『美作の王墓とホルモンうどんの旅』バス例会
12月5日(日)朝8時福山駅前北ロバス停でバスに乗る。
総社の高速道で見た岡山県立大学のキャンパス。
中国山地に入って行くとー面に霧が出ていた。
SAで休憩をする。
津山市久米町の三成古墳に向う。真言宗寒山寺の標柱がある。
寒山寺の山門を見ながら右の道を進む。
境内に忠魂碑があった。
寺の裏山に久米三成4号古墳がある。網本さんか説明しながら進んで行く。
後円部に入って行く。昭和52年に墓地造成中に発見された。長さ35mの前方後円墳である。
三成古墳についての説明板。
くびれ部分から後円部の墳丘に上がって行く。
ここが後円部の頂上。古墳は4世紀末から5世紀初めのものである。
前方部に行く。
前方部第二主体部に竪穴式石棺がある。
第ニ主体部の墳丘を見る。
第四主体部を見る。
左が第三主体部で表示がある。右は第五主体部である。いずれも前方部にある。
前方部の石棺。第一主体部。壮年~熟年の男性と壮年の女性の人骨があった。
古墳を寺まで下ったら民家の庭に「三成のヒイラギ」があった。
また農家の軒に荷車の車体が置かれていた。
美和山古墳群の入口。美作地方最大級の古墳が津山市二宮にある。この古墳群には前方後円墳1基と円墳3基がある。
入ロより進むと古墳群の説明板がある。
写りが悪いが美和山古墳群の配置図である。
二号墳の横を通って行く。
ここがニ号墳である。径34m・高さ6.5mの円墳である。
丸くなっているのがすぐ分かる円墳のニ号墳である。
美和山二号墳説明板。円墳で前期に築造されたと考えられる。
六号墳。調査で新たに確認されたもので直径17mの円墳と書かれている。
美和山古墳群の景観図。
進むと前方後円墳のー号墳が見えて来た。
美和山古墳一号墳の後円部を見る。
後円部の墳丘に登る。説明板には「前方部を西に向けた前方後円墳で全長83mあり、美作地方最大級の古墳である。」
前方後円墳だが、いびつな形をしている。左の前方部と右の後円部の両側に土塁があり、矢印の下に井戸がある。いずれも山城に使われたためである。
後円部を見る。径50m高さ9mである。
くびれた部分から墳丘に上がって行く。
後円部から見た前方部の形。前方部の幅30m、高さ5mある。
後円部から見ると、前方部の形がよくわかる。
後円部に上がって周囲の風景を眺める。
後円部のすぐ下を見る。左の方向に土塁がある。
これが山城として使われた時の土塁跡である。
この平の部分が郭跡だと考えられる。
この平坦地も郭跡か?
前方部の土塁跡。
葺石が一部残っていた。子どもの頭大の河原石である。
美和山城の後円部の土塁跡、と書かれた説明板。
墳丘下の土塁跡を見る。土塁の形がよくわかる。
土塁跡から後円部を見る。
右が後円部で、左向こうに少し低くなっている前方部がよく分かる。
ニ号墳の南側にある三号墳を見る。
南側から見た三号墳。径36m、高さ6.5mの円墳である。
二号墳の葺石を見る。
B級グルメのホルモンうどんを食べに向う。途中で見た川と町並み。
川の上流方向と土手道を走る車。
右のこの焼肉屋の店でホルモンうどんを食べに入った。道を真っ直ぐ進むと鳥取・智頭方向である。
ホルモンうどんを食べ終わり、店の前に出た。向こうが津山市の中心街方向である。
焼肉屋の西向こうに進むと姫新線の東津山駅のホームがあった。
その先に東津山駅があった。無人駅だった。
駅広場の横にあった記念碑。「昭和十七年十月十四日 鉄道開通七十周年記念」と刻まれており、元鉄道大臣の名があった。
横には「昭和十七年十二月八日大東亜戰争勃発一周年建之」とあった。
無人駅のホームの風景。
ホームから東方向を見る。
ホームの西方向(津山駅)方向を見る。
東津山駅前の風景。
「つやま」とあるマンホールの蓋。津山らしい桜の花が描かれていた。
中心に「大」という文字か、「いかり」にも見えるマンホールのふ蓋。絵柄は同じく桜である。
出雲街道の町屋が連参っている風景。ここから進んで行く。
町並みに入って行くが、まだ古い町並みは見えない。
古い町並み見ながらを行く。この先を左に折れる。
カギ形に折れている道。城下町ではよく見かける道の作りである。
このあたりから古い民家が目立ってきた。
二階に突き出た屋根。煙だしの屋根である。
古い家だが今は車庫になっている。
瓦屋小路の標識がある。こうした小路歩きは趣きがある。
このような空き地もあった。左に昔の倉が見える。
城東観光案内地図。
古い民家が続く。
東美濃屋小路。
立派な民家が連なっている。
後ほど「城東むかし町屋」に見学に入る。
町屋の中庭風景。
この先にも古い町や風景が続く。これより向こうには行かず、ここを右に入る。
新しくなった津山洋学資料館がある。
進むと「薬草の小径」と書かれた表示があり、薬草が植えられていた。
植物好きの女性が眺めていた。
新しくなった洋学資料館の玄関。
津田眞道先生の胸像。江戸に出て箕作阮甫、伊藤玄朴に蘭学を、佐久間象山に兵学を学ぶ。文久ニ年オランダに留学し、帰国後『泰西国法論』を著す。
箕作阮甫先生像。江戸に出て宇田川榛斎に従い蘭学を立てて医学を究め、進んで語学・地理・歴史・地学・兵学・造船・兵器等にわたり研鑽を重ね、その翻訳著述はニ百巻にも及んだ。また「蕃書調所」開成所の教授となり、種痘館創設を提唱して医学所設立を開き後進の啓発育成に尽くした。
宇田川榕菴先生像。寛政十年大垣藩医江沢養樹の長男として江戸に生まれる。十四歳にして江戸蘭学界の津山藩医宇田川玄真の養子になり蘭学に志を立てる。幕府天文台の訳官にも登用され、蘭医シーボルトとも交友をもった。我国最初の植物学書「植学啓原」や、わが国最初の化学書「舎密開宗」を著し「日本近大科学の生みの親」と称される。
宇田川玄随先生像。杉田玄白・前野良沢・大槻玄沢らと交わり、蘭学を志す。寛政五年オランダ人内科医ヨハネス・デ・エルテンの西洋内科書を翻訳し、それを『西説内科撰要』として刊行した。これによりわが国近代内科学の礎となり、また津山洋学の始祖ともなった。
宇田川玄真先生像。明和六年伊勢国安岡家に生まれる。津山藩医宇田川玄随に師事。江戸時代のベストセラー外科書『和蘭内景医範提綱』のほか『和蘭薬鏡』 『遠西医方名物考』などの薬学書を著す。文化十年幕府天文台の翻訳員に登用され「ショメール百科全書』の翻訳に携わる。坪井信道、箕作阮甫、緒方洪庵ら、多くの門弟を育成し、蘭学中期の大立者と称された。
洋学資料館から西方向の町並みを見る。
城東むかし町屋に入る。ここは旧梶村宅住宅である。
入ると土間に井戸と「高取村警防團第四部」と書かれた消防ポンプが置かれてあった。
中に入って行くと洋風の建物があった。
さらに進むと中庭があり蔵があった。
行く時こ外から覗いた庭を中から見た。
ロケ風景の写真と作州織りの織機があった。
帰っていく途中で見た町並みの風景。
バスから津山の市街と川の風景を見る。
土手道の風景。
観音寺の山門。天安年間に比叡山の第三祖慈覚大師によって創建された。
ここから境内に入って行く。現在地には慶長五年に移転築造された。
天台宗弘誓山観音寺の説明板。
境内に入り庭と庫裡(右)と左奥の本堂を観る。
これが本堂である。初め古墳上に建てられたいたが、寛文年間の初め焼失し寛文六年に再建した。
https://bingo-history.net/archives/21130https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2019/02/CCI_000110_31.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2019/02/CCI_000110_31-150x100.jpg活動報告12月5日(日)朝8時福山駅前北ロバス停でバスに乗る。 総社の高速道で見た岡山県立大学のキャンパス。 中国山地に入って行くとー面に霧が出ていた。 SAで休憩をする。 津山市久米町の三成古墳に向う。真言宗寒山寺の標柱がある。 寒山寺の山門を見ながら右の道を進む。 境内に忠魂碑があった。 寺の裏山に久米三成4号古墳がある。網本さんか説明しながら進んで行く。 後円部に入って行く。昭和52年に墓地造成中に発見された。長さ35mの前方後円墳である。 三成古墳についての説明板。 くびれ部分から後円部の墳丘に上がって行く。 ここが後円部の頂上。古墳は4世紀末から5世紀初めのものである。 前方部に行く。 前方部第二主体部に竪穴式石棺がある。 第ニ主体部の墳丘を見る。 第四主体部を見る。 左が第三主体部で表示がある。右は第五主体部である。いずれも前方部にある。 前方部の石棺。第一主体部。壮年~熟年の男性と壮年の女性の人骨があった。 古墳を寺まで下ったら民家の庭に「三成のヒイラギ」があった。 また農家の軒に荷車の車体が置かれていた。 美和山古墳群の入口。美作地方最大級の古墳が津山市二宮にある。この古墳群には前方後円墳1基と円墳3基がある。 入ロより進むと古墳群の説明板がある。 写りが悪いが美和山古墳群の配置図である。 二号墳の横を通って行く。 ここがニ号墳である。径34m・高さ6.5mの円墳である。 丸くなっているのがすぐ分かる円墳のニ号墳である。 美和山二号墳説明板。円墳で前期に築造されたと考えられる。 六号墳。調査で新たに確認されたもので直径17mの円墳と書かれている。 美和山古墳群の景観図。 進むと前方後円墳のー号墳が見えて来た。 美和山古墳一号墳の後円部を見る。 後円部の墳丘に登る。説明板には「前方部を西に向けた前方後円墳で全長83mあり、美作地方最大級の古墳である。」 前方後円墳だが、いびつな形をしている。左の前方部と右の後円部の両側に土塁があり、矢印の下に井戸がある。いずれも山城に使われたためである。 後円部を見る。径50m高さ9mである。 くびれた部分から墳丘に上がって行く。 後円部から見た前方部の形。前方部の幅30m、高さ5mある。 後円部から見ると、前方部の形がよくわかる。 後円部に上がって周囲の風景を眺める。 後円部のすぐ下を見る。左の方向に土塁がある。 これが山城として使われた時の土塁跡である。 この平の部分が郭跡だと考えられる。 この平坦地も郭跡か? 前方部の土塁跡。 葺石が一部残っていた。子どもの頭大の河原石である。 美和山城の後円部の土塁跡、と書かれた説明板。 墳丘下の土塁跡を見る。土塁の形がよくわかる。 土塁跡から後円部を見る。 右が後円部で、左向こうに少し低くなっている前方部がよく分かる。 ニ号墳の南側にある三号墳を見る。 南側から見た三号墳。径36m、高さ6.5mの円墳である。 二号墳の葺石を見る。 B級グルメのホルモンうどんを食べに向う。途中で見た川と町並み。 川の上流方向と土手道を走る車。 右のこの焼肉屋の店でホルモンうどんを食べに入った。道を真っ直ぐ進むと鳥取・智頭方向である。 ホルモンうどんを食べ終わり、店の前に出た。向こうが津山市の中心街方向である。 焼肉屋の西向こうに進むと姫新線の東津山駅のホームがあった。 その先に東津山駅があった。無人駅だった。 駅広場の横にあった記念碑。「昭和十七年十月十四日 鉄道開通七十周年記念」と刻まれており、元鉄道大臣の名があった。 横には「昭和十七年十二月八日大東亜戰争勃発一周年建之」とあった。 無人駅のホームの風景。 ホームから東方向を見る。 ホームの西方向(津山駅)方向を見る。 東津山駅前の風景。 「つやま」とあるマンホールの蓋。津山らしい桜の花が描かれていた。 中心に「大」という文字か、「いかり」にも見えるマンホールのふ蓋。絵柄は同じく桜である。 出雲街道の町屋が連参っている風景。ここから進んで行く。 町並みに入って行くが、まだ古い町並みは見えない。 古い町並み見ながらを行く。この先を左に折れる。 カギ形に折れている道。城下町ではよく見かける道の作りである。 このあたりから古い民家が目立ってきた。 二階に突き出た屋根。煙だしの屋根である。 古い家だが今は車庫になっている。 瓦屋小路の標識がある。こうした小路歩きは趣きがある。 このような空き地もあった。左に昔の倉が見える。 城東観光案内地図。 古い民家が続く。 東美濃屋小路。 立派な民家が連なっている。 後ほど「城東むかし町屋」に見学に入る。 町屋の中庭風景。 この先にも古い町や風景が続く。これより向こうには行かず、ここを右に入る。 新しくなった津山洋学資料館がある。 進むと「薬草の小径」と書かれた表示があり、薬草が植えられていた。 植物好きの女性が眺めていた。 新しくなった洋学資料館の玄関。 津田眞道先生の胸像。江戸に出て箕作阮甫、伊藤玄朴に蘭学を、佐久間象山に兵学を学ぶ。文久ニ年オランダに留学し、帰国後『泰西国法論』を著す。 箕作阮甫先生像。江戸に出て宇田川榛斎に従い蘭学を立てて医学を究め、進んで語学・地理・歴史・地学・兵学・造船・兵器等にわたり研鑽を重ね、その翻訳著述はニ百巻にも及んだ。また「蕃書調所」開成所の教授となり、種痘館創設を提唱して医学所設立を開き後進の啓発育成に尽くした。 宇田川榕菴先生像。寛政十年大垣藩医江沢養樹の長男として江戸に生まれる。十四歳にして江戸蘭学界の津山藩医宇田川玄真の養子になり蘭学に志を立てる。幕府天文台の訳官にも登用され、蘭医シーボルトとも交友をもった。我国最初の植物学書「植学啓原」や、わが国最初の化学書「舎密開宗」を著し「日本近大科学の生みの親」と称される。 宇田川玄随先生像。杉田玄白・前野良沢・大槻玄沢らと交わり、蘭学を志す。寛政五年オランダ人内科医ヨハネス・デ・エルテンの西洋内科書を翻訳し、それを『西説内科撰要』として刊行した。これによりわが国近代内科学の礎となり、また津山洋学の始祖ともなった。 宇田川玄真先生像。明和六年伊勢国安岡家に生まれる。津山藩医宇田川玄随に師事。江戸時代のベストセラー外科書『和蘭内景医範提綱』のほか『和蘭薬鏡』 『遠西医方名物考』などの薬学書を著す。文化十年幕府天文台の翻訳員に登用され「ショメール百科全書』の翻訳に携わる。坪井信道、箕作阮甫、緒方洪庵ら、多くの門弟を育成し、蘭学中期の大立者と称された。 洋学資料館から西方向の町並みを見る。 城東むかし町屋に入る。ここは旧梶村宅住宅である。 入ると土間に井戸と「高取村警防團第四部」と書かれた消防ポンプが置かれてあった。 中に入って行くと洋風の建物があった。 さらに進むと中庭があり蔵があった。 行く時こ外から覗いた庭を中から見た。 ロケ風景の写真と作州織りの織機があった。 帰っていく途中で見た町並みの風景。 バスから津山の市街と川の風景を見る。 土手道の風景。 観音寺の山門。天安年間に比叡山の第三祖慈覚大師によって創建された。 ここから境内に入って行く。現在地には慶長五年に移転築造された。 天台宗弘誓山観音寺の説明板。 境内に入り庭と庫裡(右)と左奥の本堂を観る。 これが本堂である。初め古墳上に建てられたいたが、寛文年間の初め焼失し寛文六年に再建した。 管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会