【満員御礼】6月25日【バス例会】幕末の倉敷・玉島を歩く

【満員御礼】「幕末の倉敷・玉島を歩く」は好評につき、定員一杯となりました。現在はキャンセル待ちのみ受け付けております。

実施内容に変更がありますので、お間違えないようお気をつけください。

倉敷代官所襲撃事件を元にした司馬遼太郎の短編小説「倉敷の若旦那」に描かれた跡を辿ります

幕末の備中で起きた2つの事件、長州の奇兵隊百人による突然の倉敷代官所襲撃事件、隊長立石孫一郎は何と豪商大橋家の若旦那。また玉島では備中松山藩士百人余りが賊軍となり、嘆願の為隊長熊田恰が西爽亭次の間で自刀した。事件の跡を辿ります。玉島の柚木邸内にある西爽亭は菅茶山の命名。それぞれの町にのこるなまこ壁の蔵が続く美しい町並みの歴史、NHKブラタモリが見た倉敷とともに紐解いていきます。

【主な見学場所】

柚木邸(国登録有形文化財)(玉島)
玉島を領していた備中松山藩主の御座所になっていたのが庄屋柚木家の西爽亭、藩主の他にもいろいろな人物が到来し、安中藩士だった新島襄も一時滞在した。
古い町並み(玉島)
玉島が干拓され、港が作られた時、羽黒神社に至る堤防の上に家が立ち並び、備中有数の商港として繁栄、虫籠窓・海鼠壁の商家や土蔵が残り、県の町並み保存地区に指定されている。
羽黒神社(玉島)
備中松山藩主水谷勝隆が玉島新田開拓の際に、出羽の国羽黒大権現(山形県)を勧請して建立。勝隆の子勝宗が寛文5(1665)年に社殿を改築。本殿が嘉永(1851)年。熊田恰を祀る熊田神社、絵馬殿、北海道や北陸、四国の商人が寄進した玉垣などがある。
阿智神社(倉敷)
鶴形山(もと妙見山)の山上に有り、江戸時代は妙見宮と呼ばれ、「妙見菩薩」が倉敷村の鎮守として祀られた。明治の神仏分離令により現社名に。祭神は筑前宗像大社の「三女神」と城山八幡の「応神天皇」に。境内に末社・石造物等多くあり。代官所襲撃の時は、奇兵隊が大砲をここに据え、代官所に玉を撃ち込んだ。
大橋家住宅(国重文)(倉敷)
先祖は豊臣氏に仕えた武士、明暦年間(1655~)に倉敷の中島へ、宝永 (1704~) 年間に現在地に。代々中島屋平右衛門と称した。金融業・塩田経営・地主経営などで財を成し、新録派25家の一つに。母屋は寛政8(1796)年の築、新座敷には「六々亭」と呼ばれた由来を書いた三島中州の書、米蔵には犬養毅からの書簡などを展示。幕末、立石家から養子に入った敬之助が騒動を起こした。
観龍寺(倉敷)
真言宗、本尊大日如来。元は境内南下寛永元(1624)年、現在地に大島家が本堂を寄進し移転。宝永3(1706)年の宗門帳では倉敷村住民の半数が檀家に。火災の後、寛永2(1749)年、現本堂を始めとした建物を再建した。山門を入って右手の妙見堂には元妙見宮にあった「妙見菩薩」が祀られている。他に境内には多くの祠や石造物がある。襲撃事件の後、奇兵隊の屯所となり、山門左の小門の鴨居には槍の跡が残る。
アイビースクエア・倉敷代官陣屋跡(倉敷)
アイビースクエアの敷地が江戸時代代官陣屋があった所。 寛保3(1746)年代官千草清右衛門は代官陣屋を完成。北を除いて白壁の高塀に囲まれており、直接外
堀に面していた。正門は南、直進すると玄関があり、西が役所と御白州、東に代官居宅と座敷。さらに教諭所、明倫館があった。支配は山陽から四国まで及んだ。
井上家住宅(倉敷)
江戸初期より、代官所から町役人に任命された古録派13家の一つ。宮崎屋と称し、新田開発、酒屋、地主を兼ねた特権商人であった。建物は元禄年間 (1688~)かそれ以前とされ、美観地区最古であり、古録派では唯一現存する建物。現在リニューアルされて公開中。
実施日6月25日(日)雨天決行
集合時間午前9時00分
解散時間午後4時半頃
集合場所JR 福山駅南口(アイネス前)JR福山駅サンステ南 小型・中型バス乗車場
参加費会員:4,500円
一般:5,000円
募集人数45名27名(最少催行人数20 → 23名)
講師河本正二(近世近代史部会長)
申込方法ネットでのお申込みは下の「参加する」をクリック!
その他 昼食(弁当・各自)、雨天決行

参加する

行事に関するご質問などは「お問い合わせフォーム」より、お問い合わせください。

【JR福山駅サンステ南 小型・中型バス乗車場】

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2020/11/IMG_3498-1024x683.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2020/11/IMG_3498-150x100.jpg管理人行事案内バックナンバー【満員御礼】「幕末の倉敷・玉島を歩く」は好評につき、定員一杯となりました。現在はキャンセル待ちのみ受け付けております。 実施内容に変更がありますので、お間違えないようお気をつけください。 倉敷代官所襲撃事件を元にした司馬遼太郎の短編小説「倉敷の若旦那」に描かれた跡を辿ります 幕末の備中で起きた2つの事件、長州の奇兵隊百人による突然の倉敷代官所襲撃事件、隊長立石孫一郎は何と豪商大橋家の若旦那。また玉島では備中松山藩士百人余りが賊軍となり、嘆願の為隊長熊田恰が西爽亭次の間で自刀した。事件の跡を辿ります。玉島の柚木邸内にある西爽亭は菅茶山の命名。それぞれの町にのこるなまこ壁の蔵が続く美しい町並みの歴史、NHKブラタモリが見た倉敷とともに紐解いていきます。 【主な見学場所】 柚木邸(国登録有形文化財)(玉島) 玉島を領していた備中松山藩主の御座所になっていたのが庄屋柚木家の西爽亭、藩主の他にもいろいろな人物が到来し、安中藩士だった新島襄も一時滞在した。 古い町並み(玉島) 玉島が干拓され、港が作られた時、羽黒神社に至る堤防の上に家が立ち並び、備中有数の商港として繁栄、虫籠窓・海鼠壁の商家や土蔵が残り、県の町並み保存地区に指定されている。 羽黒神社(玉島) 備中松山藩主水谷勝隆が玉島新田開拓の際に、出羽の国羽黒大権現(山形県)を勧請して建立。勝隆の子勝宗が寛文5(1665)年に社殿を改築。本殿が嘉永(1851)年。熊田恰を祀る熊田神社、絵馬殿、北海道や北陸、四国の商人が寄進した玉垣などがある。 阿智神社(倉敷) 鶴形山(もと妙見山)の山上に有り、江戸時代は妙見宮と呼ばれ、「妙見菩薩」が倉敷村の鎮守として祀られた。明治の神仏分離令により現社名に。祭神は筑前宗像大社の「三女神」と城山八幡の「応神天皇」に。境内に末社・石造物等多くあり。代官所襲撃の時は、奇兵隊が大砲をここに据え、代官所に玉を撃ち込んだ。 大橋家住宅(国重文)(倉敷) 先祖は豊臣氏に仕えた武士、明暦年間(1655~)に倉敷の中島へ、宝永 (1704~) 年間に現在地に。代々中島屋平右衛門と称した。金融業・塩田経営・地主経営などで財を成し、新録派25家の一つに。母屋は寛政8(1796)年の築、新座敷には「六々亭」と呼ばれた由来を書いた三島中州の書、米蔵には犬養毅からの書簡などを展示。幕末、立石家から養子に入った敬之助が騒動を起こした。 観龍寺(倉敷) 真言宗、本尊大日如来。元は境内南下寛永元(1624)年、現在地に大島家が本堂を寄進し移転。宝永3(1706)年の宗門帳では倉敷村住民の半数が檀家に。火災の後、寛永2(1749)年、現本堂を始めとした建物を再建した。山門を入って右手の妙見堂には元妙見宮にあった「妙見菩薩」が祀られている。他に境内には多くの祠や石造物がある。襲撃事件の後、奇兵隊の屯所となり、山門左の小門の鴨居には槍の跡が残る。 アイビースクエア・倉敷代官陣屋跡(倉敷) アイビースクエアの敷地が江戸時代代官陣屋があった所。 寛保3(1746)年代官千草清右衛門は代官陣屋を完成。北を除いて白壁の高塀に囲まれており、直接外 堀に面していた。正門は南、直進すると玄関があり、西が役所と御白州、東に代官居宅と座敷。さらに教諭所、明倫館があった。支配は山陽から四国まで及んだ。 井上家住宅(倉敷) 江戸初期より、代官所から町役人に任命された古録派13家の一つ。宮崎屋と称し、新田開発、酒屋、地主を兼ねた特権商人であった。建物は元禄年間 (1688~)かそれ以前とされ、美観地区最古であり、古録派では唯一現存する建物。現在リニューアルされて公開中。 実施日 6月25日(日)雨天決行 集合時間 午前9時00分 解散時間 午後4時半頃 集合場所 JR 福山駅南口(アイネス前) → JR福山駅サンステ南 小型・中型バス乗車場 参加費 会員:4,500円 一般:5,000円 募集人数 45名 → 27名(最少催行人数20 → 23名) 講師 河本正二(近世近代史部会長) 申込方法 ネットでのお申込みは下の「参加する」をクリック! その他  昼食(弁当・各自)、雨天決行 参加する 行事に関するご質問などは「お問い合わせフォーム」より、お問い合わせください。 【JR福山駅サンステ南 小型・中型バス乗車場】備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い