三相撲取りの碑(福山出身の力士について)
「備陽史探訪:102号」より
小林 定市
福山市は、市制施行八五周年を記念して、大相撲福山場所を本年十月二〇・二一の両日、ローズアリーナにおいて開催出来るように準備を進められているようである。
日本には相撲の神話伝説が伝えられているが、神話は事実ではないらしく、古代から農民の祭りの神事として発展しており、政権が公家から武家に移ると、武士が戦場における組討ちの実践的武術として将軍上覧相撲を毎年盛大に催している。
江戸時代後期になると、寛政三年(一七九一)に開かれた勧進相撲に、将軍徳川家斉の初めての上覧相撲で相撲熱はいよいよ高まり「寛政黄金時代」を出現させた。福山地方でも当時以降に活躍した郷土力士の石碑が残されているが、次第に郷土の人達から忘れ去られようとしている。
外ヶ浦粂右衛門
水呑町の水呑小学校南の旧福山鞆県道辻脇に自然石の供養塔がある。
棹石に
南無妙法蓮華経 覺遊勢日助信士外ヶ浦粂右衛門
とあり、台石に世話方の名前と安政五年正月の刻字が見られる。総高は約二三五cm、棹高一八五cm。
外ヶ浦粂右衛門の怪力伝説は面白く伝えられているが、粂右衛門から数えて五代目の杉原悦太郎さんの家には、福山藩主阿部伊勢守正倫から拝領した羽織袴や刀が現存することから、阿部家御抱えの力士(士分扱い)だったものと推定される。
外ヶ浦関は、寛政二年(一七九〇)五月に大阪相撲の二段目から前頭二十九枚目に昇進し、寛政九年八月迄関取として活躍している。
最高位は寛政七年八月の西方前頭十枚日であった。同年の大阪番付には横綱はおらず、西方の大関は不出世の強力雷電為右衛門で以下関脇と小結が各々一名であった。
外ヶ浦粂右衛門供養塔
外ヶ島弥五郎
神辺町の上御領御野小学校北約三〇〇m、八丈岩登山口四ッ分辻にも自然石の石碑が見られる。
外ヶ島弥五郎 寛政九年(一七九七)巳七月九日 行年廿四寂 近村助力當村施主 安政四(一八五七)丁巳二月十一日 追善角行 一行上建 世話方若連中 勧進元清吉 差添人谷五郎
と刻まれ、総高は約二二〇cm、悼一六七cm。
外ヶ島弥五郎にも、外ヶ浦と同様に怪力伝承が伝えられている。
外ヶ島(藤井氏)が何時から外ヶ浦に弟子入りしたかを明らかにする史料は見当たらないが、外ヶ島が死亡した寛政九年の大阪番付を見ると、外ヶ浦は番付から消えており、二人が何らかの事件に巻き込まれたのか、それとも弟子を失った悲しさから帰郷したのか判然としない。
外ヶ島弥五郎石碑
外ヶ浦治兵衛
本之庄町の城北中学校の裏墓地にも移された角柱墓塔があり、
玄覚頭園信士 外ヶ浦門人 外ヶ浦治兵衛 三村氏性 行年四十三才寛政元年(一七八九)六月上一日性
天保二(一八三一)辛卯九月上三日没
と刻まれ、総高は約一八〇cmで、上質の御影石が用いられている。三村氏を性としていた外ヶ浦治兵衛は、師の四股名(しこな)を襲名したものとて考えられるが、別に己之助を名乗り最初の力士名は廿山(はたちやま)であった。
外ヶ浦治兵衛は深津郡川口村の三村一族の出身で、外ヶ浦治兵衛の姪タメの嫡男三村日修は、日蓮宗総本山身延山久遠寺の第七五世を勤めた。
外ヶ浦治兵衛が天保二年に死没するとその遺骸は、川口村の福山港入江の浚渫土砂捨て場に埋葬され後に墓が建てられると、その新涯地は何時しか廿山新涯と呼ばれるようになった、福山市の発展に伴い、廿山新涯も都市化が進み区画整理が進められると廿山の墓は無用の長物となり、先年何の関係も無い木之庄町の墓地に改葬された。
相撲番付から外ヶ島の活躍を明らかにする史料は見当たらないが、没後六十年経過した安政四年に、土地の若者が中心となって大阪から力士を呼び、盛大な追善供養相撲を営み碑を建立した。
外ヶ浦の墓は、水呑妙顕寺の墓地に建てられていたが、弟子外ヶ島の建碑運動を聞いてか、追善相撲の翌年に供養塔は建立された。当時の村人達は大阪で活躍した関取を村の名誉として尊敬し、人通りの最も多い場所に碑を建立して人生の手本としたようである。
https://bingo-history.net/archives/13007https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/b3c6aca2e3597b118ce7f8d6009e1c39.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/b3c6aca2e3597b118ce7f8d6009e1c39-150x100.jpg近世近代史「備陽史探訪:102号」より 小林 定市 福山市は、市制施行八五周年を記念して、大相撲福山場所を本年十月二〇・二一の両日、ローズアリーナにおいて開催出来るように準備を進められているようである。 日本には相撲の神話伝説が伝えられているが、神話は事実ではないらしく、古代から農民の祭りの神事として発展しており、政権が公家から武家に移ると、武士が戦場における組討ちの実践的武術として将軍上覧相撲を毎年盛大に催している。 江戸時代後期になると、寛政三年(一七九一)に開かれた勧進相撲に、将軍徳川家斉の初めての上覧相撲で相撲熱はいよいよ高まり「寛政黄金時代」を出現させた。福山地方でも当時以降に活躍した郷土力士の石碑が残されているが、次第に郷土の人達から忘れ去られようとしている。 外ヶ浦粂右衛門 水呑町の水呑小学校南の旧福山鞆県道辻脇に自然石の供養塔がある。 棹石に 南無妙法蓮華経 覺遊勢日助信士外ヶ浦粂右衛門 とあり、台石に世話方の名前と安政五年正月の刻字が見られる。総高は約二三五cm、棹高一八五cm。 外ヶ浦粂右衛門の怪力伝説は面白く伝えられているが、粂右衛門から数えて五代目の杉原悦太郎さんの家には、福山藩主阿部伊勢守正倫から拝領した羽織袴や刀が現存することから、阿部家御抱えの力士(士分扱い)だったものと推定される。 外ヶ浦関は、寛政二年(一七九〇)五月に大阪相撲の二段目から前頭二十九枚目に昇進し、寛政九年八月迄関取として活躍している。 最高位は寛政七年八月の西方前頭十枚日であった。同年の大阪番付には横綱はおらず、西方の大関は不出世の強力雷電為右衛門で以下関脇と小結が各々一名であった。 外ヶ浦粂右衛門供養塔 外ヶ島弥五郎 神辺町の上御領御野小学校北約三〇〇m、八丈岩登山口四ッ分辻にも自然石の石碑が見られる。 外ヶ島弥五郎 寛政九年(一七九七)巳七月九日 行年廿四寂 近村助力當村施主 安政四(一八五七)丁巳二月十一日 追善角行 一行上建 世話方若連中 勧進元清吉 差添人谷五郎 と刻まれ、総高は約二二〇cm、悼一六七cm。 外ヶ島弥五郎にも、外ヶ浦と同様に怪力伝承が伝えられている。 外ヶ島(藤井氏)が何時から外ヶ浦に弟子入りしたかを明らかにする史料は見当たらないが、外ヶ島が死亡した寛政九年の大阪番付を見ると、外ヶ浦は番付から消えており、二人が何らかの事件に巻き込まれたのか、それとも弟子を失った悲しさから帰郷したのか判然としない。 外ヶ島弥五郎石碑 外ヶ浦治兵衛 本之庄町の城北中学校の裏墓地にも移された角柱墓塔があり、 玄覚頭園信士 外ヶ浦門人 外ヶ浦治兵衛 三村氏性 行年四十三才寛政元年(一七八九)六月上一日性 天保二(一八三一)辛卯九月上三日没 と刻まれ、総高は約一八〇cmで、上質の御影石が用いられている。三村氏を性としていた外ヶ浦治兵衛は、師の四股名(しこな)を襲名したものとて考えられるが、別に己之助を名乗り最初の力士名は廿山(はたちやま)であった。 外ヶ浦治兵衛は深津郡川口村の三村一族の出身で、外ヶ浦治兵衛の姪タメの嫡男三村日修は、日蓮宗総本山身延山久遠寺の第七五世を勤めた。 外ヶ浦治兵衛が天保二年に死没するとその遺骸は、川口村の福山港入江の浚渫土砂捨て場に埋葬され後に墓が建てられると、その新涯地は何時しか廿山新涯と呼ばれるようになった、福山市の発展に伴い、廿山新涯も都市化が進み区画整理が進められると廿山の墓は無用の長物となり、先年何の関係も無い木之庄町の墓地に改葬された。 相撲番付から外ヶ島の活躍を明らかにする史料は見当たらないが、没後六十年経過した安政四年に、土地の若者が中心となって大阪から力士を呼び、盛大な追善供養相撲を営み碑を建立した。 外ヶ浦の墓は、水呑妙顕寺の墓地に建てられていたが、弟子外ヶ島の建碑運動を聞いてか、追善相撲の翌年に供養塔は建立された。当時の村人達は大阪で活躍した関取を村の名誉として尊敬し、人通りの最も多い場所に碑を建立して人生の手本としたようである。管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
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