葉があるが、その鎌倉新仏教の発祥地が沼隈半島であったという事実は今日まで殆ど知られていない。 浄土真宗光照寺系の研究は専門家によって解明が進められてきたが、日蓮宗の方は寺院創立と関係が深い曼佗羅本尊や創立時の史料が寺宝として秘蔵され、寺側もその寺宝類の重要性を充分把握していなかった事から、現在まで未公開寺宝として伝えられ、檀家の人達さえ知らない本尊や史料があった。 『福山市史』に依る中世仏教の日蓮宗に対する通説的な見解は、「日蓮宗はまず東国に広まったが、日蓮の末弟日像が嘉暦元年(一三二六)京都に妙顕寺を創設したのがきっかけとなって西国へも広まってきた。(途中略)備後地方には南北朝時代の初頭に日蓮宗が相当盛んになっていた」と記しているが、嘉暦元年以前に日蓮宗が京都から水呑に伝えられていた事を示す古文書が水呑の寺に秘蔵されていた。 水呑町の日蓮宗重顕寺は真言宗から日蓮宗に転宗した寺であった。同寺に伝えられた『諸宗問答口作集』に依ると、応長元年(一三一一)に日像の教化により真言宗から日蓮宗に改宗しており、その経緯に至る京都での事情を詳しく記している。 水呑の日蓮宗妙顕寺は、江戸時代初期頃の開創伝承に依ると、延文元年(一三五六)四月に創立された寺となっていた。しかし、先年初公開された寺宝の曼陀羅本尊の端書には「備後国西国妙顕寺建立本願、三原一乗妙性授与之、元亨三年(一三二三)三月十八日、日像(花押)」同四月八日、日像(花押)と、日像が三つ判を据えた本尊が公開された。元亨三年に妙顕寺が存在していたとすると、水呑妙顕寺の法華一乗妙性は、元亨三年以前に妙顕寺を開創していた事が確実となり、日像も同年以前に備後に下向して布教していた可能性が濃厚となった。 伝承と異なり、妙顕寺を創立した法華一乗妙性は、鎌倉時代末期の刀鍛治であった事が判明。水呑の刀鍛治の始原は、近辺の鞆や草戸千軒の刀鍛治の伝承記録より古くなり、以後水呑や草土から法華一乗を名乗る刀匠を輩出した。県内で確実に日像と関連があった寺院は広島の国前寺だけで、国前寺に日像が授与した曼陀羅本尊は暦応二年(一三三九)十二月である事から、国前寺の本尊より十九年も古い妙顕寺の本尊は県内最古の日蓮宗曼陀羅本尊であった。 備後地方の日蓮宗布教は通説では京都妙顕寺の二祖大覚妙実に依るとされてきたが、水呑の二寺院はいずれも大覚でなくて日像であった。 他に日像の曼陀羅本尊は、水呑妙顕寺に暦応五年(一三二九)三月、重顕寺にも暦応五年(一三四三)卯月八日と合わせ三幅を伝えている。 前記の本尊は日像の書体の特徴を示す「波振りの題目」で書かれており、県内の歴史専門家に全く知られていない文化財で、日像の備後弘通と同時に始まる水呑の法華信仰の歴史の古きを物語るものである。 二、石造髭題目(法界石) 日像は効果的な布教手段として、京都の七日に通じる街道に沿って七字の題日本尊「南無妙法蓮華経」を刻んだ石塔を建てたといわれ、京都からの西国街道に当る向日市の石塔寺には日像筆の角柱題目石塔(通称法界石)が現存する。以上が見ることの出来ない文化財である。 日蓮宗の髭題目は日蓮独特の書体で、文字の筆端を髭のように下方に伸ばしている。日蓮の弟子達は日蓮後続者として日蓮の髭題目に似せた髭題目を揮宅をして本尊として用いているが、日像の題目は筆の先端が揺れながら上方に伸びる珍しい書体で、その書体は「波振りの題目」と呼称されてきた。以後京都妙顕寺の歴代の住職に相伝継承された書体の波振りの題日は、五百余年経過して福山南部の鞆・田尻・水呑・多治米等で法界石に用いられた。 路傍や寺の近辺でよく見かけられる法界石は、誰でもが容易に見ることが出来る日蓮宗の文化財である。江戸時代中期以降に次第に多く建立され、江戸時代後期になると大法界石が各地に出現するのである。 福山地方で年代が判明する最古の法界石は、鐺冠日親の布教地として有名な熊野町の下組郷公民館前にあり、自然石の石塔には「南無妙法蓮華経 連弁 承応三午(一六五四)二月時正(彼岸)八日 山野敬白」と彫られ、高さ一二五cmある。 因みに承応三年の旧暦正月一日は、西暦に換算すると二月十七日に当たり、新暦の彼岸とほぼ一致する。 前記の法界石に関する通説は、日親上人が同地での辻説法を記念して建てたとの事であるが、中世に行われた辻説法の実態を知らない人の創作、通説と考えられる。日親は地方の農民には布教せず、布教の対象者は専ら有力な武士を中心に行った。辻説法が効果的に行われる場所は京都や鎌倉等で、人が多く居住した都市部を中心にして、経済力に恵まれた商工業者等に辻説法を行い信者を次第に増加させている。 福山旧市内にある大きさで主な法界石は、北吉津町実相寺の参道脇にある「安永五年(一七七六)五月」銘の角柱石塔で高さ約三三〇cm。南町妙法寺の境内にも同じ高さ約三三〇cm「亨和三大戴癸亥(一八〇三)七月二日」の角柱塔がある。北吉津町妙政寺(福山二代城主水野勝俊の菩提寺)の山門前には高さ約四六〇cm「文化丁丑夏(十四年・一八一七)四月」があり、建設当時は福山近辺では最大の角柱法界塔であった。 熊野町や水呑には各二十基余の法界石が見られる。江戸時代に福山と鞆を結んだ山道の往還、水呑の小水呑清水池北にある尖頭舟形法界石は水呑最古の塔で「南無妙法蓮華経法界 時延宝節二暦(一六七四)甲寅龍口五月初一日」銘があり、表には均整の取れた書体の「波揺りの題目」が見られる。 この尖頭舟形法界の造立には、この地に古くから祀られてきた自然石の題目石があったが、山の地すべりか何かの災害で題目石の下部が折損したために再建立した様で、再建の際には法華経三千部を唱え回向供養している。 三、法界石の大形化競争 水呑妙顕寺の仁王門下の参道脇にある角柱法界石(高さ約三八〇cm)は、妙顕寺が「維時寛政十己未(一七九八)三月十三日成」に建立した石塔で、建設当時は実相寺や妙法寺の法界石を抜き阿部領内最大であったが、十九年後に妙政寺が八〇cmも高い新塔を建立すると、トップは妙顕寺から妙政寺に移った。すると阿部領内日蓮宗三大寺院のひとつ、熊野町の常国寺も寺の面目を保つ為に一位の座奪回を企画し新塔を建立した。 常国寺「日親筆の文明十八年(一四八六)曼陀羅本尊が寺宝」仁王門前にある角柱法界石に「于時天保第二辛卯歳(一八三一)九月建立」と、妙政寺より十四年後に建立された法界石は、高さが約四七〇cmと妙政寺の法界石より約一〇cm高い法界石を建立。僅差であるが山田村三ケ村の檀家の総力を結集してトップの座奪取に成功した。 ところが財力があり大覚大僧正が西遊し、備後に最初の大法華堂(法宣寺)を建てゝ法華を弘法した事を誇る鞆町では四十余人が中心となり、五m弱の巨大な角柱法界石「天保三壬辰(一八三二)十一月中旬建立」を翌年建てゝトップを奪取した。場所は鞆町御幸の三叉路で南進すると大法華堂の法宣寺、北に進むと水呑の重顕寺と妙顕寺から福山の町に通じ、更に残りの道を登ると常国寺に達する要地であった。巨大な法界石の出現で巨大競争に終止符が打たれかと思われたが、翌年には不動と思われていた鞆も一位の座を追われ二位に転落する運命にあった。 水呑の村高は山田三ケ村の丁度半分程で、経済力を鞆と比較すると大人と子供以上の差があった。しかし、法華に対する信仰心は勝とも劣らなかった。山田と鞆の新造法界を凌駕する大法界の建設を企画した様で、妙顕寺の三四世慈翁院日灌が中心となって、水呑の中心地である浜の札場横に、水呑村民の総力を結集して高さ約六mの自然石の大法界石を建て、表に「南無妙法蓮華経日蓮大菩薩」横に「天保四癸巳年(一八三三)三月吉良辰」と刻んでいる。 鞆の法界より約一mも高い大法界を建立した事から、巨大法界石建立競争に終止符が打たれた。 法界石が大形化していく寺の順は、水呑妙顕寺から妙政寺となり、妙致寺から十数年後に常国寺に移ったが、常国寺も僅か一年で鞆町に抜かれ、不動と思われた鞆も一年で水呑村に抜かれてやっと沈静化した。 四、波瑶りの題目界石 安政三年(一八五六)の春は大早魃となった。水呑では重顕寺の三四世恵光院日迅が日像筆の曼陀羅本尊を用いて、雨乞いの折願をしたところ、降雨に恵まれ豊作となった。喜んだ村民は翌年高さ約四mの角柱法界石を建立、表の題日は数少ない「波振りの題目」が書かれており、雄渾な筆致の筆者は京都妙顕寺四七世の禎臻院日栖(一五二九~一六〇八)で、選定された建立場所は水呑小学校の南方の辻脇、同地は江戸時代の鞆と福山を結ぶ往還沿いにあった。 田尻の顕応寺は、寺伝に依ると元応二年(一三二〇)に創立された寺で開山は日像。安政七年T八六〇)四月に、寺の西方参道に高さ約二九〇cmの自然石の法界を建立、自然石の碑面一杯に書かれた「波振りの題目」は躍動しており、建立者は顕応寺の熱心な信者達で、建立場所は福山と鞆を結ぶ往還脇にあったが区画整理で場所が少し変わった。 枯死した天蓋松で有名な鞆の法宣寺の境内に「題目を三千万辺唱えた」事を契機に、高さ約二七五cmの角柱法界が建碑されている。文久元年(一八六一)十二月の建立で、題日は珍しい「波振りの題目」が書かれ、台座の下には法華経を一石に一字ずつ書写して埋納してある。 鞆の西方にある平漁港の波上場の先端に近い内港に、高さ約三mで中程が折損した角柱法界石がある。 海上を行き交う漁船は法界に安全を折りながら櫓を漕いだのであろうか、建立された年は元治元年(一八六四)十一月で、港と調和する「波振りの題目」石の下部は海水で色濃く変色しており、波上の上から揺れる波間に立つ「波振りの題目」を見ていると、青年僧日像が修行した酷寒の海での寒行が偲ばれる。 日蓮は入滅に臨んで日像に帝都開教を遺言した。その後日像は日蓮の遺命京都弘通を実現するため永仁元年(一二九三)末から、鎌倉の由比ヶ浜の海中で百日の寒行を行い、満願の日に東方海上の波が旭光に輝き「龍が踊る様な」光景をそのまま、題目に書き表したのが「波振りの題目」であった。日像が昇る朝日と共に得た海中での霊験題目が、五百七十年経過して備後の鞆の海中に建立されていたのである。 幕末になると、一般庶民の教養も次第に向上した様で、安政四年の水呑の「波振りの題目」雨迄い法界の側面に「君がよの 民を恵みて 久方の 雲より伝う 法の雨かな」と刻んでおり、七年後に建てられた鞆平港の「波振りの題目」の側面にも「汐みちて この磯近く ゆく舟は ここ路にとめる じるべなりけり」と二石塔に和歌が刻まれている。 多治米町の摩利支天の境内にある荒削りの角柱法界石にも「波振りの題目」が彫られている。慶応三年(一八六七)七月に建立され、建立者は猪原保平である。当初は多治米村西の「保平新涯」の外土手にあったとの事であるが、道路改修の際に摩利支天に移転したという。 以上幕末の約十ヶ年の間に五基の「波振りの題目」建立されており、題目の揮豪者を明らかにする事は出来ないが、京都妙顕寺の住職と推定して誤りないものと考えられる。 法界石を見ると何れも同じように見える法界石の題日であっても、建立に至る動機は夫々異なっており、多額の浄財をどのように集めたのか明らかにする史料は残されていない。 また、神社の一端を象微するのが石鳥居であるとすれば、寺の参道前にある法界石もまた神社の鳥居と同様に寺の外観を構成する重要な文化財で、参詣者は大きな題目の前を通ると仏との一体感や、成仏に至る大きな安心感を得ていたものと考えられる。  備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
詳しくは以下のリンクをご覧ください。 近世福山の歴史を学ぶ